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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第五章

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第三十二話


 夜、二人はまた箱の前に立つ。箱は、呼ばなくても来る。来るのが、ここでは礼儀なのだ。

 祐一は、扉が開く瞬間に目を閉じた。視覚をひとつ外す。嗅覚は最初から何も拾えない。聴覚に、わざと雑音を混ぜる。舌の先で、上顎の同じ場所を押し続ける。身体の各所に、自前のビーコンを立てる。装置の拍と、自分の拍の、干渉縞を作る。そんな小さな算術で、挑むしかない。


 箱は、呼吸の回数を一回増やした。金属の壁のどこかで、見えない螺子がふたつ、きゅるきゅると緩む音がした。その一瞬、表示盤の数字がふっと消え、また戻る。祐一は、口の中でだけ言った。声に出さず、唇も動かさず。――忘れる、と。


 霧は、今夜のほうが薄い。薄いのに、輪郭が多い。顔のない乗客たちが、目の位置だけを空白に、そこだけを凝り固めたまま、祐一と結菜の横を通り過ぎる。誰かが「しずかに」と言い、誰かが「失礼します」を言い、誰かが何も言わない。箱の中の言葉は、空気の密度に変換され、耳の奥で遅れて響く。


「パパ」

「うん」

「ママ、いる?」


 答えない。答えは扉だ。代わりに、祐一は四拍子を取る。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。結菜も、胸の中で同じ拍を刻む。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。拍がずれて、やがて重なる。箱の呼吸と、自分たちの呼吸の、干渉縞。その一瞬だけ、表示盤が『B』を長く灯した。祐一は、目を閉じたまま、ほんの小さく頷いた。


 扉が開く。今回は、エントランスではない。だが同じエントランスだ。掲示の列。ベンチの位置。ゴムマットの継ぎ目。すべてが、同じエントランス。しかし、ひとつだけ違う。掲示の端の画鋲が、銀ではなく、赤黒かった。祐一は、そこへ歩み寄り、指で赤黒い頭を押した。柔らかい。ゴム。貼り直しやすい材。


 取り替えられやすい箇所から、世界は更新される。――否、更新されてしまった。


「帰ろう」

「うん」


 結菜に優しく声をかけ、二人は箱から降りた。背中で、金属の壁が、今夜もまた軋んだ。挨拶の不在が、箱の内壁に長く残響した。


 ――帰るために、階段か、それとも、エレベータか。


 普段なら迷わない問。今日は選択肢がふたつある。少し悩んで、結局エレベータに乗った。連れていかれなかった驕りと、真実を確かめたいという、ほんの少しの好奇心。


「……もう一度だ」


 そう呟いて、結菜の手を引き返す。

 結菜の手を握り、再び箱の前に立つ。先ほどと同じ沈黙が、金属の隙間から滲み出している。


 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。そのまま頭を空っぽに、再びエレベータへ乗り込む。扉が閉じた瞬間、内部の金属が低く唸った。

 耳鳴りのような細い周波数が、音ではなく空気の密度として皮膚を叩いてくる。壁の鋼板は呼吸するように膨らんだり萎んだりしており、その動きは視覚ではなく骨の奥で感じられた。


 内部の空気がじわじわと膨張し、髪の毛が静電気で逆立つ。耳の奥に圧がかかり、喉の奥が軋む。吸い込むことが恐ろしくなり、祐一は呼吸を止めた。

 隣の結菜も真似をして、胸の上下をぴたりと止める。小さな肩が強張り、苦しさに震えているのが腕越しに伝わった。


 二人の沈黙が、装置にとっての異物だった。

 いつもなら「失礼します」の一声が、空気の弁を開き、内部を正常の温度に戻す。だが今日は、その言葉がなかった。沈黙だけが残り、箱はまるで呼吸を忘れた臓器のように膨らみ続けている。


 数字盤が『3』で止まり、そこから一瞬で『B』へと落ちた。

 灯は一拍長く滞留し、周囲の空気を濃くした。その濃度の中で、浮かぶ影。壁の金属に滲むように、二重の影が重なり、輪郭が形を持ち始める。


 頬の線。髪の分け目。口元の丸み。

 それは――楓だった。


「ママ……?」


 結菜の唇が震える。祐一は慌ててその口を掌で塞いだ。呼んではならない。呼んでしまえば、応じてしまえば、扉は完成してしまう。楓と同じように「迎えられてしまう」。

 自分の考えが、どこまで当たっているのかわからない。全部外れかもしれない。だが、今はそれしか保険がない。

 楓の顔は、こちらを覗き込む寸前まで近づき、金属の奥へ沈んでいった。

 残されたのは、冷たい匂いだけ。鉄と水を混ぜ合わせたような匂いが、壁の隙間からじわじわと滲み出してくる。その匂いを胸いっぱいに吸ってしまったら、もう戻れない。


「……っ」


 祐一は歯を噛み、視線を床に落とした。足元の鉄板に、じわじわと白い水の筋が広がり、乾いて消える。痕跡は何も残さないのに、消えたという事実だけが皮膚に貼りついた。


 次の瞬間、扉は静かに開いた。


 そこは、元のエントランスだった。

 だが空気は昨日よりも湿っていて、蛍光灯の白は僅かに黄ばんで見える。天井のパネルが一枚だけ歪んでおり、そこから垂れる雫が、床に暗い斑点を作っていた。

 壁に並ぶ掲示も、一枚増えている。

 内容は読めなかった。頭が理解したくないと拒否している。だから、書いてある文字は読みとれない。知っている文字なのに、知らない色が差す。


 その前を、住人たちが数人通り過ぎていった。

 誰も足を止めない――ただ、一瞬だけ、視線が掲示に吸い寄せられ、頷きが揃う。その角度はみな同じで、まるで、いつもの角度を保つよう、練習された合図のようだった。


 祐一は思う。住人には間違いない。だが、知らない。自分は彼らを知らない、と。


 結菜が手を握ってくる。小さな指が冷たく、震えている。


「パパ……やっぱり、だめ。わすれないで。わすれちゃだめなの」


 その声は細いのに、胸の奥へ真っ直ぐ突き刺さる。

 ――あえて忘れる、と決めたはずなのに。

 祐一は娘の手を強く握り返し、無理に笑った。


「忘れないよ。大丈夫。パパは忘れない」


 エントランスの片隅、エレベータはまだ開いたまま呼吸している。

 壁の隙間から、低く長い吐息が漏れる。音は吐息なのに、リズムは鼓動だった。空気の揺れが心臓の拍動と重なり、祐一の体の内側まで揺らす。


 数字盤は再び『B』を一瞬だけ示し、すぐに7へ戻った。

 その『B』の残光が、金属の壁に穴を穿つように残響した。


 祐一はノートを取り出し、震える手で大きく書いた。


 ――忘れない。

 ――忘れない。

 ――忘れない。


 書き足すたびにインクは薄れ、逆に筆圧の跡ばかりが強くなる。まるで紙が「忘却」を吸い込み、墨を拒んでいるようだった。


 結菜が小さく呟いた。


「ママ、よんだら、くるのかな」


 祐一は肩を震わせ、娘を強く抱き寄せた。


「呼んじゃいけない。呼んだら、俺たちまで取り込まれる」


 言葉に出した瞬間、エントランスの空気がぴたりと止まった。

「失礼します」の不在が、金属の壁に長く響いていた。

 それは音ではなく、沈黙そのものの反響だった。


「とりこまれる、ってなに?」


 素朴な疑問。まだ、やはり理解には難しい。


「ごめん、何でもないよ」


 言えなかった。言葉の説明ができない。納得していない言葉を、当たり前のように口にできない。


 エントランスの冷気を背負ったまま、祐一は娘の手を引いて部屋に戻った。鍵を二重にかけ、チェーンまで三度確かめてから、ようやくリビングのソファに腰を下ろす。

 結菜は靴を脱ぐと、黙ってリビングの隅に置かれたクレヨンの箱を抱き寄せ、一つひとつの色を指で撫でていった。折れた部分を擦るたびに粉が指先へ移り、その粉を紙に擦り付けては、無意味な色の痕を増やす。それがまるで「自分がここにいる証」を刻み直す行為のように見えた。


 祐一は鞄からノートを取り出した。罫線の薄い頁を開き、黒いペンを握る。指先が汗ばみ、ペンのプラスチック軸が滑りそうになる。それでも力を込めて、最初の一行を書き込んだ。


 ――忘れない。


 たった四文字。書き終えた途端、インクの黒がじわじわと薄れていく。もうずっと繰り返している現象。書けば書くほど、黒は退色し、紙の地の白へ戻ろうとする。

 祐一は唇を噛み、もう一度書いた。

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