02
そこに、彼女はいた。
小川の途中に植えられた枝垂れ柳は青々と枝葉を揺らす。その下で彼女は素足で川に水しぶきを跳ねさせていた。
所々破けた洋服に、ざっくばらんに切られたおかっぱ。こちらを見上げる猫のように大きな黒目は、およそ年齢に似つかわしくない面妖さで、少し目を離せば弾けて消えてしまいそうな危うさを秘めていた。
「ここは私有地だよ。部外者は入っちゃだめなんだよ」
覚えたての言葉で話しかけた。別に大人をすぐ呼ぶことも出来た。けれど、私はそうはしなかった。
「そう、でも私達しか居ないから」
彼女は足を川から引くと、良太の前に一足で近付いた。
真珠のような目が寸前に、黒目の奥の奥から闇が手を伸ばして良太の身体を掴む。
「貴方が秘密にしてくれたら、嬉しいな?」
目が細まり、ぷっくりと腫れた涙袋が視界に入ると、柔らかな感触が唇に触れた。
指だ。夏だというのに、血の気の感じない青白い指が唇に触れた。
「ねぇ! 僕は良太。君の名前、教えてよ!」
なにか、彼女を繋ぐものが欲しかった。現世との繋がりを断たれた存在が形を保てないように、信仰を失った神の存在が消えてしまうように、彼女もまた消えてしまうような気がしたから。
「またね」
彼女は腫れぼったく膨らんだ涙袋を細めて笑い、強い日差しから逃げるように走り去ってしまった。
ほんの一刻にも満たない時間。枝垂れ柳がまたざあっと良太をいじらしく擽る。夏が一瞬で過ぎ去ってしまうような衝撃的な出会いだった。
その日から毎日、あの優雅に枝葉を揺らす枝垂れ柳の下に彼女は現れた。
儚く微笑む彼女に、良太は様々な話をした。
同年代の、それも異性との会話の術など知らなかった。
庭に育つ植物、川に住む小さな生き物の名前。持てる全ての会話の種を植えては掘り起こす良太を、彼女は微笑ましそうに笑って見ていた。
彼女の目から段々と甘い匂いを発する、毒のような雰囲気が薄れていく。そんな気がした。
そんな秘密の逢瀬は、あの日を境にぱたりと止んでしまった。結局、最後まで名前を聞くことは出来なかった。
「なんだか、懐かしいですね」
「懐かしい?」
良太はその言葉に、記憶から引き戻る。
変な話だと思った。菫とは今日が初対面。ここに来るのは今日が初めてのはずだ。そんな疑問はすぐに解消された。
「実は以前おじい様に連れられてここに来たことがあるんです」
陶器のような手が川に優しく触れた。白波が緩やかに指を包み離れていく。
「ここのお庭の庭師をやってまして」
「冗談だろう?」
たしかに以前、庭師が小さな娘を連れてきた日があった。忘れもしない、あの夏の日のことだ――。
「といっても、一度だけであまり覚えてないのですが」
菫は少し気まずく、顔を下げた。
これから一生を共にするかもしれない相手、しかしその興味は自身に向かっていないことを、菫は理解していた。
だからこそ、こんな機会は逃せないのだ。
そんな反応も梅雨知らず、私は一人思考の海へと潜っていた。
もしかしたら……いや、そんな訳ない。ぽっと打ち上がった考えは不発の花火のように広がることなく地面に落ちた。
「ここも懐かしいですね」
枝垂れ柳まで歩いた菫は、慈しむように柳を撫で下ろす。
枝垂れ柳はここ最近来なかったことを恨めしそうに、いじけた表情でこちらを見ていた。
菫が振り返る直前。強い風が吹き、柳の葉が舞う。
上空から強く落ちる日差しに加え、久しく動いていないせいか、ここに来るだけでも疲れた。
「少し休もう」
柳の下に腰を下ろすと、強い日差しが遮られ涼しい風が吹く。火照った身体がじんわりと冷やされて気持ち良い。
気持ちの良い風に吹かれていると。あぁ、なんだが眠たく――。




