第5話 親父のところへ
水曜の朝、玄関にはいつもより荷物が多かった。
舞桜がランドセルの横に、四つ折りの画用紙を抱えて立っている。
「おじいちゃんに渡してね。手紙と、絵も描いたの」
端から、黒い犬の絵が少しはみ出していた。蔵人は両手で受け取り、ジャケットの内ポケットに収めた。
組長が紙袋を差し出す。菓子折りの重みがあった。
「手土産だ。うちのが選んだ。親父に、くれぐれもよろしく伝えろ」
「はい」
「迎えは佐藤が行く。心配するな」
「行ってきまーす!」
舞桜の声が玄関に響いた。
「……行ってきます」
蔵人は舞桜の後を追い、学校まで送った。校門に立つ女性教師が、今朝も深く頭を下げた。そのままの足で駅へ向かう。
ローカル線は二両編成で、乗客はまばらだった。窓の外には水を入れる前の田んぼが続いている。山の雪は、出所の朝に見たときよりもずっと少なくなっていた。
十五年前の冬にも、この線に乗った。あのときは窓の外が一面の雪だった。十五歳の蔵人は座席の端で膝を抱え、一言も喋らなかった。
終点でバスに乗り換える。昼前の乗客は蔵人ひとりだった。手土産の紙袋を幾度も持ち替える。揺れるたび、菓子折りの角が膝に当たった。
山あいの集落は、記憶よりも小さかった。
古い農家の門の前で、蔵人は足を止めた。母屋の屋根も、庭の柿の木も、縁側の位置も、十五年前と変わっていない。変わったのは自分のほうだった。
敷居が、高かった。
どれくらい立っていただろうか。数分かもしれなかった。縁側の奥から、鍬を持った老人がゆっくりと出てきた。
小さくなっていた。八年前、組の座敷で見たときよりも、さらに。背は丸く、髪は真っ白で、頬は削げている。ただ、目だけが昔のままだった。相手の底まで見透かす目。
「……来たか」
嗄れた声だった。電話で聞いた声と同じだった。
◇
座敷に通されると、お茶を運んできた老婆が蔵人の顔を見て目を細めた。
「あのときの坊やかい。大きくなって」
「……ご無沙汰しております」
「最初の一晩は布団に入らんと、縁側で寝とったんよ。ねえ、親分」
親分と呼ばれた老人は、何も言わずに湯呑みを手に取った。隣家に住む元組員の妻らしい。夫に先立たれた後も、こうしてこの家の世話を焼いているのだという。
蔵人は座布団を避け、畳の上に直接正座した。菓子折りを両手で置く。
「長い間、ご迷惑をおかけしました」
「顔を上げろ」
言われるままに顔を上げると、先代がじっと蔵人を見つめていた。
「龍一から聞いとる。噛みついてばかりだった狂犬が、孫の番犬とはな。丸くなったもんだ」
「……はい」
「八年、どうじゃった」
「……毎日、日にちを数えておりました」
「そうか。数える日が終わったのは、ええことだ」
蔵人はジャケットの内ポケットから舞桜の画用紙を取り出し、両手で差し出した。
先代は紙を開き、ゆっくりと目を通した。舞桜がそこに何を書いたのか、蔵人には分からない。
先代が顔を上げた。蔵人を見る。
「……わしがこわいのか。あの狂犬が」
「……いえ」
「勝手な真似をしおって。迷惑も掛けた。それは忘れるな」
「……はい」
「じゃが、孫を守った。それは礼を言う」
蔵人は畳に額をすりつけた。何も言えなかった。
しばらくして、先代は紙を裏返した。朝、端からはみ出していた黒い犬の絵だった。
「……ええ犬だ」
それから紙を丁寧に畳み、懐に入れた。
「舞桜は、笑うか」
「……よく笑います」
「そうか」
先代の目が、わずかに緩んだ。
「舞桜が襲われたと、龍一から聞いとる。山野を疑っとるそうじゃな」
「……はい」
「わしも同じ見立てじゃ。あの連中は昔から子供を狙う」
先代は湯呑みを置いた。
「ここへ連れてきて匿えればええが、学校があるでな」
十五歳の蔵人も、同じ山野に狙われてこの家に匿われた。縁側に座り、一晩中眠れなかった。今はあの子が、同じ立場にいる。
「……俺が付いています」
「お前を匿うたときと同じじゃな」先代は小さく頷いた。「ならええ」
昼は老婆が用意したふきのとうの天ぷらと蕎麦だった。
「今年はまだ、ふきのとうくらいしか出とらんけどね」
ふきのとうの苦みが舌に残る。
「お嬢ちゃんは、お盆に来ると畑で泥だらけになってねえ」と、老婆が天ぷらを取り分けながら言った。「去年は大根を引き抜いて、自分の背より長いって威張ってたよ。本当は腕の長さくらいだったけどね」
「……そうですか」
「その前の年は山の入口で迷子になってな」と、先代が箸を動かしながら言った。「わしが見つけたときは、石の上に座って泣きもせんと、空を見とった」
「親分が来るのを分かってたんだよ」
「……そうか。そうじゃったかもしれん」
先代は、少しだけ笑った。笑うと昔の面影が覗く。
「あの子は強い子じゃ」
蔵人は、泥だらけの舞桜と、石の上に座る舞桜を想像してみた。どちらも上手く思い浮かばなかった。自分が知っている舞桜は、まだ数日分しかない。
「藤田の名は、重かったか」
箸を止めた蔵人に、先代が言葉を重ねた。
「お前を養子にしたとき、お前はまだ十五の小僧じゃった。名前を変えられるのは嫌じゃったろう」
「……いえ」
戸籍の上では藤田蔵人だった。この人の養子になったからだ。それでも蔵人は、拾われる前の姓――黒崎を名乗り続けていた。
「お前が黒崎でいたいなら、それでええ」先代は蕎麦をすすった。「藤田は、帰る場所だと思っとけ」
蔵人は何も言えなかった。蕎麦が少し塩辛く感じられた。
「震災のあと、思うたんじゃ」先代は窓の外の山を見つめた。「自分の時代は終わった、とな。龍一に重荷を押しつけた」
「……兄貴は、立派にやっとります」
口にしてから、昔の呼び方が出たことに気づいた。先代は何も言わず、口の端だけをわずかに動かした。
「知っとる。だから、わしはここにおる」
それ以上、先代は何も言わなかった。老婆がさりげなくお茶を注ぎ足す。
壁の時計が一時四十五分を指した。
「坊や、次の列車は二時十分だよ。逃したら四時まで来ないからね」
蔵人は慌てて立ち上がった。先代が縁側まで見送りに出てくる。老婆が紙袋を差し出した。山菜の包みだった。
「孫に食わせろ」と、先代が言った。
「はい」
「蔵人」
敷居をまたぎかけた足が止まる。
「いつか舞桜に、お前の話をしてやれ。お前が何者なのか、あの子は知っといたほうがええ」
蔵人は答えず、深く頭を下げた。先代はそれ以上、何も言わなかった。
◇
帰りの列車は行きより早く感じた。蔵人は手の中の山菜の包みを持て余していた。先代の最後の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
夕方、家に着くと玄関に舞桜が立っていた。奥のリビングから快が立ち上がって出てくる。
「お、帰ったか。お嬢は無事に届けたぜ」
「……ああ」
「顔、疲れてんな。親父、元気だったか」
「……思ったより、少し小さくなっていた」
「そうか」
快はそれ以上聞かなかった。蔵人の肩を一度だけ叩いて、玄関を出て行った。
「おじいちゃん、元気だった?」
舞桜が蔵人を見上げて訊ねた。
「……ああ。これ、渡された。孫に食わせろ、だとさ」
蔵人が山菜の包みを差し出すと、舞桜はそれに鼻を近づけて目を閉じた。
「おじいちゃんの匂いがする」
その姿に、蔵人は再び先代の言葉を思い出した。だが、口には出さなかった。
夕食は山菜の天ぷらだった。姐さんが、ふきのとうとのびるを揚げてくれた。
「親父の山菜か」
組長が箸を取った。
「懐かしいな」
舞桜はふきのとうを小さくかじって、顔をしかめた。
「にがい!」
「それが旨いのよ」
姐さんが笑った。
「にがいもん」
舞桜は残りのふきのとうをそっと蔵人の皿に移した。
「クロ、おじいちゃんに叱られたから、これ、ごほうび」
「……叱られたとは言ってねえ」
「顔に書いてあるもん」
組長が新聞の陰で肩を震わせた。蔵人は観念して小さく呟いた。
「……叱られました」
「だろうな」
「……礼も、言われました」
「そうか」
組長はそれ以上聞かず、ただふきのとうを一つ口に運んだ。
「……苦いな」
「でしょ!」
舞桜が得意げに言った。蔵人は移されたふきのとうをかじる。確かに苦かった。だが、悪くない苦さだった。
夕食のあと、二人は縁側に並んで座った。距離は拳ひとつ分空けている。桜の若木は満開に近かった。風が吹くたび、花びらが二、三枚、縁側に落ちてくる。
「今度、舞桜も行く」
「……遠いぞ」
「行く」
「……考えておく」
舞桜は満足そうに頷いて、足をぶらぶらさせた。




