第7話 家庭訪問
短縮授業の迎えから戻ったあと、蔵人はダイニングのテーブルを三度拭いた。椅子の向きを揃え、来客用のスリッパを玄関に出す。
姐さんは朝、出がけに言っていた。
「蔵人さん、お願いね」
組長も姐さんも、今日はどうしても外せない仕事が入っていた。担任には組長から、事前に電話で事情を伝えてある。
蔵人はネクタイを締めた。普段はまず着けないものだが、今日ばかりはそうも言っていられなかった。いつもの黒いスーツに皺がないかも、念を入れて三度確かめた。
「先生、来る?」
ランドセルを放り出した舞桜が、台所から顔を出した。
「先生が来たら、お茶出すね!」
「……熱いのは、やめろ」
「大丈夫! ちゃんと、お湯、沸かしてあるから!」
大丈夫の使い方が間違っていた。
チャイムが鳴ったのは、四時半を少し回ったころだった。
蔵人は玄関に向かい、扉を開けた。そこに立っていたのはスーツ姿の女性だった。背筋がまっすぐに伸びている。蔵人を見るなり一瞬だけ息を呑み、それから深く頭を下げた。
校門の内側で見かけた、あの女性教師だ。彼女が、舞桜の担任だったのか。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
名乗ったあと、担任は顔を上げた。
「舞桜さんの、叔父さまでいらっしゃいますね。藤田さん」
藤田さん。
蔵人は一瞬、誰のことを呼ばれたのか分からなかった。
「クロ、呼ばれてるよ」
背後から舞桜の声が飛ぶ。
「……俺か」
蔵人は担任に向き直った。喉がやけに乾いていた。
「……藤田です。蔵人です。本日はわざわざ、ありがとうございます」
十五年前、あの人の養子になった時からずっと、戸籍の上では「藤田蔵人」だった。それでも、その名で呼ばれることなど滅多になかった。
『藤田は、帰る場所だと思っとけ』
親父の声が、耳の奥で響く。
ダイニングに通すと、担任は椅子の端にきちんと腰を下ろした。蔵人もテーブルを挟んだ向かいの椅子に浅く腰掛ける。先代の前以来となる、身の引き締め方だった。
「お茶、持ってきました!」
台所から、舞桜が盆を捧げて出てきた。湯呑みが二つ。盛大に湯気を上げている。
「……舞桜」
「熱いから、気をつけてね!」
直後、舞桜の足が椅子の脚にひっかかった。斜めに傾く盆。
蔵人は反射的に腰を浮かせ、横から盆の端を掴んで支えた。湯呑みが倒れるのはギリギリで防いだものの、溢れ出た熱湯と湯気が蔵人の袖を容赦なく濡らした。
「……」
「ごめんなさい!」
「……下がれ」
「じゃ、先生、ごゆっくり!」
舞桜は大人ぶった顔でお辞儀をすると、さっさと台所へ引っ込んだ。蔵人は盆をテーブルに置き、湯呑みを担任の前へと滑らせた。とても熱くて手では持てない。
担任は笑わなかった。ただ、湯呑みの縁をじっと見つめ、小さく息を吸い込んでいる。
――必死に笑いをこらえているように、蔵人には見えた。
◇
「まず、通学路を確認させてください」
担任は鞄から地図を取り出し、テーブルの上に広げた。自宅から学校へ至る道筋に、一本の赤い線が引かれている。
「川沿いの道を、通っていらっしゃいますか」
「……はい」
「毎日、叔父さまが送迎を?」
「……はい」
「緊急連絡先、およびお迎えの方の登録も確認いたしました。叔父さまの登録で問題ありません」
どこまでも事務的な声だった。蔵人は静かに頭を下げた。
担任は地図を丁寧に畳むと、手をテーブルの上で組み直した。そして、蔵人の目をまっすぐに見つめた。
「学校側は、藤田さんのご家庭の事情を承知しております。そのうえで、舞桜さんを他のお子さんと特別区別することはありません」
「……」
「ただ」
担任が一呼吸を置く。
「正直に申し上げます。不安を口にされる保護者の方もいらっしゃいます。校門の前でお子さんが怖がっていた、と」
「……当然です」
蔵人は頷いた。当然だった。頬の傷も、この威圧的な体格も、知らない者から見れば恐ろしいだけに違いない。学校側が波風を立てたくない心情も察せられた。この町で、藤田の家に睨まれて得をする者などいないのだから。
「ご迷惑は、おかけしません」
「迷惑、という話ではなく」
担任の声に、わずかに熱がこもった。蔵人が顔を上げると、相手は背筋をピンと伸ばし直していた。組み交わした指先は白く強張っている。それでも、決して目を逸らそうとはしなかった。
「私は、舞桜さんの担任としてお話ししています」
一語一語を区切るように、担任は続けた。
「校門の少し手前で、お別れしていただけないでしょうか。他の子どもたちが、舞桜さんを遠巻きに見るようになってしまわないために。……学校のためではありません。舞桜さんのためです」
蔵人は言葉を失った。
この教師は怖がっている。力の入った指先を見ればわかる。恐怖に震えながらも逃げず、まっすぐに腰を据え、蔵人の正面から言葉をぶつけてきているのだ。
「……分かりました」
蔵人は膝の上に手を置いたまま、深く頭を下げた。
「校門の手前で。必ず」
「……ありがとうございます」
担任の肩から、すっと力が抜けた。
◇
「最近の、舞桜さんのことですが」
担任は湯呑みに口をつけた。ようやく冷めたらしい。
「始業式のころ、舞桜さんはとても元気がありませんでした。ぼんやりしていることが多くて、給食も半分以上残していて。四年生から持ち上がりで担任をしておりますので、いつもの舞桜さんとの違いがよく分かりました。とても心配していました」
蔵人は黙って耳を傾けた。舞桜に元気がなかった話は姐さんから聞いていたが、第三者の口から聞くのは初めてだった。
「でも、ここ一週間はまるで別人です」
担任の口元が、わずかに緩んだ。
「毎日楽しそうに登校して、よく笑っています。給食もおかわりをするようになりました。叔父さまのお力だと思います」
「……自分は、何も」
「舞桜さんは、叔父さまのお話ばかりしてくれますよ」
蔵人は言葉に詰まった。何を話しているのか、聞くのが怖かった。
「学校でも、叔父さまのことを『クロ』と呼んでいますね。何か理由があるのですか?」
「……分かりません。舞桜が、勝手に」
「そうですか」
担任は少しだけ微笑んだ。
「子供はいろいろな形で、気持ちを整理しますから」
それ以上、担任は追及しなかった。
その時、台所のほうでどたっと音がした。舞桜が勢い余って転がり出てくる。
「先生! クロはいい子です!」
蔵人は額に手を当てた。
「……お前」
「だって、先生がクロをいじめてると思って!」
「いじめてはおりませんよ」
担任が肩を震わせた。堪えきれずに、小さく吹き出す。
「存じています、舞桜さん」
舞桜は真っ赤な顔でむくれた。蔵人は頭を抱えたくなった。
やがて、担任は一枚のプリントを鞄から取り出した。
「来週の水曜日に、授業参観とそのあと学級懇談会があります。お仕事のご都合で難しければ、無理にとは思いませんが」
「……両親に、伝えます」
蔵人はプリントを受け取った。差し出す指先が、かすかに震えている。組長も姐さんも、来週まで多忙が続くはずだ。結局、自分が行くことになるのだろう。
玄関で靴を履き、担任は振り返った。
「藤田さん。舞桜さんを、よろしくお願いしますね」
「……はい」
扉が閉まった。蔵人はしばらく動けなかった。藤田さん――その呼び方が、耳の奥に残っていた。
「クロ、先生いい人だね」
いつの間にか、舞桜が隣に立っていた。
「……ああ」
「でしょ」
舞桜は嬉しそうに笑った。




