第三十一話
しゃがみこみ、結菜の目線と高さを合わせる。彼女の瞳は、黒の中に白い点をふたつ抱えている。蛍光灯の反射。目の中に、部屋の形が、小さく逆さに映っている。
「忘れないために、忘れる。――今は、そうする」
言葉は扉だ。まっすぐ言ってしまえば蝶番がちぎれる。迂回して言うことで、金属の摩擦を最小限にする。結菜はこくりと頷いた。頷く角度はまた、掲示板の前のそれに似ていた。ホールの空気は白く、いつも通り何も匂わない。
これほどあからさまな阻止は、今までなかった。外へ出て会社に行き、結菜を迎えにいってスーパーへ買い物に向かう。ほんの少しだけ公園を覗いて、話をしながら家に帰る。
それができない。阻まれている。外へ出られない。マンションの意志でなければ、誰の意志なのだろう。
きっとわかっている。明確に「出る」意志があることを。ここはそれを許さない。だから戻ってきたのだ。
夜。祐一は決めた。箱に乗る。だが、挨拶はしない。ルールを一枚だけ外す。これまで従うことで引き延ばしてきた時間は、こちらの生活の角を確かに守ってくれた。だが、それは同時に、こちらの黒を少しずつ薄くしてきた。ならば、今は、あえて逆へ。
寝間着のままの結菜に、薄いカーディガンを着せる。抱き上げる。いつもよりも重さが増している気がして、胸がきゅっとなった。大きくなったのに、これ以上大きくなれないかもしれない。漠然とした不安。すべて飲み込んで部屋を出る。
共用廊下はひんやりしている。非常灯が揺れ、影が二重に重なってから、ひとつに戻る。これももう、見慣れた光景だった。
ボタンに指を近づける前から、箱はゆっくりと到着した。表示盤の数字が7のまま沈黙し、やがて6、5、4と降り、ふいに7へ戻る。扉は閉じたまま。箱は内側だけを膨らませ、静かに萎ませる。呼吸。肺。心臓。機械。
今日は問われない。まだ問われていない。その事実が少しだけ祐一に光をもたらす。
扉が開く。鏡面が、抱えた娘の体勢の歪みまで忠実に写す。祐一の喉が自然に「失――」の形に整いかける。彼は舌を噛んだ。言わない。今夜は、言わない。視線を床に落とす。口蓋を軽く押し当てる。箱が、微かに軋んだ。音ではなく圧の変化。金属の壁の内側で、目に見えない螺子がひとつ、どこかへ転げ落ちる。
「パパ、こわい?」
「……怖い。けど、やらなきゃいけないんだ」
閉まる。遅れて、閉まる。密閉された空気が、耳の奥をきぃんと膨らませ、すぐに戻す。表示盤の数字が滑り、ふいに暗転する。ほんの一瞬、真っ黒。視界の隅が勝手に光を拾う。
やがて、小さな『B』が滲むように灯り、すぐに消えた。数字は1へ戻る。
扉は開かない。内側だけで、微細な到着音が鳴った気がする。聞こえないはずの音。耳ではなく、皮膚と産毛で拾う音。
霧。足元から、薄いもやが立つ。寒くはない。湿度だけが増える。いないはずの乗客たちの輪郭が、霧の中に浮いては解ける。誰もいないのに、誰かが肩をすれ違わせた感触だけが皮膚に残る。結菜の小さな爪が、祐一の首の後ろの柔らかい皮膚に食い込む。痛みが、現実の重さを確かめるための印になる。
「パパ、わすれるっていったよ」
「……結菜は忘れないでと言ったよ」
「でも、わすれるなんでしょ」
「いいのかい?」
「いいよ」
耳元で響く。吐息の温度がないのに、言葉だけが温度を持って背骨を走った。忘れる。祐一は、声に出して言った。
「忘れる」
黒い箱の中で、単語が短く跳ね返る。もう一度。
「忘れる」
三度目で、箱の霧が、撫でられた獣の毛のように逆立ち、次の瞬間、壁紙の内側へ吸い込まれていく。最奥の影に、輪郭が一瞬だけ濃くなる。頬の形。指の長さ。髪の流れ。楓。祐一は息を止めた。呼べば、扉が反応する。呼ばなければ、輪郭は薄いまま残る。彼は呼ばなかった。結菜の体重が、決断の重さになった。
箱の内圧がふっと緩む。扉がゆっくり開く。ロビー。いつもの白。香りのない空気。壁に貼られた掲示。祐一は、振り返らない。背中で、金属の内壁が微かに軋む。そこに、挨拶を欠いた空白が残っている。
部屋に戻る。チェーン。二重の鍵。室内の空気が、外と分かれて静止する。祐一はノートを開き、太い字でゆっくり三行を書いた。
――忘れる。
――暴く。
――娘を守る。
黒は薄れない。紙の繊維の奥で、僅かに脈打った。指でなぞると、ほんの微かに温かい気がした。遠くで、排水の一筋がまた落ちる。音は相変わらず距離を持たず、角の数にだけ従う。だが、意味が少し変わった。さっきの箱の中で、あの音は息だった。今は、儀礼の拍だ。
祐一は、ノートにさらに文章を追加した。
挨拶をしなかった。夜中だ、元々言われていた夜。それなのに、無事に戻ってこられた。……どうして? まだ早い? それとも、問われていないから?
こんな状況では、とても眠れない。
ソファに沈み、リビングのカーテンの隙間から外を覗く。隣のマンションのベランダのカーテンが、風もないのにふっと揺れる。こちらを見ている影。楓の面影が一瞬、貼り付く。次の瞬間、ただの影。影のほうが本物だと、確信してしまうほど自然な変換。祐一は、カーテンを隙間なく閉じた。小さな鍵。大きな布。こちら側とこちら側を区切る最後の砦。
一人でこっそり、廊下へ出た。用事はない。非常灯の緑が海底の光のように揺れ、壁の影が二重に重なってはひとつに戻る。曲がり角で足音が一度だけして、すぐ消えた。足音だけが「いた」を証明し、肝心の本人はどこにもいない。いつも、いない。
何度も感じたこの感覚。間違いではない。それなのに、誰も何も教えてくれない。間違っているのか、正しいのか。
表示盤は沈黙している。だが、祐一が近づくと、数字がゆっくり動いた。七、六、五、四で止まり、一度だけ『B』が灯る。消える。七へ戻る。扉は閉じたまま。箱は、内側だけを膨らませ、また萎む。何度も見たのに、まだこの先へはいけない。
変わらない。変わらないことが怖い。違和感ではなく、当たり前になりつつ現状に。
――『乗りますか?』
声。どこからでもない、どこにでもない声。金属と人の中間の硬さ。最初に聞いたあの問い。そこから、何度か聞いた問い。祐一は、はっきりと答えた。
「乗りません」
言い切る。自分に向かって。装置に向かって。箱は、もう一度だけ膨らみ、平らに戻った。扉の線が、白い壁に吸い込まれていく。
背中へ、誰かに数えられている気配が、ひとつ分遅れてついてくる。角をひとつ、曲がる。音。ふたつ。音。みっつ。音が近い。よっつ。遠い。いつつ。もう一度、近い。
――『乗りますか?』
さっきより遠く、しかし、より明瞭に。祐一の喉が、勝手に名前の形を作りかける。
「……楓?」
呼ばないと決めたばかりの口が、音の残像を作る。足が、勝手に数歩戻る。扉の継ぎ目は白い壁に紛れ、ただ、金属の匂いだけがふわりと残っていた。
戻る。部屋。鍵。チェーン。息。ノート。祐一は、先ほどの三行の下、皿に追加した文章のその下に、またひとつ行を足した。
――挨拶を欠いた空白が、箱に残った。
書いて、ペンを置く。黒は薄れない。紙の中で、静かに、確かに息をしている。
翌朝。白は薄い。だが、目に映るものの輪郭は、昨日よりも正確だ。テーブルの上には二人分の食器。拭き上げた天板は真っ平らだ。指でなぞれば、木目の目立たない波打ちが、指紋の渦と混ざる。
結菜の髪を結び、靴紐を結び、玄関で向き合う。扉の内側に貼った紙切れ――幼い字で書かれた「あけない ひろわない よるはあいさつする(ちいさいこえで)」――が、朝の光を受けて少しだけ光る。護符。約束。薄い紙のほうが、厚いドアより効き目があると信じたい朝。
学校までの道の輪は、今日も正確だ。だが、祐一は、輪の中にできた小さな歪みをひとつ、見逃さなかった。駐車場の片隅に、昨日はなかった小さな水たまり。天気予報は晴れ。雨は降っていない。水面の揺れが、ビーコンの拍に同期せず、勝手にさざめく。
結菜の手を引き、ほんの数秒、その揺れを眺める。揺れは、やがてビーコンの拍に同調し、静かになった。建物は、ゆっくり飲み込む。逃げ場は、すぐに塞がる。
午後、掲示板の紙面が、また少しだけ変わっていた。文言が増えたのではない。句読点が増えていた。読みやすくなった。より正確に、より親切に。祐一は笑う。今度は、可笑しさが先に立つ。丁寧に、正確に、こちらを慣らす。従いやすいように、忘れやすいように。
夕暮れ。祐一は、娘に言った。
「もう一度、エレベータに乗ろう。今度は、違うやり方で」
「うん」
返事は短い。だが、その短さに、芯があった。




