第4話 首輪の散歩
火曜の夕方。迎えから戻った玄関で、舞桜はランドセルを置くやいなや部屋へ駆け出していった。と思えばすぐに戻ってきて、背中に隠していた手を差し出して見せる。
「クロの首輪! これ、クロの予備なの」
ピンクのリボンがついた大きめの首輪だった。大型犬用のしっかりした作りで、小さなプレートには「クロ」の文字と肉球の絵が添えられている。
「名札みたいにつけるの。迷子になっても、みんなクロだって分かるでしょ」
「……つけねえ」
「どうして」
「ガキの遊びに付き合う年じゃねえ」
「遊びじゃないもん」
首輪を握りしめた舞桜が蔵人を見上げる。視線を逸らして靴を脱ごうとする蔵人の正面へ、舞桜が回り込んだ。
「つけて」
「つけねえ」
「つけて」
「つけねえ」
玄関の板の間で押し問答が三往復した。四往復目で、舞桜が急に静かになる。
「……クロにつけてほしかったのに」
小さな声だった。首輪を持つ手が、少し下がる。
蔵人は長く息を吐いた。八年の服役でも、この手の攻め方に耐える訓練など受けていない。
「……家の中だけだ」
舞桜の顔が、ぱっと明るくなった。
さっそく蔵人の首に首輪を回す舞桜だったが、金具が固く、小さな手では背伸びをしてもカチッと嵌まらない。
「あ、あれ……固くて留まらない」
「貸してみろ」
蔵人は首輪を受け取り、姿見の前へと向かった。大型犬用とはいえ、太い首に巻きつけて片手で金具を留めるのは、無骨な指には存外難しい。鏡を睨みつけながら顎を上げ、指先に力を込める。
「……っ、チッ」
「舞桜がやる?」
「触るな。自分でやる」
何度かもたつき、そのたびに低く唸りながら、ようやくパチンと固い音を立てて首元で金具を固定した。額にうっすら汗が滲んでいる。
「似合う!」
「……似合うのか」
蔵人は首元に巻かれた、ピンクのリボン付きの「クロ」の首輪に手を添えた。似合う、というのがどういう状態を指すのか、皆目分からなかった。
◇
リビングのソファで、蔵人の黒い板が震えた。
〈報告は、メッセージでもお願いします。 川崎〉
文字は読める。読めるが、返し方が分からない。昨日は電話の出方を教わった。今日はこれだ。
「クロ、また睨んでる」
向かいで宿題を広げていた舞桜が鉛筆を止め、ローテーブル越しに身を乗り出してきた。
「教えてあげる。吹き出しのところをトンってして。下に文字を書くところが出るから、そこを押して、指で選んで、最後にこの矢印」
蔵人は人差し指を立て、一文字ずつ画面を押した。〈い〉。〈じ〉。〈ょ〉はどこだ。
「小さい『ょ』は、『よ』を打ってから、このボタンを押すの」
「……面倒だ」
「ここ」
少女は身を乗り出して、ローテーブルの上の黒い板の画面を、指先で素早く二度叩いた。蔵人の打ちかけの文字の後ろに、小さな〈ょ〉が現れる。
「……お前、詳しいな」
「川崎に教えてもらったの。ママと一緒に。クロを探すのに、ネットの掲示板を使うといいって。みんな見てくれるの。電柱に貼るより、ずっと遠くまで」
「……川崎が」
「うん。姫って呼ぶけど、教え方はうまいの」
あの棘のある男が、子供には丁寧に教えたらしい。蔵人は少し意外に思った。トシの声が頭をよぎる。情報は拳より速い。蔵人は黒い板を睨み直し、〈な〉を探した。
〈異常なし〉
送信の矢印を押す。ほどなく、〈承知しました〉と返ってきた。
「できたね」
「……できた」
指先が、少しだけ軽くなった。その時、玄関のチャイムが鳴る。
蔵人は立ち上がって玄関へ向かった。覗き窓に金髪の頭が見える。扉を開けた。
「よう。組長に届け物だ。……あ?」
快の視線が、蔵人の首元で止まった。
蔵人は、その視線の先を見下ろす。
首元に、ピンクのリボンのついた「クロ」の首輪。
時間が止まった。首輪のことを、完全に忘れていた。
「……」
「…………」
快の肩が、小刻みに震え始めた。
「ぶっ」
爆発した。
「ついに本物の犬になったか!」
「違う」
「違わねえだろ、それ、クロって」
「違う。これは——」
蔵人が首輪を外そうと手を伸ばした瞬間、背後から小さな足音が駆けてきた。
「だめ! つけるって言ったもん!」
舞桜が両腕を広げて、蔵人と快の間に立ちはだかった。蔵人の手が、首輪の手前で止まる。約束は約束だ。
快は腹を抱えて、玄関の柱にもたれかかった。
「お、お嬢、よくやった……」
「でしょ!」
蔵人は握りしめた拳を、ゆっくり下ろした。怒る気力も、言い返す言葉も、もう残っていない。
ひとしきり笑ったあと、快は目元を拭って、封筒を蔵人に渡した。
「組長に渡しといてくれ。……それと、明日だ。親父のところ。お嬢は、俺が見る」
蔵人の顔がこわばった。親父。昨夜、電話で聞いた声が、耳の奥に蘇る。
「……分かった」
「顔、こわばってるぞ」快はにやりと笑った。「首輪のおかげで、ちょっと和らいでるけどな」
「……うるせえ」
帰り際、快は玄関を出て振り返った。
「似合ってるぜ、クロ」
蔵人の拳が、快の背中を狙って持ち上がる。
「快、またね!」
舞桜が元気よく手を振った。おかげで拳を振り下ろすタイミングを失った。
「お嬢、そいつを頼むぜ」
「うん!」
扉が閉まった。蔵人は拳を宙に浮かせたまま、しばらく動けなかった。
◇
夕食まで、あと一時間ほどあった。台所から、煮物の匂いが漂ってくる。
「クロ、お散歩に行こう」
舞桜が玄関でサンダルを履きながら言った。
「……散歩」
「うん。首輪つけて」
蔵人は自分の首元に触れた。「クロ」と書かれた首輪は、まだ巻かれたままだ。
「……家の中だけという約束だ」
「お散歩のときも、つけてほしいの」
「……首輪をつけて、外を歩くのか」
「うん」
「……恥ずかしい」
声に出してから、うっかり本音が漏れたことに気づく。
「なんで?」
「いい歳の男が、首に『クロ』なんて書かれた首輪をつけて歩いてたら、笑いものだろ」
「笑いものじゃないもん」
「笑いものだ」
「……そうなの? うーん、そう言えば、ママとパパもお外では散歩してなかったなぁ……」
「当たり前だろ!」
蔵人は思わず声を荒げた。組長と姐さんが首輪をつけて外を歩くわけがない。
舞桜は少し首を傾げてサンダルのつま先を見つめると、ぽつりと小さな声で言った。
「夕方はね、川沿いを一周するの。毎日。クロと」
蔵人は黙り込んだ。問い返さずとも、少女の声音がなによりの答えになっていた。
一呼吸置いてから、蔵人はコート掛けから黒いジャケットを取って袖を通した。襟を高く立て、前のジッパーを一番上まで引き上げて首元の首輪をすっぽりと覆い隠す。
「これなら見えねえ。文句ないだろ」
「見えないよ?」
「見えなくていい」
「でも、つけてる?」
「……つけてる」
舞桜は少し思案するように首を傾げたあと、にこっと笑った。
「うん。つけてる!」
川沿いの道には、夕方の光が斜めに差していた。
蔵人は舞桜の半歩後ろを歩いた。手は繋がない。水面を桜の花びらがゆっくりと流れていく。舞桜はなにも話さず、ときおり足を止めては川面を覗き込んだ。
「クロとお散歩、久しぶり」
蔵人は答えなかった。
一歩踏み出すたび、立てた襟の内側で、首に巻きついた革と金具の冷たさがずっしりと肌に沈む。
蔵人はなにも言わず、ただその歩幅に合わせ続けた。




