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第2話 クロを探して

 目を覚ましたのは、背中を刺すような痛みのせいだった。


 カーテンの隙間から、薄い朝光が差し込んでいる。天井近くの桜色の壁紙が、徐々に朝の色に染まっていった。蔵人は床に座り込んだまま、ベッドの縁に背中を預けて夜を明かしたらしい。首は岩のように固まり、腰から下は完全に感覚が失われていた。


 袖は、まだ握られていた。


 毛布から出た小さな手は、一晩たっても力を緩めていない。当の少女は黒い犬の形のブザーを胸に抱き、口を半開きにして小さな寝息を立てている。昨夜呟いた寝言は、その寝息の中にすっかり溶けてしまったようだった。


 そっと指を外そうと息を殺したところで、扉の向こうから声がした。


「あら」


 廊下に、エプロン姿の姐さんが立っていた。おたまを持ったまま、目を丸くしている。


「ずっといてくれたの? てっきり客間に戻ったものと」

「……寝かしつけは、済みました」

「それは、見れば分かるわ」


 姐さんは口元に手を当て、肩を細かく震わせた。隠す気もない笑いだった。蔵人は何か言い返そうと立ち上がろうとしたが、足がしびれてまるで言うことを聞かない。


 見られたのが姐さんでよかった、と蔵人は胸中で吐き捨てた。この滑稽な姿が外に漏れ、川崎の耳にでも入れば何を言われるか分からない。


「ん……」


 少女が身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。焦点の合わない目が天井を泳ぎ、やがて蔵人の顔で止まる。


「クロ」


 まだ寝ぼけた声だった。だが次の瞬間、少女の顔がパッと華やいだ。


「クロ、おはよう! クロ、探しに行くよ!」

「……何をだ」

「クロを!」


 跳ね起きた少女に、ぐいっと袖を引っ張られた。立ち上がろうとした蔵人の膝が笑い、足の痺れも手伝って派手な音を立てて床に転がった。少女がけらけらと声を上げて笑い、姐さんはおたまを持ったまま、ついに腹を抱えて笑い転げた。


 ◇


 朝食は、姐さんが焼いた甘塩の鮭と卵焼き、そして湯気を立てる豆腐の味噌汁だった。


 組長はすでに席について、読み終えた新聞を几帳面に畳んでいるところだった。


「舞桜は支度に時間がかかるから、先にいただきましょうか」


 姐さんがお椀に味噌汁を注ぎ、卓に並べた。蔵人は言われるまま席につき、静かに手を合わせた。


「……いただきます」


 鮭に箸を伸ばした、その時だった。


「駄目っ!」


 廊下から、外出着に着替えた舞桜が飛び込んできた。腰に両手を当てて仁王立ちになる。


「一緒に『いただきます』するの! 待てだよ!」


 蔵人の箸が鮭の手前で止まる。ふと横を見ると、組長の箸もまた、卵焼きの手前でぴたりと止まっていた。


 舞桜が勢いよく席につくと、パンと威勢よく手を合わせた。


「いただきます!」

「……いただきます」


 蔵人が気を取り直して箸を動かすと、組長も黙って卵焼きをつまもうとした。


「あら、あなたは?」


 姐さんの穏やかな、けれど一切の逃げ道を塞ぐ声が飛ぶ。組長の動きがぴたりと止まった。


「……いただきます」


 組長は蚊の鳴くような声で呟き、卵焼きを口に運んだ。舞桜が満足そうに深く頷く。


 その様子を横目で見届けてから、姐さんが蔵人に向き直った。


「今日、あなたの寝間着を買ってくるわね。昨夜は、うちの人のでは小さかったでしょう」

「……自分で買います」

「舞桜のお守りがあるでしょう。夕方までには用意しておくわ」

「……金は、払います」

「あとでね」


「蔵人」

「はい」

「街も最近物騒だ。舞桜から目を離すな」

「了解しました。……組長」


 呼び慣れない二文字が、まだ喉の奥に引っかかる。組長は何も言わず、静かに味噌汁をすすった。


 ◇


 日曜の街は、うっすらと桜の色に染まりかけていた。


 川沿いの並木はまだ五分咲きで、ほころびかけた枝先が春の風に揺れている。家族連れの笑い声、自転車のベルの音、そして遠くで吠える犬の声。


 舞桜は家を出る時から、自然な動作で手を伸ばしてきた。蔵人は気づかない振りをして、その手を取らなかった。


「クロ、手つなごうよ」

「迷子になるなら、袖でも持ってろ」


 少女は少し頬をふくらませたが、素直に袖口をつかんだ。不満げな顔のまま、キュッと握りしめている。


 商店街の角で、買い物袋を提げた主婦が二人、こちらを見て足を止めた。顔に傷のある大男と、桜色の髪の少女。主婦たちはあからさまに目を逸らし、ひそひそと囁き合いながら早足で通り過ぎていく。


 ——妙な噂が立ちますよ。

 川崎のすました声が耳の奥で再生された。蔵人は歩幅を大きくし、少女との距離を意識的に半歩空けた。だが、引っ張られた袖に引っ張られ、すぐにまた元の距離に戻された。


 公園に着くと、舞桜はショルダーバッグから大事そうに折り畳んだ紙を取り出した。


 画用紙に、太い赤マーカーで「迷い犬 クロを探しています」と書かれている。真ん中に貼られた写真には、黒くて大きな犬が、芝生の上でこちらを向いて座っていた。首には、アンバランスなピンクのリボンが蝶結びになっている。


「クロの写真。みんなに見せるの」

「……お前が作ったのか」

「うん。写真はママにプリントしてもらったの。ずっと貼りに行きたかったけど、一人じゃダメって言われてたから」


 数日前の事件のあとだ。一人で外に出せるはずがない。蔵人は黙って頷いた。


 蔵人は写真を覗き込んだ。黒くて、デカい。ただそれだけの犬の写真だった。


「……よく撮れてるな」

「でしょ」


 公園には日曜の家族連れが溢れていた。桜の下にシートを広げた気の早い花見客や、砂場で遊ぶ子供たち。リードを引かれた犬が、芝生の上を楽しそうに駆け回っている。


 舞桜は桜の木の周りを走り回り、茂みを覗き込んだ。


「クロー!」


 蔵人は反射的に振り返った。


「……俺か」

「違うよ。クロじゃなくて、クロ!」

「どっちがどっちだ」

「どっちもクロだよ!」


 少女は迷いなく言い放ち、再び茂みに顔を突っ込んだ。蔵人は額に手を当てて天を仰いだ。通りがかった犬連れの老人が、同情と不審の混ざった微妙な目でこちらを見ていた。


「クロ、匂いで探して」

「俺は警察犬じゃねえ」

「えー。クロならできると思ったのに」


 少女は本気で残念そうに唇をとがらせた。冗談なのか本気なのか、蔵人には判別がつかなかった。


 ◇


 川沿いの遊歩道には、どこまでも桜並木が続いていた。川面には散った花びらがちらほらと浮かび、ゆっくりと流れていく。


「クロはね、舞桜が四つの時に来たの。すっごく強いの」


 前を見つめたまま、少女がぽつりと言った。


「この前、知らないおじさんが、舞桜を車に押し込もうとしたの。そしたらクロが飛びかかって、噛みついて……絶対に離さなかったの」

「……」

「おじさん、腕から血を出して、クロをくっつけたまま車で逃げちゃった」


 蔵人の足が止まった。


 噛みついて、離さなかった。

 宴の席で川崎が言っていた報告が頭をよぎる。——山野組の頭が、数日前から病院に通っている。傷は犬に噛まれたものに見える。


 偶然ではないだろう。だが、まだ疑いだ。蔵人は表情を硬くし、息を殺した。


「クロは賢いから、絶対逃げてるよ」

「……そうか」

「だから、探すの」


 少女は袖を握りしめたまま、じっと川面を見つめていた。


「……お前、本当に俺を犬だと思ってんのか」


 聞くつもりはなかった。だが、口をついて出た。


 少女はきょとんと丸い目を見開き、それから花が咲くように笑った。


「クロは、クロだもん」


 本気とも冗談ともつかない笑顔だった。蔵人にはどちらとも決めかね、結局深く追うのをやめた。


 ◇


 日が沈みかけ、街が橙色に染まるまで探したが、クロは見つからなかった。


 電柱や掲示板に貼った貼り紙は、十枚にも満たなかった。舞桜は最後の一枚を貼り終えると、ぽつんと肩を落として黙り込んだ。防犯ブザーを握りしめる小さな指先が、白くなっている。


「……賢い犬なんだろ」蔵人は無骨に言った。「どっかでじっと待ってるさ」

「うん……」

「明日も、学校の帰りに少し探すか」


 少女が弾かれたように顔を上げた。夕日を受けて、その瞳がキラリと輝いた。


「うん!」


 帰り道、古い鉄橋を渡った。


 橋の下では、川が夕日を細かく砕いて黄金色に輝いている。

 ふと、水面の一か所が不自然に波立った。風の波紋ではない。何かが岸辺の影に沿って、素早く動いたような気配だった。


 直後、背筋にすっと冷たい針が刺さるような感覚が走った。


 ——見られている。


 蔵人は脚を止め、鋭く振り返った。

 だが、夕暮れの遊歩道には、犬を連れた老人と、遠くを走る自転車の影が見えるだけだった。誰もこちらを意識している様子はない。


 山野組の動向を聞いたばかりで、神経が過敏になっているだけか。

 そう自分に言い聞かせながらも、蔵人はさりげなく舞桜の前へ身体を滑らせ、庇うように立ち位置を変えた。


 袖を握る小さな手が、ギュッと強く力を込めてきた。


 ◇


 夜、風呂上がりの廊下で、舞桜の部屋の扉が細く開いた。


 蔵人は、姐さんが昼間に買ってきた寝間着を着ていた。袖も裾も、ちゃんと手首と足首まで届いている。つんつるてんではなくなっただけで、少しだけ人間に戻れた。


 パジャマ姿の少女が隙間から顔を出す。黒い犬のぬいぐるみを両手で抱えていた。


「クロ。今日も、寝るまで一緒にいて」


 蔵人は足を止めた。


「……そんなこと言って、昨日も結局、朝までいる羽目になったからな」

「今日は、手、離すもん」

「眠ったら離せねえだろ。昨日はそれで朝、足が立たなかった」

「だって……」


 少女は、ぬいぐるみをぎゅっと抱き直した。


「クロがいないと、眠れない日があるの」


 声は小さかった。蔵人は、短く息を吐いた。


「……寝るまでだ。寝たら、俺は出る」

「うん」

「袖は、掴むな」

「掴まない」

「昨日もそう言った」

「昨日は寝てたから、知らないもん」


 舞桜は、黒い犬の足元から小さなブザー本体を抜いて枕元に置き、残ったぬいぐるみを胸に抱えて、ベッドに潜り込んだ。蔵人はベッドの脇の床に腰を下ろした。扉に近い、壁際の位置だった。扉は細く開けたままにした。そして、新しい寝間着の袖を肘より上、二の腕の付け根まで、念入りにまくり上げた。


「……何してるの」

「掴むところを、なくしてる」


 舞桜は布団の中で、くすくす笑った。


 しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。蔵人は息を殺して、そっと腰を上げようとした。その瞬間、毛布から出た小さな手が、蔵人の手首を掴んだ。


 袖は確かに掴めなかった。ただ、手首は袖よりも掴みやすかった。


 蔵人は指を一本ずつ外そうとした。少女の眉が寄って、握る力が強くなった。もう一度やると、さらに強くなった。


 蔵人は動きを止めた。今夜も、朝までコースだ。


 唯一の救いは、昨夜の惨めな姿に比べればマシだということだ。次は、手首も封じる策を考えねばならない。


 蔵人は、床に座り直した。眠れそうになかったので、見張りをするつもりで扉のほうを見た。そして、橋の下の視線を、思い返した。

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