第三十五話
祐一は奥歯を噛み、揺れる掲示の二文字を睨みつけた。握った手のひらに結菜の小さな震えが伝わってくる。その震えが現実の重みを保証しているようで、なおさら忘れることなどできるはずがなかった。
背後では、まだエレベータが開いたまま呼吸を続けている。壁の隙間から低く長い吐息が漏れ、数値盤の光が再び『B』を一瞬だけ示す。すぐに7へ戻るが、その『B』の残光は、金属の壁に長く焼き付いた。
そこに響いたのは、誰の声でもない無音だった。決まりきった挨拶の不在が、穴のように残り、金属の内側へと深く沈んでいく。祐一はその残響に背を向け、娘の手を握りしめた。
誰もいないという冷気を背負ったまま、祐一は娘の手を引いて部屋に戻った。鍵を二重にかけ、チェーンまで三度確かめてから、ようやくリビングのソファに腰を下ろす。
結菜は靴を脱ぐと、黙ってリビングの隅に置かれたクレヨンの箱を抱き寄せ、一つひとつの色を指で撫でていった。折れた部分を擦るたびに粉が指先へ移り、その粉を紙に擦り付けては、無意味な色の痕を増やす。それがまるで「自分がここにいる証」を刻み直す行為のように見えた。
ここまできて、祐一は気が付いた。
この流れは、既に覚えがある。しかし、完全に一緒ではない。それはわかっている。だが、違和感はもっと早くに覚えるべきだった。それなのに、何の疑問も感じないまま、また同じことを繰り返した。
結菜は昨日と同じ黄色のクレヨンの粉で、意味のない絵を紙に描いている。同じ輪郭、同じ色。
「どうして」
祐一は鞄からノートを取り出した。昨日書いたページの裏。筆圧の主張が見られる。それほどまでに力を込めて書いた文字。それを指でなぞり、上から押し返すように次の文字を紡ぐ。
――忘れる。
たった三文字。書き終えた途端、裏に書かれた『忘れない』の文字がこちらへ侵食する。これでは、忘れるべきなのか忘れざるべきなのかもうわからない。
祐一は唇を噛み、もう一度書いた。
――忘れる。忘れる。忘れる。
『る』が滲んで二文字に増える。あり得ないが彼の目にはそう映っていた。
「……これがもし、楓の意志なら」
祐一はさらに行を埋める。行の上に行を重ね、重複する三文字を幾度も上書きする。ノートはやがて滲んだ黒に染まり、祐一以外の意志を抱えた。
「パパ……」
結菜が声をかける。小さな手に握られた赤色のクレヨンが、ぽきりと折れた。
色が、黄色ではなかった。
その意味に胸を撫で下ろす。細部が違う。その細部に救いが見える。
「わすれないで、って、いったよね」
「忘れないために、書いてるんだ。……でも、ここじゃ『忘れる』って言わないと、生き残れない。……前にもそう、話しただろ?」
矛盾した言葉が口を突いて出る。結菜はしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。
祐一はさらに書き続ける。
――忘れる。忘れる。忘れる。
わからなかった。これだけむきになる理由も、先へ進めない理由も。同じ行動を繰り返し、外に出ればマンションへ戻され、管理人と住人は素知らぬ顔をしている。
自分がここにいて正しいのか、それとも消える選択をするべきなのか、何もわからない。
挨拶をしなかったのに、エレベータは寛容だった。寛容だと思ってしまった。そこに慈悲はないはずなのに、それでもいいと思ってしまった。
誰かの良心へ縋るように、昨日と反対の言葉を、ページの最後に付け足す。
――忘れる=忘れない。
昨日書いた「忘れない」という文字を、今日は「忘れる」に変えたのに、紙は何も応えなかった。
「……ママ、わすれないで」
「ママに会いたい?」
「あいたい!」
結菜の表情は、疲れ切っていた。それでも「会いたいか」という問いに、元気よく答えた。祐一は胸が痛んだ。この声は、自分のためのような気がして。
「じゃあ、あと一回だけ、外へ出よう。外に出て、どこへもいけなかったら、ママに会いにいこう」
「ほんとに? ママ!」
「ママに……ママに、会いたいね」
祐一は涙を流しながら結菜の手を握った。
「パパ、なんでないてるの?」
「……ママに、会えるからだよ」
祐一はもうとっくにわかっていた。マンションからは逃れられないことを。それでも、足掻くことを選んだ。
「……よし! 眠いだろ、朝、起きてからにしようか」
「やだ! いまいく! いまそとにでるの!」
「疲れたんじゃないのか?」
「つかれてないもん! ねむくないもん!」
結菜の駄々に、祐一は内心ほっとしていた。無理強いせずに済むからだ。
「そうか。じゃあ、ちゃんと着替えよう。それから、外に出ようか。パパと内緒のお散歩だ」
「はぁい! なんだかどきどきするね!」
目を擦りながらも無邪気に笑う結菜を見て、祐一はまた泣いた。結菜に着替えを促して、一人涙を拭く。ぽたぽたと落ちた涙が床に痕を残すが、拭き取ることはしなかった。
祐一は結菜の手をしっかりと握り、マンションを出た。結菜はお気に入りのワンピースを着ている。背負ったリュックからは、ウサギのぬいぐるみの頭が覗いていた。
エントランスを抜けた瞬間、マンションの中との空気の差を実感した。一歩踏み出すだけで、ここに壁があることを実感する。間違いなく、マンションは外界から隔離された場所だ。
「……さあ、行こうか」
「うん! パパ、ないしょって、しずかなんだね」
「そうだよ。ちょっと、特別な感じがするだろ?」
結菜は頷き、小さな靴の音をぱたぱたと響かせる。
通りに出ると、街路樹が並び、交差点には横断歩道がある。すべては「普通」だった。だが、その普通が、どこか紙芝居の背景のようで平坦に見える。道路標識の青が滲み、同じ角度で並ぶ家々の窓が、不自然なほど均等に反射している。
角を曲がった。バス停が現れた。屋根付きのベンチには誰もいない。
もう一度角を曲がった。再びバス停。屋根の色も、時刻表の破れ具合も、まったく同じ。
「……パパ、さっきもここだったよ」
結菜が呟く。
「そうか? ……いや、そうだな」
「また、まいごになっちゃった?」
また。
その言葉が胸に落ちる。
もしかしたら、この時間なら何とかなるかもしれないと、一瞬だけ考えた自分が浅はかだった。時間など関係ない。あそこに住んでいる限り、何も変わらないのだ。何も、何も。
「じゃあ、来た道を戻ってみる?」
「もう、マンションにかえっちゃうの?」
名残惜しそうな声。咄嗟に否定しようとするが、すんなり言葉は出てこなかった。
「パパ?」
「あ、あぁ、いや。もう少しだけ、進もうか」
「うん!」
ぎゅっと手を握り、さらに進む。横断歩道の白線を渡る。白が途中で掠れ、足を置いた瞬間、地面がぐにゃりと歪んだ気がした。
三度目の角。
――また同じバス停。
背中に冷たい汗が流れた。時計を見ても、針は進んでいない。秒針だけが小刻みに震え、音もなく同じ位置で痙攣している。
進まないし、進めなかった。
「パパ……」
結菜の手の力が強くなる。
祐一はふと気付く。ずっと耳の奥で、水が一筋だけ落ちていた。ぽとり、ぽとり。
その音は角を曲がるたび、必ず同じ位置で強くなる。まるでビーコンのように、「ここに戻れ」と指し示しているかのようだった。
ここを示すだけで、前には進ませてくれなかった。戻ることを強制していた。
「結菜、走ろう」
二人は駆け出した。角を無視して直進する。だが、十数メートル先で景色がねじれ、次の瞬間には、マンションの前へ戻っていた。
「あれ? もどってきちゃったね」
祐一は何も言えなかった。戻ってきたということは、次は楓に会いにいくのだ。
「……どんなに頑張っても、ここからは出られないのか」
祐一は息を荒げ、マンションを見上げ睨んだ。いくつか廊下を照らしていた蛍光灯が、点滅してすべて消える。
暗闇に包まれたマンションのエントランスを、祐一は何事もなかったふりをして進んだ。
「パパ、おさんぽ、おわったの?」
「そうだな。帰ってきたから、もう終わりだよ」
「じゃあ、ママにあえる?」
「ママに……」
「うん。そういうおやくそくだったよね?」
どこか期待のこもった言葉。その熱に祐一は唇を噛み締める。
こんなに重たい約束は、初めてだった。




