第三十六話
倒れそうになる身体を気力で支え、大きく深呼吸すると、祐一はしゃがみ結菜に視線を合わせた。
「よし、ママに、会いに行こうか」
努めて優しい声を出す。それが意味することを、結菜は何もわかっていない。
「いく! パパ、はやく!」
楽しそうな声。その場で鳴る靴の音。その音たちが、祐一の胸を刺す。
――もう、戻れなくてもいいかもしれない。
拳を握りしめ、祐一は返事もしないまま、走り出した結菜の後を追いかける。
何度も見てきた掲示板。いきに見たはずの貼り紙が、一枚残らずなくなっていた。『自分たちには、もう不要である』ことを理解し、掲示板の前を離れた。
胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。外へは出られない。出ても戻される。循環する街の構造そのものが「出口」を拒絶している。
戻された場所は、結局いつもと同じエントランス。
逃げ場がないなら、選ぶしかない。繰り返す日常に留まるか、袋小路へあえて進むか。
視線を上げると、エントランスの片隅でエレベータの扉が閉じかけていた。金属の表面が呼吸のように僅かに膨らみ、また戻る。その一拍ごとに「来い」と囁いているように見える。
何度も見た光景。異質だった。恐怖だった。でも今は、それが安堵をもたらす。
「……結菜」
声を潜め、祐一は娘を抱き寄せた。
「結菜は、ママがどこにいるかわかる?」
あの、目の奥のない楓が、本物だとしたら。
結菜は黙って頷いた。知らないうちに、その瞳は涙に濡れていた。
「いまからあうんだよ!」
自ら言わなくてもよい安心感と、幼心に無理をさせていた罪悪感がせめぎ合う。結果、罪悪感が勝った。娘の涙に勝てなかった。
「ごめんな結菜。パパも、ママに会いたいんだ」
「うん」
「だから、一緒に会いに行こう」
「うん」
瞳が、まだ涙で濡れているのに、そこに怯えよりも確かな光が宿っている。
「エレベータ、きてるよ」
結菜の指が強張った。同時に、祐一の指も強張る。
「本当だね。パパたちを待ってたのかな」
「そうなのかな。……ママが、むかえにきてくれたのかな」
「そうかもしれないね。……それなら、待たせちゃいけないな」
「うん。パパ、いこ」
二人はエレベータの前に立った。
――チン。
乾いた到着音が耳を打つ。既にエレベータは止まっていて、扉も開いていたのに鳴る音は、自分たちを歓迎する音だと祐一は感じた。
全開になった扉の奥は、空っぽだった。だが空気は今までで一番濃い。触れなくてもわかる。無数の声が飲み込まれた直後のような重さが充満している。
――『乗りますか?』
間違いなく、楓の声だった。結菜が祐一の顔を見る。だが、祐一は首を横に振った。
結菜を抱え、祐一は一歩踏み入れた。靴底が鉄板に触れた瞬間、胸が圧縮される。結菜を抱き寄せ、もう一歩。扉が背後で閉じる。
「……」
祐一は息を整えた。言葉は出さない。
本来なら「失礼します」の一声で空気が解放されるはずだ。だが沈黙を貫く。もうその『本来』から、自分たちはとっくに外れてしまった。
表示盤の『1』が一瞬だけ滲み、表示だけ最上階へと進む。そのまま本来の祐一たちの住む階『7』を示し、それから『6』へ落ちると『5』『4』『3』……と順当に降りていく。
『7』を指したのは、せめてもの餞なのかもしれない。どうでもいいことだけ、頭に浮かべることにした。
遂に――『B』の文字が灯った。
内部の空気が膨張し、壁が低く唸った。祐一は呼吸を止め、結菜を強く抱きしめる。結菜は祐一を抱き締め返す、顔を肩に埋めて。
沈黙が、箱の内側に深く食い込んでいった。
しかし、扉は開かなかった。
文字は『B』を示したまま、一向に変わらない。それどころか、辺りを見回し始めると足元がふわっと浮き上がり、また上昇を始めた。
扉は開きそうにない。数字は増えるが、止まりそうにもない。
仕方なく、祐一は結菜を床へ下ろすと、自分の服を握っているよう指示し、壁やボタンを触り始めた。
エレベータの内部は、昨日よりも広く見えた。壁の金属板は四方を囲む檻のはずなのに、奥行きが少しずつ伸びているようで、立っている位置の感覚が掴めない。祐一と結菜は隅に寄り、互いの手を固く握り合った。
表示盤はやがて「7」を示したまま、しばらく動かなかった。だが、静止しているはずなのに、内部の空気は呼吸をしている。膨らみ、萎み、また膨らむ。鉄の壁の合わせ目から、ごく細い白い線がしみ出し、すぐに消えていく。そのたびに、結菜の肩がびくんと震えた。
最初の「乗客」が現れたのは、ほんの一瞬だった。
扉が閉じ切った鋼の平面に、人の影がふっと浮かんだ。顔はなく、頭と胴と四肢だけがぼんやりとした濃淡で刻まれている。衣服も、体温も、声もない。ただ「人の形」という記号だけをまとって、そこに立っている。祐一は息を止め、影と自分の距離を測った。影は一歩分だけ近づいてきて、床に濡れた足跡を落とした。だが次の瞬間にはもう消えている。
それから、二人目、三人目。
壁からにじみ出るように、同じような「顔のない乗客」が増えていく。どれも輪郭だけで、誰なのか特定できない。だが祐一の記憶の中の何か――昨日すれ違った住人、買い物帰りの主婦、掲示板の前で立ち話していた男女――そのどれとも重なる気配をまとっていた。消えた彼らが、ここで再び姿を得ているのだ。
「……パパ」
結菜が小さな声で袖を引く。
「このひとたち……」
言葉の続きはなかった。言わなくても分かる。――ここにいるのはきっと「よくあること」で消えた住人たち。マンションのエレベータに飲み込まれ、ノックの後にドアを開けたと刻まれた者たち。
次の瞬間、影たちの間から、別の濃さが滲み出した。頬の線、髪の分け目、唇の丸み。その輪郭は曖昧さを許さない。結菜の目が見開かれる。
「ママ?」
それは、楓の影だった。
楓の影は、他の「顔のない乗客」とは違っていた。
昨日見た、楓だと思った影は、おそらく楓ではなかった。自分たちをこの場に呼ぶための餌だったのではと、祐一は歯噛みした。
壁から浮かび上がった瞬間に、髪の毛の一本一本までが細く揺れ、唇の端に微かな笑みの形が宿っている。頬の丸みや目の窪みも、曖昧ではなかった。昨日は空洞になっていた瞳孔部分に、間違いなく楓の瞳があった。すべてが楓本人を指していた。
結菜は思わず一歩踏み出しかけた。小さな靴のつま先が鉄板を擦る。
「ママ!」
その呼び声は、鋭い刃のように祐一の胸を突いた。声が空気を切り裂いた瞬間、エレベータ全体が深く沈み込み、鋼の壁がひと呼吸ぶん大きく膨らんだ。
「駄目だ!」
祐一は結菜の口を掌で塞ぎ、もう一方の腕で強く抱き寄せる。娘の身体が驚くほど軽く感じられるのは、恐怖で全身が硬直していたからだろう。
「パパ? どうして?」
指の下で結菜の唇が震える。声にならない言葉が何度も擦れて、熱だけが祐一の掌に伝わってくる。彼女は必死に泣くのをこらえていた。
楓の影は、ゆっくりと二人に近づいてくる。
エレベータの鉄板の床に、細い足首の線が浮かび、そこから膝、腰、肩、そして首筋へと形が伸びていく。生前と同じ長さの髪が、結菜の前髪に触れそうな距離まで近づいた。匂いがあった。楓が愛用していたボディクリームの、甘く柔らかい香り。けれどその奥には、金属が焼けたような冷たさが混ざっていた。
「ママ……ママだよ」
結菜の声が指の隙間から零れる。
祐一は歯を食いしばる。――違う。これは楓じゃない。そう言い切りたかった。だが目の前にある髪の光沢も、唇の形も、耳の曲線も、纏う色も音も匂いもすべてが楓そのものだった。否定する言葉は、喉に詰まって音にならない。
楓の影は、祐一の視線を真正面から受け止める。瞳に光はなかった。だが、その奥に自分が映っていることはわかる。楓の瞳に、祐一が映っている。
影は一度、結菜の髪に指を伸ばした。白く曖昧な指先が、娘の額すれすれで止まる。その一瞬、祐一は反射的に娘を引き寄せ、背中で影の手を遮った。
――一瞬だけ。
影はふっと笑った。声はない。ただ、唇の形だけが「静かにね」と動いた。
次の瞬間、楓の姿は鉄の壁に吸い込まれるように沈み、残されたのは、冷たい匂いと、光のない瞳の残像だけだった。




