第3話 世話係の月曜日
月曜の朝は、玄関の騒がしさから始まった。
舞桜は上がり框に座り、赤いランドセルを膝に載せている。黒い犬の足元に小さなブザー本体を差し込んで、小さな手でランドセルの金具に付けている。
「付け替えるのか」
「学校行くときはランドセル。いつも持ってるの」
留め具をカチリと鳴らして、少女は満足そうに頷く。姐さんの言ったとおり、片時も離さないらしい。蔵人は何も言わず、靴の紐を結んだ。朝まで床に座っていた膝が、まだ少しきしんでいた。
「蔵人、頼む」
奥から組長の声がした。
「はい」
答えてから、蔵人は上がり框の前で一度だけ立ち止まった。家を出るときに、ひと声かけるものだろうか。八年間、そんな挨拶をする相手はいなかった。
「行ってきまーす!」
先に、舞桜の元気な声が玄関に響いた。
「……行ってきます」
蔵人の声は、その後ろで思ったより小さくなった。台所から姐さんが顔を出して、二人に柔らかい笑みを返す。
「いってらっしゃい」
その声を背中で受けて、蔵人は玄関の戸を開けた。外の光が、いつもより眩しい。
通学路には、桜の花びらがまばらに散っていた。
蔵人は手を繋がず、半歩後ろを歩く。舞桜は赤いランドセルを揺らして先を行く。昨日は手をつなごうと言い出した少女が、今朝は何も言わなかった。歩くたびに、ブザーを留めたランドセルの金具がカチャカチャと鳴る。
角を曲がると、登校班の子供たちが待っていた。
七、八人の小学生が、蔵人を見て一斉に凍りつく。先頭の六年生らしい男の子が、後ろの子を庇うように一歩下がった。低学年の女の子の目に、みるみる涙が溜まっていく。見守りの母親たちは険しい顔で子供たちを呼び寄せ、蔵人から遠ざけるように背後へ庇った。
蔵人は顔色を変えず、さらに半歩下がって距離を取る。
「みんな、おはよう!」
舞桜が元気よく手を振った。子供たちはぎこちなく頷くだけだった。
校門が見えてきた。
門の前には、黄色い腕章をつけた母親が数人立っている。登校の見守り当番らしい。蔵人は校門の手前、道路の端で足を止めた。ここから先へ入るわけにはいかない。
腕章の母親たちは蔵人に気づくと口を閉ざし、近くにいた子供たちを素早く呼び寄せて門の中へ入れていく。声をかける者はいない。蔵人の周りだけ、ぽっかりと空間が空いた。
「行ってきます、クロ」
「ああ」
舞桜が校門へ駆けていく。門の内側では、スーツ姿の若い女性教師が子供たちを迎えていた。蔵人に気づくと一瞬だけ動きを止め、深く頭を下げる。目は合わせなかった。怖がられているのか、事情を聞かされているのか。蔵人には分からない。黙って頭を下げ返した。
その時、校門の内側から男子の声が聞こえた。
「なあ、あの人ヤクザじゃね?」
「顔に傷あるぞ」
「やばいって、目合わせるなよ」
囁いているつもりらしいが、声はよく通った。蔵人は表情を変えずに、遠くの電柱を見つめる。慣れている。慣れているはずだった。
舞桜が、くるりと振り返る。
「やめて」
小さな体に似合わない、よく通る声だった。
「クロは舞桜の番犬なの」
子供たちがぽかんと口を開けた。
「あの傷はね、舞桜を守ってできた、強い番犬の証なの」
蔵人は思わず頬の傷に触れた。
犬の話だ。数日前にいなくなった黒い犬の、顔の傷の話だ。そう思った。けれど「舞桜を守ってできた」という言葉だけが、古い傷の上に重なった。偶然だ。八年前の夜を、あいつが覚えているはずがない。
同級生たちは顔を見合わせて、何も言わなくなった。腕章の母親たちは、門の脇で口元を覆っている。
「じゃあ、行ってきます!」
舞桜は何事もなかったように、昇降口まで駆けていった。そして、思い出したように振り返る。
「クロー! 帰りも迎えに来てねー! 三時半だよー!」
校庭中に響く声だった。登校してきた子供たちが一斉に蔵人を見て、母親たちが一斉に目を逸らす。蔵人は固まった。
「……ああ」
聞こえるはずのない小声で答えて、蔵人は校門を離れた。背中に保護者たちの視線を感じながら、足取りは来た時より少しだけ軽い。
◇
昼前の事務所は静かだった。
窓際の机で、川崎がノートパソコンを睨んでいる。快はソファに寝そべり、天井に向かって煙を吐いていた。
「よう、番犬の帰りか」
「うるせえ」
蔵人が向かいのソファに腰を下ろすと、川崎がパソコンから顔を上げた。眼鏡の奥の目が穏やかに細められる。
「蔵人さん。興味本位なんですが、ひとつ伺っても?」
「……何だ」
「八年前に山野組へ一人で乗り込んだ人がいた、という噂は聞いていました。組長に拾われた経緯も、八年の服役の理由も噂でしか知りません。そんな人が、どうして姫の子守りに収まっているのか。純粋に、興味がありまして」
純粋な興味にしては、言葉に棘があった。蔵人は眉を寄せた。話すことなど何もない。
「俺が話してやるよ」
快が煙草を指で弾いて身を起こした。
「やめろ」
「いいじゃねえか、減るもんでもねえ」
快は取り合わずに話し始めた。
「こいつはな、十五のガキの頃にはもう親もねえ、金もねえ。あるのは拳だけでな。毎日街のチンピラ相手にケンカ三昧だ。そのうち山野組の頭の面子まで潰しやがって、命を狙われる羽目になった」
「盛るな」
「盛ってねえよ。で、行き倒れてたところを、当時まだ若い衆だった今の組長が拾って飯を食わせた」
蔵人は黙った。そこは盛られていない。
「最初は組長にも噛みついてな。今じゃ組長の犬だ」
「犬ですか」
「忠犬だ。狂犬から忠犬に格上げだな」
川崎は口元だけで笑った。
「で、八年前だ」
快の声が少し低くなった。
「お嬢が狙われた。こいつはお嬢を庇って、顔にこの傷だ」
川崎の目が、一瞬だけ真剣な色を帯びた。
「そのとき姫は、無事だったんですか」
さっきまでの興味本位とは、調子が違っていた。蔵人はそう感じたが、川崎はすでに元の穏やかな笑みを浮かべ直していた。
「ああ」快が答えた。「無傷だ。この傷のおかげでな」
「……そうですか」
快が続けた。
「で、頭に血が上った馬鹿が、山野組に——」
「快」
蔵人が低い声で遮った。快は肩をすくめ、煙草を灰皿に押しつけた。
「……ま、そういうこった。結果が懲役八年だ」
川崎は静かに頷いた。
「山野組に一人で。噂は本当だったんですね」
蔵人は答えなかった。川崎は眼鏡を押し上げ、穏やかな声で続けた。
「八年。それで今は、姫の子守りですか」
「……何が言いたい」
「別に。拍子抜けしただけです」
川崎は笑った。
「拳だけで突っ走るのは時代遅れですよ。八年かけて手に入れたものが、これでは」
蔵人は反論できなかった。子守りという言葉は、紛れもない事実だった。
「川崎は頭は切れるが、喧嘩なら一発でやられるタイプだからな」
快が茶化すように言うと、蔵人も低く返した。
「口先だけの男だろう」
「ええ、否定しません」
川崎は微笑んだ。だが、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。蔵人はその目を静かに睨み返す。空気がすっと張った。
快がその空気を嫌うように、わざと大きな音を立てて灰皿を鳴らした。
「ほら川崎、あれ渡してやれ」
「そうでした」
川崎は引き出しを開け、黒い板を取り出した。薄く、手のひらよりひと回り大きい。
「連絡用のスマートフォンです。組から支給します。使い方は……」
川崎は少しだけ間を置いた。
「分かりませんよね」
「……どうやって使う」
「触れば反応します。まず電源を」
蔵人は黒い板を指でつまんだ。画面は暗いままだ。叩いても擦っても何も変わらない。自ずと指に力が入った。ミシ、と嫌な音が鳴る。
「壊さないでください。予備はありませんよ」
「横だ、横! ボタンがあるだろ」
快が腹を抱えて笑った。
「電源だ電源。お前、ガラケーの感覚のままかよ」
蔵人は端末の側面を探し、ようやくボタンを押した。画面に白い光が灯る。蔵人は黙って、その光を睨みつけた。
「そうだ、忘れてた」
快が笑いを収めて言った。
「組長からだ。昼は街を見回ってこいとさ。山野組の動きを見てこい」
蔵人は黒い板をポケットにねじ込んで立ち上がった。川崎の視線が背中を追ってきた気がしたが、振り返らなかった。事務所を出る足取りは、逃げるように速かった。
◇
昼下がりの街は、知らない顔をしていた。
蔵人は、山野組の連中が顔を出しそうな場所を一つずつ回った。昔はチンピラや売人が煙草と安酒の匂いの中でたむろしていた路地には、今や白い壁の小綺麗なカフェが入っている。ガラス越しに、ノートパソコンを開いた若い客が見えた。隣は錆びたシャッターが降りたまま。その先はコインパーキングになっていた。
どこを回っても、八年前の地図は通用しなかった。電柱の上には、黒いドーム型の防犯カメラが赤い小さなランプを点している。どこを歩いても、見られている気がした。道を探して引き返すうちに二時間以上が過ぎ、手がかりは何も見つからなかった。
最後に残ったのは、一か所だけだった。蔵人は路地の奥へ進み、突き当たりで足を止めた。そこだけは八年前と同じだった。地下へ降りる狭いコンクリートの階段。看板のない鉄扉。扉の上の覗き窓。
階段を降りて鉄扉を叩くと、覗き窓が開いた。目だけが覗く。
「……誰だ」
「俺だ」
少しの間のあと、重い音がして扉が開いた。
トシは昔より痩せていた。頭の禿げ上がった小柄な男だ。年はもう五十を過ぎているはずだった。
「狂犬が帰ってきたって噂は、本当だったか」
「その呼び方はやめろ」
「相変わらずだな」
バーは昼でも薄暗かった。カウンターの奥にだけ小さな明かりが点いている。トシは缶コーヒーを二本取り出すと、一本を蔵人の前に置いた。
「ここは何も変わらねえな」
「変わらねえのは、ここだけだ」トシは笑わなかった。「街も組も時代が変わった。外の防犯カメラ、見たか」
「ああ」
「今の抗争は、拳と刃だけじゃ済まねえ。ハッキング、監視カメラ、ネットの裏取引。情報は拳より速いんだよ」
蔵人は缶コーヒーのプルタブを爪で起こした。刑務所の職業訓練でパソコンの講習を受けたことがあるが、三日で諦めた。まだ包丁を握っているほうがマシだった。
「その手に持ってるのは何だ」
トシの目が、蔵人のポケットから覗く黒い板に留まった。
「組から渡された」
「スマホか。使えるのか」
「電源を入れるのに五分かかった」
トシは声を出して笑った。笑い皺の中に、昔と同じ目があった。
「……で、何しに来た。昔話をしに来たわけじゃねえだろう」
「兄貴の……組長の使いだ。山野組の動きを知りたい」
「まだ兄貴が抜けねえか」
「うるせえ」
トシは缶コーヒーを置いて、声を落とした。
「山野組の連中が、ここ数日、小学校の周りをうろついてる」
蔵人の手が止まった。
「写真を撮ってたって話もある」
蔵人の顔から表情が消えた。
「……今朝は何も見なかった」
「見えねえようにやるからだよ」トシは言った。「お嬢の世話係に収まったって噂は、もう回ってる。学校まで付きっきりってわけだ」
「……耳が早えな」
「情報屋だからな」
トシは意味ありげに笑ったが、それ以上は突っ込まなかった。
「いくらだ」
「出所祝いだ。今日は取らねえ」
「借りは作らねえ」
「借りじゃねえ、祝いだ。黙って受け取っとけ」
蔵人は黙って立ち上がった。礼は言わなかった。言わなくても通じる相手だった。
階段を駆け上がって地上へ出た。ポケットから黒い板を取り出し、横のボタンを押す。画面に数字が浮かんだ。二時五十分。迎えは三時半だ。学校までは、歩けば三十分はかかる。
倉庫街を抜ける近道があったはずだ。蔵人は足を速めた。
だが、近道は塞がれていた。倉庫の跡地に高層マンションが建ち、頑丈なフェンスが道を遮っている。八年前にはなかったものだ。
蔵人は舌打ちして、来た道を引き返した。迂回路を探して知らない路地を走り、再び黒い板を取り出して地図を開こうとしたが、どこを触っても何も出てこなかった。
もう一度電源ボタンを押すと、冷酷に数字が進んでいた。三時二十分。
蔵人は黒い板をポケットにねじ込み、走り出した。
◇
校門に着いた時には、三時四十五分を回っていた。
息が上がり、シャツが背中に張りついている。校門の前には母親たちの姿もなく、下校する子供たちの姿もとうに消えていた。蔵人は息を整え、フェンス越しに校庭を見やった。
校庭の隅のベンチに、舞桜がいた。隣には背の低い男の子が座っている。日焼けした顔に、跳ねた短い髪。男の子は灰色の粘土の塊を高く掲げていた。トゲだらけの怪獣だ。その声が風に乗って聞こえてくる。
「俺のは怪獣な。ぜってえ強いぜ」
「へえ、かっこいい」
「お前のも見せろよ」
舞桜が笑っていた。蔵人には決して見せたことのない、同い年に対するごく自然な笑い方だった。
——これでいい、と蔵人は思う。同じ年の子供同士が並んで座り、図工の作品を見せ合う。それが本来あるべき景色だ。自分のような男は、フェンスの外にいればいい。
その時、男の子が舞桜の膝の上にあったものをさっと取り上げた。
粘土の犬だった。黒く塗られたいびつな塊で、首にはピンクの粘土のリボンがついている。
「なんだこれ、ブサイクな犬!」
男の子はそれを高く掲げて笑った。
「怜央、返して!」
舞桜が立ち上がる。怜央は背伸びをして手を高く上げた。舞桜の手は届かない。
蔵人は反射的に一歩を踏み出していた。校門の中へ——だが、すぐに足が止まる。校門の外まで。それは朝、自分で決めた線だった。
迷う一瞬の間に、舞桜は怜央の足を踏みつけていた。
「いてっ!」
怜央が手を下げた隙を見逃さず、舞桜は粘土の犬を取り返す。そのまま怜央の前に仁王立ちになった。
「クロを馬鹿にしないで!」
その声は校庭の端まで響いた。
怜央はたじたじと後ずさる。
蔵人は踏み出しかけた足を静かに引いた。守る必要などなかったのだ。頼もしく、そして少しだけ寂しかった。
やがてこちらに気づいた舞桜が、一目散に走ってきた。
「遅い! 三時半って言ったのに!」
「……悪かった」
「十五分も遅れたんだから!」
プンプンと怒る舞桜を、蔵人は見下ろした。いなくてもいい存在だとまでは思われていないらしい。
ランドセルを背負った怜央が、ベンチのほうから歩いてきた。背丈は舞桜と同じくらいだが、蔵人を見上げる瞳は驚くほど真っ直ぐだった。
「おっさん」
「……何だ」
「お前が遅えから、こいつずっとベンチで待ってたんだぞ。俺が付き合ってやってたんだからな」
蔵人は少し考え、小さく頭を下げた。
「……そうか。悪かったな。助かった」
怜央は目を丸くし、気まずそうに視線を泳がせた。
「べ、別に! 暇だっただけだし!」
そのまま逃げるように走り去っていく。
校門を出ると、舞桜はさっそく粘土の犬を蔵人の目の前に突き出してきた。
「見て見て、クロ!」
どっちのクロだ、と聞きかけて、蔵人は思いとどまった。
黒く塗られた塊。首にはピンクのリボン。耳は片方だけが長く、もう片方は押し潰されている。
……不格好だ、という指摘は飲み込んだ。さっき怜央が足を踏まれた光景を思い出したからだ。
「……悪くねえ」
「ほんと? クロ、かっこいい?」
「……ああ」
舞桜は、弾けるような笑顔を見せた。
帰り道、舞桜は昨日貼ったチラシを電柱ごとに確かめながら歩いた。
「ちゃんと貼ってある」
「そうだな」
「クロ、見つかるかな」
「賢い犬なんだろ」
「うん」
遠回りをして最後の電柱を確かめ終えたところで、舞桜が不意に口を開いた。
「あの子、面白いけど時々意地悪するの。……クロと帰るほうが好き」
「……そうか」
「約束して」
舞桜が足を止める。ランドセルについている防犯ブザーの金具が、カチャリと小さな音を立てた。
「ずっと一緒にいてね」
傾いた夕日が、少女の桜色の髪を赤く染めていた。
「約束はしねえ」
そう言って蔵人が先に歩き出すと、舞桜はいつものようにその袖をキュッとつかんできた。蔵人はそれを振り払わなかった。
——その時、背後のフェンスの向こうで何かが動いた。
蔵人は足を止め、振り返る。校庭の隅にある植え込みの陰。だが、誰もいない。ただ風に枝が揺れているだけだった。
「クロ?」
数歩先で立ち止まった舞桜が、首を傾げてこちらを見ている。気づいてはいないようだ。
「……何でもねえ」
蔵人は再び歩き出した。舞桜の半歩前へ出る。
夕日が長く伸ばした蔵人の影が、少女の小さな影をすっぽりと包み込んでいた。
◇
夕食のあと、リビングのソファで蔵人のポケットの中の黒い板が震えた。
画面に〈川崎〉と表示されている。電話だ。蔵人は画面を睨みつけたまま固まった。
「クロ、鳴ってるよ」
向かいで宿題を広げていた舞桜が、鉛筆を止めて顔を上げた。
「……出方が、分からねえ」
「緑のところを、指でスーッてやるの。早く」
言われた通り、蔵人は太い指で緑のマークをなぞった。
「……何だ」
『そろそろお戻りの頃だと思いまして。本日の見回りの報告を』
「組長に直接する」
『承知いたしました』
通話は、一方的に切れた。
「できたね」
舞桜が笑う。
「ついでに、かけ方も教えてあげる。緑の受話器をポンって押して、数字の画面で番号を押して、もう一回、緑の受話器」
蔵人は指示通りに緑の受話器を押してみた。数字の盤面が現れる。着信に出るよりも、ずっと簡単に思えた。
「誰かにかけてみる? 練習」
蔵人は連絡先の画面を開いた。
組長。快。川崎。登録されているのは、その三つだけだ。その上を、親指が行き来する。
川崎でも、快でもない。もっと深い場所に、ひとつの顔が浮かんでいた。
――親父。
出所して三日目。まだ挨拶をしていない。隠居して遠くに住んでいるからと自分に言い訳をしてきたが、本当はただ、後ろめたいだけだった。
「……今日は、いい」
蔵人は画面を暗転させた。舞桜は不思議そうに首を傾げた。
◇
舞桜が風呂に入っている間、蔵人は縁側に出て黒い板を取り出した。
舞桜に教わった通り、緑の受話器のマークを押す。画面に現れた盤面に、古い数字の並びを引っ張り出した。十五の冬、匿われていた田舎の家の固定電話の番号だ。外で何かあったら、この家にかけろ。そう叩き込まれた数字を、十五年が経った今でも指が覚えていた。一つずつ番号を叩き、もう一度、緑の受話器を押す。
呼び出し音が、長く続いた。
「……はい」
受話器の向こうから、嗄れた声がした。八年前より、少しだけ細くなっている。
「……親父。蔵人です。戻りました。挨拶が遅れて申し訳ありません」
長い沈黙が流れた。
「……そうか」
それだけだった。
「声は、変わらんな」
「……はい」
「だが声だけじゃ足りん。顔を見せろ。近いうちにな」
「……はい」
「日取りは、龍一と決めておく」
ブツリと、通話が向こうから切れた。
蔵人は黒い板を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
夜風が通り抜け、月明かりの下を桜の花びらが舞っていた。
◇
三日目の夜、蔵人は準備を怠らなかった。
昨夜の敗因は、はっきりしている。袖を封じても手首を掴まれた。眠った少女の手は、一番近くにあるものを掴む。ならば、手が伸びる先に、あらかじめ代わりのものを置いておけばいい。
風呂から上がった舞桜が、扉の隙間から顔を出した。
「クロ、今日も、寝るまでいてね」
「……ああ」
蔵人はベッドの脇の棚から、一番大きなぬいぐるみを下ろした。少女が黒い犬のぬいぐるみを抱いて潜り込むのを待ってから、床に腰を下ろす。扉は細く開けたままにした。
やがて、規則正しい寝息が聞こえてきた。まだ眠りが浅いうちに、蔵人は用意したぬいぐるみを、少女の手が伸びてくる側へそっと置いた。
毛布から小さな手が滑り出てきた。探るように宙をさまよう。蔵人は息を殺した。指先が蔵人の手首に触れかけ――止まった。そのまま横にある、ぬいぐるみの耳を掴む。
握る力が完全にぬいぐるみに移った。少女は眉ひとつ動かさずに、眠り続けている。
蔵人はゆっくりと腰を上げた。足音を殺して扉の前まで歩き、一度だけ振り返る。
「……おやすみ」
扉を静かに細く開けたまま廊下に出て、壁に背中を預け、長く息を吐き出した。勝った。何に勝ったのかは、よく分からなかった。
ポケットの黒い板は暗いままだった。夕方、受話器の向こうから聞こえた嗄れた声を思い出す。――顔を見せろ。近いうちにな。
蔵人は客間へ向かった。その夜は久しぶりに、布団で眠ることができた。
トシはGrokに書かせたドラフト版から登場した、Grok考案のキャラクターです。




