第三十話
夜が明けるころ。寝室の戸の僅かな隙間から、結菜が寝息を連ねていることがわかる。上手く寝られず思いのほか早く起きてしまった祐一は、お茶を飲みダイニングの吊り下げ灯を一段だけ落とした。
白い天板の上に、昨日の痕跡が微熱のように残っている。コップの水滴が乾いて、楕円の影をひとつだけ増やしていった。
ノート。角が擦れて、紙束自体が呼吸しているようにふくらんでいる。これまでのページには『忘れない』『記録』『加賀美』といった線が、黒の濃淡を変えながら折り重なっている。祐一は指をかけ、思い切って数枚をびりびりと破った。破った紙の繊維が、雪のように空気の中で解け、テーブルの白に淡く積もる。破るたび、胸の奥の何かが軋む。だが、この日の昇りかけた今だけは、軋みの音を肯定する。
新しいページを開く。紙の白がはっきりと冷たく、視線をまっすぐ跳ね返してくる。祐一は、太いペン先でゆっくりと書いた。
――忘れる。
書いた瞬間、黒が薄れていく幻が視野の端を掠める。最近の現象――書いたはずの線が翌朝にはひと呼吸ぶん退いている、あの感じ。祐一はそれを追い払うように、もう一度、まったく同じ場所へ黒を重ねた。
――忘れる。
――忘れる。
――忘れる。
インクが重なり、僅かな段差が生まれる。指腹で軽くなぞると、湿りがじんと移った。忘れろ、という建物の言葉に、忘れる、とこちらが言い返す。意味では対立し、文字面では擬態する。装置が削る黒に、こちらから違う黒で上書きする。祐一は、そのページを閉じ、深く長く息を吐いた。
静かな朝。耳の奥に、遠い水の音が一本だけ落ち続けている。どこかの排水管の細い滝。等間で、容赦がない。秒針の代わりに、その滴が時刻を測る。いつの間にか、家の時間の基準が変わってしまっている、と気づく。
そのまま迫りくる白は、目視で測れない程度に濃かった。窓の外の雲は薄く、むしろ軽いのに、差し込む光だけが厚い膜になって、室内の影の角をすべて丸めてしまう。
――初めて、白になりたる白を見た。これが、いつも迎えた朝となる一瞬。
テーブルの跡は、自分が使ったマグカップの跡を消して、ふたつになった。――今まで、意識して三人分という形を崩していた。また増やすわけにはいかない。空席は壁に向け、箸は二膳、カップもふたつ。輪染みは拭き上げ、乾いた布で磨き上げた。
それでも、天板の白の奥から、うっすらと第三の円が浮き上がろうとする気配があった。まだ肉眼では見えない。だが、結菜とともにここへ座れば、目に入ってしまう。祐一は視線をずらし、気づかないふりをした。今日は外へ出る。円が見える前に。
「パパ、きょうは?」
「歩く。ちょっとだけ遠くまで」
「うん」
小さな頷き。結菜の声は、眠りの残りかすを含み、あくまで素直だった。
「大丈夫か?」
余計な一言だとわかっていても、口から出るのを止められなかった。結菜は祐一をぽかんとした表情で見ている。
「なにが?」
「何でもない」
「……だいじょうぶだよ」
小さな気遣い。もやもやとした白が結菜を覆っても、彼女は一人、素直さを武器にその白を振り払う。
彼女の伸ばした手が、祐一の手を握る。ひんやりと湿った手は、緊張を表していた。
階段を下りる。踊り場の小窓に、薄く二重の影が貼りついている。濃い影の輪郭に、薄い影が半歩遅れて寄り添い、重なる寸前にまた剥がれる。
大小は変わらない。違うのは薄さだけ。祐一は、見なかったことにして階段を通り過ぎ、エントランスに見向きもせず自動ドアを抜けた。
マンションの前の歩道。右へ折れる。角。横断歩道。バス停。並木。ベンチの肘掛。ガードレールの擦り傷。電柱のプレート番号。見慣れたものたちに、ひとつずつ心の中で名前を与え、数える。目に映る速度を、わざと落とす。名前の列を増やすことで、意識しなければ忘れるものの立ち位置に重さを与える。
角。横断歩道。バス停。信号機。中央分離帯。名前も知らない木。標識。街灯。
三巡目で、祐一は立ち止まった。並木の枝振り、ガードレールの剥げ方、横断歩道の白線の欠けの位置――全てが同じだ。町は輪っかになっている。足が輪を描くのではなく、地面のほうが、既に輪だ。
「パパ、また、ここ」
ぴたりと止まり、結菜がベンチの肘掛を指さす。塗装の泡立ちの形まで、さっきと寸分違わない。祐一は歩幅を変えてみる。速く歩く。遅く歩く。突然止まる。走る。道からそれる。結菜を前に、自分が前に。どの試みも、輪の軌道から体を外に押し出してはくれない。
遠くで、細い水の音がした。
落ちる。落ちる。落ちる。
祐一は音の方角を探る。距離が変わっても音量が変わらない。けれど、角を曲がるごとに、音の輪だけが近づいてくる。みっつ角を過ぎると、音が一番大きくなり、よっつめで一旦遠ざかり、いつつめでまた戻る。地理に従っているのではない。角の数に同期している。
まるでビーコンだ、と思った。位置情報の擬似衛星。町の空は晴れているのに、ここだけ見えない衛星が頭上で回っている。祐一は、自嘲の笑いを喉の奥でひとつ押し潰した。
「ジュース、のみたい」
「いいよ。……あ、待って。ここじゃない自販機で」
「だめなの?」
「あの自販機はだめだ。違うやつにしよう」
「うん」
さっきも見た赤い筐体から一本だけはみ出た缶。買えば、袋小路にはまって二度と出られなくなる気がした。遠回りを選ぶ。だが、次の角を曲がると、同じ赤い自販機が立っていた。はみ出た缶の角度まで一致している。
「……コンビニかスーパーへ、買いにいこうか」
「じはんき、だめなの?」
「あれは、同じ自販機だろう?」
幼い子に言うべきではない。だが、結菜はきっとわかっている。今がどういう状況なのかを。
「わかった、パパ」
手を強く握り、自販機から離れる。
先のベンチに座る初老の女性がいた。手には薄い冊子。表紙に「地区だより」とある。昨日見かけたときは緑色だったが、今日は藍色だ。表紙の色だけが変わる。内容の列は同じに見える。中身は見えない。だが、表紙の色以外は同じだった。
祐一は会釈をして通り過ぎる。女性も会釈する。頷く角度は、掲示板の前で誰も足を止めない時の角度と同じだ。
「パパ、あっち」
結菜が指さす。公園へ続く小径。砂の上に落ちた小枝の形が、昨日と違う。昨日はYの字だった。今日は長い一本だ。祐一は、嬉しくなった。違うものがある。輪の外側へ出るための、細い裂け目だ。
「行こう」
小径へ一歩踏み出す。砂がしっとりと沈む。次の一歩で、砂はさらさらと乾いている。三歩目で、砂は再び湿る。四歩目で、いつもの歩道に戻っていた。振り返っても、小径はそこにない。公園は見える。砂場も、すべり台も。だが、小径が、消えている。
戻る。角。横断歩道。バス停。並木。ベンチ。音。音。音。ビーコンは淡々と滴り続ける。
マンションの前へ戻った。自然に、という言葉がこれほど冷たく感じられる瞬間はない。集合ポストの前の掲示板。昨日と同じ配置。昨日と同じ紙面――ではなかった。
――落とし物は拾わず、三日経過後に管理人室へ届け出ることを必ず忘れないでください。間違いなく行ってください。
いつもの文言に言葉が増えている。強制の強さが一段上がったわけではない。ただ、語がひとつ、増えた。祐一は無意味に、紙の四隅の画鋲の銀色に視線を固定した。吐き気が引く。焦点が戻る。増えるのは、濃さではなく語彙の数だ。こちらの動き――「忘れる」上書き――に対し、向こうもまた言い回しの数を重ねてくる。応答。調整。圧の微修正。
「パパ、わすれないで」
袖口を引く小さな手。頼る声ではない。念押しでもない。確認でもない。命令ですらない。名づけようのない「お願い」が、単語の形を取って祐一の胸に刺さった。忘れる、と書いたばかりだ。忘れないで、と言われたばかりだ。ふたつを重ねて持つ方法を、祐一はまだ知らない。




