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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第五章

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第三十四話


 楓の声だ。呼んでいる、祐一と結菜を。


「いくよ、手を離しちゃだめだからね」

「うん」


 意を決して、祐一はエレベータに乗り込んだ。問いには答えない。今だけは答えないが正解なのだ。

 目的地に悩み、一階に指をかけるが触れない。

 祐一が目指すのは地下。今見ても、地下の表記は腐どこにもなかった。


 ぶぅん、と音を立ててエレベータが沈黙する。あるのは蛍光灯の光だけ。そして、不意に足元が浮遊感に襲われる。

 動いたのだ、下の階を目指して。

 けれど操作ボタンには誰の指も触れていない。祐一の指先はポケットの中で強張り、爪が掌に食い込んだ。


 『6』『5』『4』『3』。


 そこで一度、表示が滞った。青白い光が長く留まり、壁の金属板にじわりと染み込む。次の瞬間、数字は弾かれるように『B』を示した。

 その一文字は、光ではなく闇の印に見えた。蛍光灯の白の中で、ただそこだけが異質に沈んでいる。

 祐一の皮膚の上を、細い静電気が走る。背筋の毛穴が一つひとつ開き、冷たい粒が入り込んでくる。


「パパ」


 結菜が小さな声で呼んだ。声というよりも、空気に擦れた息だった。


「静かにね」


 祐一は唇に指を当てた。沈黙を守れ。そう言い聞かせるように。

 そして、同時に泣きそうな気持になる。「自分がこの台詞を吐くのか」と。


 扉の合わせ目が震え、今度ははっきりと息を吐いた。

 金属の奥から、ぬるりと影が滲み出す。形を持たない黒い水滴が垂れ、その輪郭が揺れるうちに、人影のような高さを作った。

 祐一の喉は乾いていたが、飲み込む音さえ恐ろしくて動けなかった。

 開きかけた扉の合わせ目は、光ではなく暗さを外へ漏らしている。闇そのものが通路を舐め、二人の足元へ迫ってきた。


 ――チン。


 軽やかな到着音が、深夜の廊下を異様に響かせた。

 その音が途切れると同時に、扉が左右へ滑る。油の切れた軋みはない。ただ、呼吸の延長のように自然に開いていく。

 もうエレベータの内部は、光に満ちていなかった。

 蛍光灯の白が差し込んでも、箱の奥はうす暗く、見えるものが輪郭ばかりで色がない。

 金属の床には細い水の筋が走っている。まるで地下水が滲み出したかのように、静かに蠢いては消えていく。


 扉の前に――立っていた。


 一人。


 だが人と呼んでよいのかどうか迷う存在。

 背丈も、腕の長さも、衣服の形も、確かに人間を模している。

 けれど、顔がない。頭部の中心が、白い空白のまま残されていた。輪郭だけが濃く、内部は削ぎ落とされたように真っ平らだ。


 祐一は反射的に一歩下がった。背中に結菜を庇う。結菜の指先が服の裾を強く掴み、爪が布を裂きそうになる。


「……おじさん」


 結菜が震える声で呟いた。

 その言葉を合図にしたように、乗客の影が首を傾げる。いつの間にか、祐一たちは囲まれていた。乗客に。


 ――そう、乗客に。


 彼らの首の傾げ方は人間と同じなのに、目も口もない顔が正面を向くのは、あまりに異様だった。

 その無音の顔が、ゆっくりとこちらへ向かって膨らむ。

 近づくのではない。顔の輪郭そのものが、奥から押し出されるように膨張してくる。

 祐一の視界が白く歪む。空白の部分が光として迫り、思わず眼を細める。


「静かに……」


 祐一は低く、娘にだけ届く声で囁いた。名を呼んではいけない。応じてはいけない。

 ノックのときと同じだ。この沈黙を破れば、すべてが決定してしまう。

 扉の内側の空気は重く、外側の廊下の空気は軽い。その境界に立たされ、祐一は呼吸の仕方すら忘れそうになる。

 無言の搭乗希望者は、ただそこに在ることだけで、二人の足を縫い止めていた。

 二人の前に、それは乗り込んだ。合わせる目はないが、意識的に視線を外す。

 ここは、隠された地下。誰かいるなんておかしい。


 ――だが、その意識は必要なかった。そもそも、このマンション自体がおかしいのだ。「おかしい」が「当たり前」に変わる。

 数値盤の『B』が、異様に長い滞留を見せた。灯が濃い影を生み、その影が壁や床をじわじわと蝕んでいく。もうそれは乗り込んで扉が閉まったのに、上階へ上がる気配はない。

 空気が押し潰され、天井が低くなったように感じた瞬間――輪郭が、浮かび上がった。

 最初は曖昧な濃淡にすぎなかった。だが、祐一の網膜がそれを認めてしまった途端、影は女の横顔へと変わった。頬の線、髪の分け目、口元の丸み。数え切れない朝の写真で見た横顔。何度も声を交わしたはずの姿。


 楓だ。


 その確信は、皮膚の裏を焼くほど強烈だった。だが同時に、理性のどこかが「それは楓ではない」と警鐘を鳴らす。像は本物に似すぎていて、しかし似すぎることが逆に脳を混乱させる。


「……ママ」


 結菜の唇が動いた。震える吐息が微かに祐一の袖を濡らす。小さな声なのに、エレベータの密閉空間では金属の壁に反射して、やけに大きく響いた。


「だめだ」


 祐一は反射的に、娘の口を手で覆った。指先に伝わる震えは、娘が必死に堪えている証拠だ。呼んではいけない。呼んでしまえば、応じてしまえば、この扉は装置として完成してしまう。

 楓の顔は、こちらを覗き込む寸前まで近づき、祐一の目の高さで止まった。眼差しは空洞のようで、それでも確かに「楓」の目の形をしている。そこには情も憎しみもなく、ただ「呼べ」と命じるような空虚な光が宿っていた。


 妻を取り戻すか。娘を守るか。選べない、選んではいけない。


 その葛藤が、祐一の胸骨を左右に引き裂いた。片方は、家族を取り戻したいと泣き叫ぶ声。もう片方は、結菜の小さな体温を守らねばならないという鋭い警鐘。両方が正しく、両方が不可能に思えた。

 唇を噛み、祐一は必死に視線を床へ落とした。足元の鉄板に、白い水の筋がじわじわと広がっていく。流れては乾き、また流れる。呼吸のたびに鉄が脈打つように見え、そこへ意識を逃がさなければ、彼は妻の影に飲み込まれてしまいそうだった。


 楓の顔は、祐一の沈黙に圧され、金属の奥へ沈んだ。残されたのは、金属に染み込んだ冷たい匂いだけ。その匂いを胸いっぱいに吸ってしまえば、戻れない――祐一は直感でそう悟り、さらに呼吸を固く閉じ込めた。


 金属の壁に沈んだ楓の顔が完全に消えた瞬間、数値盤の『B』がふっと揺らぎ、ゆっくりと『7』へと戻った。電球色のように僅かに黄ばんだ光が点滅し、その明滅に合わせて床が脈打つ。やがて、扉が左右へ滑り、静かに開いた。


 そこは、確かに元のエントランスだった。だが「元」と言えるのは形だけだ。空気は昨日よりも湿っていて、天井の蛍光灯は白から灰色に変わったように濁っている。壁面に走る目地は微かに波打ち、光が触れるたびに揺れて見えた。

 祐一は娘の肩を抱いたまま一歩踏み出す。足元のタイルは冷たく、靴底が吸い付くような抵抗を返す。耳の奥で小さな水滴が落ちる音が続いており、それがどこから響いているのか、どうしても掴めなかった。


 視線を掲示板へ移す。七階にも、一階と同じものが貼られていた。いや、同じ白い紙が貼られている――祐一は勝手にそう思っていた。視線だけ動かして、その紙の内容を読む。


 ――『落とし物は拾わず、三日経過後に管理人室へ。励行。励行。励行』


 その二文字。末尾に追加された「励行」の文字が、祐一の胸を刺した。念を押すように増えた文字。ただただ気味が悪い。昨日までは曖昧な注意にすぎなかった文面が、今日は義務の命令に変わっている。

 水に濡れたのか縮んで乾燥した紙は、端が丸まって染みもできている。四つ端を留めた画鋲は真新しく、ぴかぴかと光を反射している。新旧が一枚の中で同居しているようで、紙面全体が酷く不気味に見えた。


「……見たか、結菜」


 祐一は娘に囁く。結菜は頷き、小さな手で祐一の指をぎゅっと握った。指先は氷のように冷たい。


「パパ……わすれないで」


 その声は細く、震えているのに、胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さる。敢えて忘れると決め、ノートに書き込み、外界に抗おうとした自分の意志が、その一言で揺らぐ。忘れることが延命の術だと理解しながらも、娘の言葉は祐一を「忘れてはいけない」側へ引き戻してしまう。


 どうすればいいのか、わからなかった。

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