第6話 花見の弁当
金曜の夕食のあと、舞桜は箸を置くなり、椅子の上で背筋を伸ばした。
「明日、お弁当持って、お花見に行く!」
あまりに急だった。新聞を開いていた組長が、顔を上げた。
「明日は、町の寄り合いだ」
「ごめんなさい」と、姐さんが言った。「明日は取引先の対応があって、朝から外せないのよ」
舞桜は口をへの字にして、二人を順に見比べた。
「でも、明日じゃないと、桜が散っちゃう!」
窓の外では、庭の若木が夜風に花びらを散らしていた。確かに見頃はもう長くない。
組長が、蔵人を見た。
「蔵人、連れて行ってやってくれ」
「……はい」
舞桜の顔が、ぱっと明るくなった。それから、姐さんを振り向く。
「ママ、お弁当は?」
「ごめんなさいね」姐さんは申し訳なさそうに言った。「明日は朝が早いから、私の方で作ってあげられなくて」
舞桜はしょんぼりしかけて、それから、期待を込めて蔵人を見上げた。
「クロ、お弁当作れる?」
「……刑務所で作っていた。作れないことはない」
「作って! 卵焼きと、ウインナーと、おにぎり!」
蔵人は台所へ行き、冷蔵庫を開けた。卵、ウインナー、鶏のもも肉、ごぼうとにんじん。米は十分にある。急な話だが足りないことはない。頭の中で献立を組み立てる。鶏肉の下味とごぼうの下ごしらえを今夜のうちにやっておけば、朝には間に合う。
「蔵人さん」
姐さんが台所の入口に立っていた。手に、畳んだ布を持っている。
「油がはねるから、これを使って」
広げられたのは、ピンクのフリルがついた花柄のエプロンだった。胸元には大きなリボンがついている。
「……これは」
「舞桜が選んだのよ」
「油がはねたら火傷するよ」と、後ろから舞桜の声がした。
蔵人はエプロンを見下ろした。男が台所に立つのさえ柄ではないというのに。
「……これでなくても」
「他にないの」と、姐さんは笑顔で言った。
蔵人は観念してエプロンに腕を通した。リボンが、胸の上で揺れる。
そこから先は、手が勝手に動いた。
鶏肉は一口大に切って醤油とにんにくで揉み込む。ごぼうとにんじんは細く均等に刻む。包丁がまな板の上で一定の拍子を刻んだ。八年間、毎朝何百人分の食材を刻んできた。考えなくても指が覚えている。
「……意外」
気がつくと、台所の入口に舞桜が張りついていた。
「クロ、すごい! 意外! すごい!」
「……見るな」
「だって、すごいんだもん! 包丁がトントントンって!」
「見るな。気が散る」
恥ずかしかった。それ以上に手元が狂いそうだった。
「あっちに行ってろ」
「えー」
「見るなら作らん」
舞桜は頬を膨らませた。それから、何かを思いついた顔になる。
「じゃあ、公園でお弁当を開けるまで見ない! お楽しみにするの!」
「……好きにしろ」
少女はくるりと背を向けて部屋に戻っていった。蔵人は小さく息を吐いた。
◇
土曜の朝は早かった。
姐さんは六時前に家を出た。玄関でエプロン姿の蔵人を見ると、何も言わずに口元へ手を当てた。
「お弁当、お願いね」
「……はい」
「楽しみにしてるわ」
蔵人は台所に戻った。
卵は出汁と醤油と砂糖で濃いめに味をつけ、焦げ目がつくまでじっくり巻く。ウインナーは皮が弾けるまで炒める。米は醤油を塗って香ばしい焼きおにぎりにした。鶏肉には粉をまぶして油の中へ。ごぼうとにんじんは醤油と砂糖で煮詰めるように炒めた。
味見はした。自分では悪くない味だった。だが、これは大人の男に食わせる味だ。八年間作ってきたのは、濃くて腹に溜まる飯だった。十歳の女の子の口に合うのかは蔵人には分からなかった。
戸棚の奥から出した三段の重箱に詰め終えたのは七時過ぎだった。風呂敷で包み、蔵人はようやくエプロンを外した。
「……似合ってるな」
背後で声がした。出がけの組長が玄関からこちらを見ていた。口の端が小刻みに震えている。
「……組長」
「いや。何も言っとらん」
組長はそのまま出て行った。扉が閉まる直前、肩が揺れているのが見えた。
蔵人はエプロンを畳んで荷物の底に入れた。
「クロ、お弁当できた?」
舞桜が廊下から顔を出した。蔵人が風呂敷包みを持ち上げると、少女はぎゅっと目をつぶった。
「見てないよ!」
目をつぶったまま、舞桜は壁に手をついて台所の前を通り過ぎた。途中で少し壁にぶつかった。
蔵人は黙って包みを持ち直した。
◇
川沿いの公園は、満開の桜と花見客で埋め尽くされていた。
ブルーシートの上で宴会をしている会社員の集団。ベビーカーを押す若い夫婦。犬を連れた老人。風が吹くたびに、淡い花びらが雪のように舞い散る。
蔵人は風呂敷包みを提げたまま、鋭い視線で周囲を見渡した。人が多い。死角も多い。山野組の噂を聞いてから、まだ一週間も経っていなかった。
すれ違った親子連れが、蔵人の頬にある古い傷を見て思わず足を止める。母親が子供の手を慌てて引き寄せ、大きく迂回して避けていった。
蔵人は何も言わなかった。昔から、自分を見る世間の目はいつも同じだ。
「クロ、あそこ!」
舞桜の声に引き戻され、視線を転じると、彼女は川沿いの大きな桜の木を指さしていた。
蔵人は瞬時に周囲を測り、桜の幹を背にできる位置を選ぶ。これなら背後は塞がり、前方の視界も広く見渡せる。
「……ここだ」
「えー、そこ日陰だよ」
「……ここのほうが安全だ」
「じゃあ、半分だけ日向に出ようよ」
結局、シートは幹の横、日陰と日向の境目に敷かれた。舞桜は靴を脱いで端に腰掛けたが、蔵人は立ったまま周囲に目を光らせている。
「座らないとお弁当食べられないよ」
「……俺は、周りを見ておく」
「座って」
蔵人はわずかに間を置いてから、渋々といった様子で膝をついた。
「いい桜だね」
ふいに、隣のシートから声がした。白髪の老人が一人、缶コーヒーを片手に微笑んでいる。
「お嬢ちゃん、いいお兄さんと来たね」
蔵人の背中がこわばった。老人の視線が、頬の傷に一瞬だけ留まる。——だが、それだけだった。
「お兄さんじゃなくて、クロだよ」と舞桜がすかさず返す。
「クロ? 犬かい」
「ううん、クロ」
「そうかい」
老人は声を出して笑った。
「いい名前だ」
蔵人はわずかに息を吐き、胸をなで下ろす。傷を気味悪がらず、ただ笑って済ませてくれる人間もいる。強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
「クロ」
舞桜が、こちらへ手のひらを差し出した。淡い花びらが一枚、ぽつんと乗っている。
「一枚、クロにあげる」
蔵人はごつごつした指先でそれをそっとつまみ、ジャケットの胸ポケットへと丁寧にしまった。
「――そろそろ、お弁当にしようか!」
その言葉に、蔵人の手が風呂敷包みの上でわずかに強ばった。
◇
舞桜が膝の上に重箱を載せ、風呂敷の結び目に手をかけた。
「いくよ」
「……ああ」
「どんなお弁当かなあ。ワクワクするなあ」
結び目がほどけて蓋が持ち上がる。重箱の一段目があらわになった。
舞桜の動きがピタリと止まった。
「……茶色い」
小さな肩が、目に見えて落ちた。
卵焼きは濃い茶色だった。香ばしいというより、しっかり焦げ目の艶までついている。隣に控えるウインナーは焦げ茶色。さらに醤油色の焼きおにぎり、唐揚げ、きんぴら。端から端まで、見事なまでに徹底した茶色だった。
蔵人は何か弁解しようとして、しかし言葉が出てこなかった。
「……嫌なら、食べなくてもいい」
「食べるもん!」
舞桜がふっと顔を上げて叫んだ。
「いただきます!」
割り箸を割ると、卵焼きを一つ、思い切って口に入れた。
ひと噛みした瞬間、丸かった目がさらに大きく見開かれる。
「……おいしい!」
もう一つ頬張り、今度は焼きおにぎりにかぶりついた。
「おいしいっ! これもおいしい! なにこれ!」
蔵人は密かにほっと息を吐き出す。いつの間にか握りしめていた拳が、ゆっくりとほどけていった。むさ苦しい男たちにしか食わせたことのない飯が、十歳の少女の口にも合ったらしい。
唐揚げを頬張った舞桜が、口をもぐもぐさせながら、ふと思い出したように顔を輝かせた。
「そうだ! クロも食べて!」
舞桜は箸で卵焼きをつまむと、ひょいと蔵人の口元へ突き出した。
「はい、あーん」
「……馬鹿な真似をするな」
蔵人は一瞬ぎょっとして身を引いた。子供がただのノリでやっているのか、それとも一体どういうつもりなのか、真意が測れず戸惑う。周囲の花見客の視線も気恥ずかしかった。
だが舞桜は、特に深く考えていそうな様子もなく、からかうわけでもなく、ただ純粋におすそ分けのつもりで箸を差し出しているだけらしかった。
「自分で食う」
蔵人はぶっきらぼうにそう言い返し、自分の箸で重箱の卵焼きをつまんで口に入れた。舞桜も「あ、そっか」と特に不満げな様子もなく、自分の分の卵焼きをもぐもぐと食べ始める。
「……どう?」
「……悪くない」
ぶっきらぼうに答えると、舞桜は「でしょ!」と嬉しそうに胸を張った。
それから自分の分を飲み込んで、舞桜はきっぱりと言った。
「でも、茶色いのはかわいくない」
「……かわいくない」
「お弁当はかわいくないとだめなの。ピンクとか、黄色とか、華やかな色がいいの」
「……野菜を入れればいいのか」
「野菜は別に食べたくないけど」
「……どっちだ」
「かわいいほうがいいの! あとね、彩りとかバランスとか、ちょっとは考えたほうがいいよ。ママがいつも言ってるから」
「……彩り」
蔵人はその言葉を口の中で転がした。どこかで聞いたことがあった。どこだったか、もううまく思い出せなかったが。
「それと、多い! 三段もいらない!」
「……つい、いつもの量で」
「いつもって、何人分?」
「……三十」
「三十人前!?」
「……なんでもない」
ふと、隣に座っていた老人が鼻をひくつかせた。
「おや、いい匂いがするね」
「食べる? クロのお弁当、おいしいよ」
舞桜が唐揚げを一つ、老人に差し出した。老人は目を細めて受け取り、ぽいと口に放り込む。
「……うまい。こりゃあお兄さん、なかなかの腕だ」
「……どうも」
蔵人は居心地悪そうに小さく頭を下げた。
その頭上から、桜の花びらがひらりと舞い、お重の卵焼きの上に落ちた。
「あ、卵焼きに桜がついた」
舞桜が箸を止めてじっと見つめる。
「茶色にピンクで、ちょっとかわいいかも」
蔵人は取ろうと箸を伸ばしかけて、やめた。
「……そのままでいいのか」
「少しだけ見てから」
舞桜はしばらく愛おしそうに卵焼きを眺めていた。それから花びらをそっと指先でつまみ、ピクニックシートの端に置いた。
「ありがとう、桜さん」
それから、おもむろに卵焼きを口に入れた。
しばらく、二人は黙って箸を動かした。穏やかな春の風に吹かれて、川面を大量の花びらが流れていく。
「来年も、お花見したいな」
舞桜が、ポツリと言った。
「クロと。そのときは、もっとかわいいお弁当ね」
蔵人は、ピタリと箸を止めた。
来年。
この八年間、先のことなど考えたこともなかった。先を考えると、ただ過ぎ去る日々を数えるだけになってしまうからだ。明日のことだけを見て、一日ずつ塀の中の時間をやり過ごしてきた。「来年」という響きを、蔵人はひどく久しぶりに聞いた気がした。
「……来年の桜が、咲いたらな」
舞桜はそれに気づいたのか、何も言わずに嬉しそうにふわりと笑った。
帰り道、重箱は綺麗に空になっていた。一段分は舞桜が、残りは蔵人がすべて平らげていた。
「また、クロのお弁当がいい。今度はかわいいやつで」
「……茶色いぞ」
「だから、かわいいのって言ってるでしょ!」




