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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第五章

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第三十六話


 倒れそうになる身体を気力で支え、大きく深呼吸すると、祐一はしゃがみ結菜に視線を合わせた。


「よし、ママに、会いに行こうか」


 努めて優しい声を出す。それが意味することを、結菜は何もわかっていない。


「いく! パパ、はやく!」


 楽しそうな声。その場で鳴る靴の音。その音たちが、祐一の胸を刺す。


 ――もう、戻れなくてもいいかもしれない。


 拳を握りしめ、祐一は返事もしないまま、走り出した結菜の後を追いかける。

 何度も見てきた掲示板。いきに見たはずの貼り紙が、一枚残らずなくなっていた。『自分たちには、もう不要である』ことを理解し、掲示板の前を離れた。

 胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。外へは出られない。出ても戻される。循環する街の構造そのものが「出口」を拒絶している。

 戻された場所は、結局いつもと同じエントランス。

 逃げ場がないなら、選ぶしかない。繰り返す日常に留まるか、袋小路へあえて進むか。

 視線を上げると、エントランスの片隅でエレベータの扉が閉じかけていた。金属の表面が呼吸のように僅かに膨らみ、また戻る。その一拍ごとに「来い」と囁いているように見える。


 何度も見た光景。異質だった。恐怖だった。でも今は、それが安堵をもたらす。


「……結菜」


 声を潜め、祐一は娘を抱き寄せた。


「結菜は、ママがどこにいるかわかる?」


 あの、目の奥のない楓が、本物だとしたら。

 結菜は黙って頷いた。知らないうちに、その瞳は涙に濡れていた。


「いまからあうんだよ!」


 自ら言わなくてもよい安心感と、幼心に無理をさせていた罪悪感がせめぎ合う。結果、罪悪感が勝った。娘の涙に勝てなかった。


「ごめんな結菜。パパも、ママに会いたいんだ」

「うん」

「だから、一緒に会いに行こう」

「うん」


 瞳が、まだ涙で濡れているのに、そこに怯えよりも確かな光が宿っている。


「エレベータ、きてるよ」


 結菜の指が強張った。同時に、祐一の指も強張る。


「本当だね。パパたちを待ってたのかな」

「そうなのかな。……ママが、むかえにきてくれたのかな」

「そうかもしれないね。……それなら、待たせちゃいけないな」

「うん。パパ、いこ」


 二人はエレベータの前に立った。

 ――チン。


 乾いた到着音が耳を打つ。既にエレベータは止まっていて、扉も開いていたのに鳴る音は、自分たちを歓迎する音だと祐一は感じた。

 全開になった扉の奥は、空っぽだった。だが空気は今までで一番濃い。触れなくてもわかる。無数の声が飲み込まれた直後のような重さが充満している。


 ――『乗りますか?』


 間違いなく、楓の声だった。結菜が祐一の顔を見る。だが、祐一は首を横に振った。

 結菜を抱え、祐一は一歩踏み入れた。靴底が鉄板に触れた瞬間、胸が圧縮される。結菜を抱き寄せ、もう一歩。扉が背後で閉じる。


「……」


 祐一は息を整えた。言葉は出さない。

 本来なら「失礼します」の一声で空気が解放されるはずだ。だが沈黙を貫く。もうその『本来』から、自分たちはとっくに外れてしまった。

 表示盤の『1』が一瞬だけ滲み、表示だけ最上階へと進む。そのまま本来の祐一たちの住む階『7』を示し、それから『6』へ落ちると『5』『4』『3』……と順当に降りていく。

 『7』を指したのは、せめてもの餞なのかもしれない。どうでもいいことだけ、頭に浮かべることにした。


 遂に――『B』の文字が灯った。

 内部の空気が膨張し、壁が低く唸った。祐一は呼吸を止め、結菜を強く抱きしめる。結菜は祐一を抱き締め返す、顔を肩に埋めて。

 沈黙が、箱の内側に深く食い込んでいった。


 しかし、扉は開かなかった。


 文字は『B』を示したまま、一向に変わらない。それどころか、辺りを見回し始めると足元がふわっと浮き上がり、また上昇を始めた。

 扉は開きそうにない。数字は増えるが、止まりそうにもない。


 仕方なく、祐一は結菜を床へ下ろすと、自分の服を握っているよう指示し、壁やボタンを触り始めた。

 エレベータの内部は、昨日よりも広く見えた。壁の金属板は四方を囲む檻のはずなのに、奥行きが少しずつ伸びているようで、立っている位置の感覚が掴めない。祐一と結菜は隅に寄り、互いの手を固く握り合った。


 表示盤はやがて「7」を示したまま、しばらく動かなかった。だが、静止しているはずなのに、内部の空気は呼吸をしている。膨らみ、萎み、また膨らむ。鉄の壁の合わせ目から、ごく細い白い線がしみ出し、すぐに消えていく。そのたびに、結菜の肩がびくんと震えた。


 最初の「乗客」が現れたのは、ほんの一瞬だった。

 扉が閉じ切った鋼の平面に、人の影がふっと浮かんだ。顔はなく、頭と胴と四肢だけがぼんやりとした濃淡で刻まれている。衣服も、体温も、声もない。ただ「人の形」という記号だけをまとって、そこに立っている。祐一は息を止め、影と自分の距離を測った。影は一歩分だけ近づいてきて、床に濡れた足跡を落とした。だが次の瞬間にはもう消えている。

 それから、二人目、三人目。

 壁からにじみ出るように、同じような「顔のない乗客」が増えていく。どれも輪郭だけで、誰なのか特定できない。だが祐一の記憶の中の何か――昨日すれ違った住人、買い物帰りの主婦、掲示板の前で立ち話していた男女――そのどれとも重なる気配をまとっていた。消えた彼らが、ここで再び姿を得ているのだ。


「……パパ」


 結菜が小さな声で袖を引く。


「このひとたち……」


 言葉の続きはなかった。言わなくても分かる。――ここにいるのはきっと「よくあること」で消えた住人たち。マンションのエレベータに飲み込まれ、ノックの後にドアを開けたと刻まれた者たち。


 次の瞬間、影たちの間から、別の濃さが滲み出した。頬の線、髪の分け目、唇の丸み。その輪郭は曖昧さを許さない。結菜の目が見開かれる。


「ママ?」


 それは、楓の影だった。

 楓の影は、他の「顔のない乗客」とは違っていた。


 昨日見た、楓だと思った影は、おそらく楓ではなかった。自分たちをこの場に呼ぶための餌だったのではと、祐一は歯噛みした。


 壁から浮かび上がった瞬間に、髪の毛の一本一本までが細く揺れ、唇の端に微かな笑みの形が宿っている。頬の丸みや目の窪みも、曖昧ではなかった。昨日は空洞になっていた瞳孔部分に、間違いなく楓の瞳があった。すべてが楓本人を指していた。

 結菜は思わず一歩踏み出しかけた。小さな靴のつま先が鉄板を擦る。


「ママ!」


 その呼び声は、鋭い刃のように祐一の胸を突いた。声が空気を切り裂いた瞬間、エレベータ全体が深く沈み込み、鋼の壁がひと呼吸ぶん大きく膨らんだ。


「駄目だ!」


 祐一は結菜の口を掌で塞ぎ、もう一方の腕で強く抱き寄せる。娘の身体が驚くほど軽く感じられるのは、恐怖で全身が硬直していたからだろう。


「パパ? どうして?」


 指の下で結菜の唇が震える。声にならない言葉が何度も擦れて、熱だけが祐一の掌に伝わってくる。彼女は必死に泣くのをこらえていた。


 楓の影は、ゆっくりと二人に近づいてくる。

 エレベータの鉄板の床に、細い足首の線が浮かび、そこから膝、腰、肩、そして首筋へと形が伸びていく。生前と同じ長さの髪が、結菜の前髪に触れそうな距離まで近づいた。匂いがあった。楓が愛用していたボディクリームの、甘く柔らかい香り。けれどその奥には、金属が焼けたような冷たさが混ざっていた。


「ママ……ママだよ」


 結菜の声が指の隙間から零れる。

 祐一は歯を食いしばる。――違う。これは楓じゃない。そう言い切りたかった。だが目の前にある髪の光沢も、唇の形も、耳の曲線も、纏う色も音も匂いもすべてが楓そのものだった。否定する言葉は、喉に詰まって音にならない。


 楓の影は、祐一の視線を真正面から受け止める。瞳に光はなかった。だが、その奥に自分が映っていることはわかる。楓の瞳に、祐一が映っている。

 影は一度、結菜の髪に指を伸ばした。白く曖昧な指先が、娘の額すれすれで止まる。その一瞬、祐一は反射的に娘を引き寄せ、背中で影の手を遮った。


 ――一瞬だけ。


 影はふっと笑った。声はない。ただ、唇の形だけが「静かにね」と動いた。

 次の瞬間、楓の姿は鉄の壁に吸い込まれるように沈み、残されたのは、冷たい匂いと、光のない瞳の残像だけだった。

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