第三十三話
――忘れない。忘れない。忘れない。
インクが薄れ、消え、残るのは筆圧だけ。指先でなぞれば、跡は確かにあるのに、目には見えない。
「……消えるもんか」
祐一はさらに行を埋める。行の上に行を重ね、重複する四文字を幾度も上書きする。ノートは次第に黒い塊を抱え込み、紙が波打ち始めた。
「パパ……」
結菜が声をかける。小さな手に握られた黄色のクレヨンが、手のひらに色のかすを付ける。
「わすれないで、って、いったよね」
「忘れないために、書いてるんだ。……でも、ここじゃ『忘れる』って言わないと、生き残れない」
「でもパパ、わすれないってかいてる。それは『わすれない』ってよむんでしょ」
「そうだよ。……そうだよ」
矛盾した言葉が口を突いて出る。結菜はしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。
祐一はさらに書き続ける。
――忘れない。忘れない。忘れない。
黒が薄れても、筆圧は強く、頁の裏にまで溝が浮き出る。光に透かすと、文字の影が幾重にも重なり、黒よりも濃い「影の黒」になって紙を染めていた。
ペン先が折れそうになるほど力を込めて、祐一は最後に大きく書いた。
――忘れない=忘れる。
書いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。外の廊下で、誰かが小さく笑った気がした。
ベッドへ入ると、祐一はノートを胸に抱いたまま眠りに落ちた。結菜は隣で折れたクレヨンを握りしめ、眠りながらも小さく呟いた。
「……ママ、わすれないで」
祐一は眠気の中で、その声だけを強く刻みつけた。
――深夜二時少し前。
マンションの廊下は、いつもよりも静かだった。静か、という言葉では足りない。そこには、音そのものを削り取ったあとの真空に似た質感があった。外の道路を走るはずの車の音も、遠くで犬が吠える声もない。窓から射し込む月明かりすら、厚いガラスに阻まれて鈍く、照明に似た白の膜を作っているだけだった。
眠れなかった祐一は、再度エレベータに乗り込むことを考えていた。乗らなければいけないと思った。
心残りは、結菜の存在。手放せないが、連れていけない。自分が乗らない選択肢はない。結菜を乗らせたくない。
だが今、同じ場所に二人で立っている。
結菜は、祐一が玄関のドアを開けるとき、後ろに立っていた。呼吸を止めてしまうほど驚いた彼だったが、一言「行こうか」と結菜に声をかけると「うん」と返ってきたから、断ることも止めることもせず、同じ場所に立つことを選んだ。
祐一は、結菜の手を強く握りしめていた。娘の指はまだ小さい。骨の細さが掌に当たり、その温かさが唯一の現実だった。背後からは、家の中の空気がまだまとわりついてくる。二人で過ごしたリビングの匂い。乾ききらなかった紅茶の香り。それらが廊下の冷気に押し出されるように薄まり、背後の扉のほうへすうっと吸い込まれていった。
もう、戻れない。
祐一は、振り返るのをやめた。振り返れば、きっと「まだ家に戻れる」と錯覚してしまう。だが、それは選択肢ではない。ノックも、掲示も、管理人の言葉も、すべてが「ここに残ってはならない」と告げていた。
非常灯の緑が、足元に揺れる影を作った。影はひとつしかないはずなのに、歩を進めるごとにふたつ、みっつと、微かにずれるように揺れる。結菜の影とは違う。祐一自身の輪郭が、薄く重なり合いながら、やがてひとつにまとまる。練習された身振りのように。
「パパ、なんかへん」
結菜が囁く。その声も、白い空気にすぐ飲み込まれてしまった。祐一は、唇の裏で答えを潰す。声は鍵だ。声にしてしまえば扉が開く。だから、今は沈黙で歩くしかない。
家のドアへ鍵をかける。上と下、二か所。この先使えるかわからない鍵を、そっとズボンのポケットにしまった。
角をひとつ曲がると、エレベータの前が現れた。
箱は、呼んでもいないのに開いていた。蛍光灯の白が、金属の壁に反射して、まるで薄い水面のように震えている。隙間から吐き出された空気は、いつもよりも冷たい。鉄の匂いに、湿った紙の匂いが混じっていた。
扉の合わせ目が完全に揃わず、僅かな隙間を残して止まっている。その隙間から、建物全体の呼吸のようなものが、低く、長く、祐一たちの前に流れ出していた。
待っている。
言葉を。
「失礼します」の一声を。
そのために、開いたままなのだ。
祐一は娘を背中に庇うようにして、一歩踏み出した。足裏に伝わる金属の冷たさが、まるで生き物の舌のようにぬらりと撫でてくる。背後から結菜の息が荒くなるのを感じ、彼は無言で拳を握った。
――『乗りますか?』
声が聞こえた。
「ママだ!」
嬉しそうな結菜の顔。わかっている。これは確かに楓の声だ。楓は今、エレベータの中にいる。
数字の消えた表示盤の下で、祐一は立ち止まった。
足裏から伝わるコンクリートの冷たさが、全身の体温をじわじわと吸い取っていく。
今回は何かが違う。何がとは言えない。でも、間違いなく何かが違った。
エレベータの扉は、僅かに開いているものの、まだ閉ざされたままだった。光沢を失った金属板が、廊下の蛍光灯をぼんやりと映し返している。映るのは、祐一と結菜の影だけ――そう思いたかった。だが、角度を変えるたびに、自分たち以外の線が微かに伸びては消える。
「……パパ」
袖をつかんだ結菜の指は、氷のように冷たかった。小さな爪が布地に食い込み、痛みよりも震えの細かさが祐一の腕に伝わってくる。
――忘れない。開けない。拾わない。
自分に課したみっつの掟を、胸の奥で何度も反芻する。だが同時に、今夜はそのどれとも違う「抜け道」を試そうとしているのだ、とも理解していた。
静けさが重くなる。耳の奥で、自分の鼓動がうるさすぎるほど鳴っている。沈黙のまま、果たして耐えられるだろうか。いつもなら「失礼します」と口にするだけで済んだものを、今日もあえて封じる。問いかけがあった今、その一歩が、儀式の秩序を壊すかもしれない。
結菜が小さく息を吸った。声を出しそうになったのではない。ただ、空気の流れを確かめるように、肺の奥で押し込めている。祐一は娘の横顔を見た。光を受けて白く透ける頬は、今にも砕けてしまいそうに脆い。
「……大丈夫だ。パパがいる」
「うん」
「いこうか」
声に出す代わりに、口の形だけを作った。結菜は頷きもせず、ただじっと扉を見つめている。
金属の合わせ目に、ほんの僅かな呼吸が走った。空気の粒が吸い込まれ、吐き出される。それは作動音ではない。喉の奥で擦れた体温の名残だった。
――来る。
祐一は唇を結び、喉の奥を固く閉じた。沈黙を守り抜く、それだけが唯一の抵抗だった。
エレベータの合わせ目が、僅かに呼吸を漏らした。
ぴしり、とも、きしり、ともつかない細い音が、廊下の静けさに割り込む。祐一は反射的に娘の肩を抱き寄せた。肩越しに感じる体温は弱く、頼りなく、抱き締めなければすぐに消えてしまいそうだった。
扉が開いたわけではない。それなのに、金属の合わせ目からぬめる冷気が押し出される。鼻の奥を突くのは鉄錆の匂いと、長く閉ざされた部屋の埃気。だがそれは時間を経たものではなく、生き物の息づかいのように今ここで生成されている匂いだった。
祐一は無意識に呼吸を止めた。結菜も同じく、胸の上下を止める。二人の沈黙が、廊下全体の沈黙と重なり合い、音のない湖のように広がった。
そこで、表示盤が微かに点灯した。
『7』『6』『5』――。
ひとつずつ、階を下がっている。
誰も乗り込んでいないのに、消えた表示の先に、誰かがいた。
数字は『B』まで落ちた後、再び上昇を始めた。目的地は――この七階。
――『乗りますか?』




