03
「ほら菫、挨拶しぃ」
初めに聞こえたのは老人の声だった。
白い髭を蓄え歯を出して笑顔を作る老人。その歳に反して庭仕事で体型はがっしりとしていた。
その後ろに立つのは一人の少女。鶯色の着物に身を包んで、その姿勢は幼いながらも正しい。
くりっとした丸い目、まっすぐ伸びた鼻筋に、口元には小さな笑窪がふたつ出来ていた。
「初めまして」
非常に可愛らしい子だと思った。向日葵の思わせる明るくハキハキとした声。幼いながらもその容姿が非常に優れていることは理解出来た。良太は緊張して挨拶も返さず、慌てて母の足に隠れた。
「そうだ、坊ちゃん。良かったらうちのに庭を案内してくれんか?」
気を利かせた庭師が、良太の前に菫を押す。
「良い?」
「うん」
「鐘が鳴ったら戻って来いよ〜」
庭師と母に見送られながら、池から流れる小川の横を歩いて進んだ。
身体全体に変な力みが入って歩くのが少しぎこちない。少し気を抜いたら手足が同時に動いてしまいそうだ。
夕刻の鐘を鳴らすまであと数刻ある。この庭園を見て周るには子供の足でも充分だ。
その頃の菫もまた、こちらに興味があった訳ではなく、ただ庭師の仕事を見にきたのだろう。会話はそのほとんどが庭師に終着した。
丁寧に剪定された木々の名前を聞かれ、答えると、ふんふんと激しめに頷きながら楽しそうに眺めていた。
その姿に、この庭園を誇る気持ちと、もう少し自分を見て欲しい。そんな二つの気持ちがぐちゃまぜになって、真っ黒に染まったシロップみたいに良太の心に沈澱した。
この庭園は子供の足では中々の冒険で、青々とこちらを迎え入れた枝垂れ柳の下に辿り着くと、しばらく涼むことにした。
柳の下に並んで座ると強い日差しが遮られ、涼しい風が吹く。
汗が風で冷えてほてった身体の温度が少しずつ下がってそれに従うように良太の緊張も解れた。そのせいかついうとうとして、枝垂れ柳に寄りかかったまま眠ってしまった。
私が起きたとき、もう夕陽は傾いていて、隣に座っていたはずの少女は居なくなっていた。
枝垂れ柳を靡かせる風はもう止んでいて、項垂れたまま良太を飲み込まんと覆っていた。
夕刻の鐘はとうに鳴り終わったあとだろう。急ぎ飛び起きて来た道を若干の早足で戻る。
急いで家へと向かう途中、彼女は現れた。良太とは逆方向へ、優雅に小川を泳いでいた。
白波を全身で受け止め、青白く冷たくなった四肢を方々に投げ出して流れていった。それは、鶯色の着物に身を包んでいた。
あれは一体……だれ? その顔は――ボヤけて思い出せない。
その日、きっと何度も怒られたような気がする。なにか酷く恐ろしい言葉を言われた気もするが、全てが遠くモヤがかかって思い出せない。
そして気づいたら良太の目は人の顔を正確に映すことが出来なくなっていた。
見知らぬ人から親、兄まで、誰の顔もボヤけて、見えない。家から出ることがなくなったのもこの頃からだ。一週間に一回程度、庭園を歩きまた家に篭る。そんな生活だった。
両親や兄も心配していたと思う。そう思うが、その顔が見えない以上、真偽は分からない。
あぁ、あの時夕刻の鐘が聞こえていれば……そう考えずには居られなかった。




