第1話 帰ってきたクロ
門が閉まる音がした。八年分の重さをもった音だった。蔵人は振り返らなかった。
外の空気は思ったより普通で、それが少し腹立たしかった。遠くの山にはまだ雪が残っている。桜は五分咲きほどで、昨夜の雨に濡れた道に花びらが数枚張りついていた。踏むと靴の裏で小さくつぶれた。
息を吸うと土と雪解け水の匂いがした。運動場で嗅いだ土とは違う。塀に遮られない風の匂いだった。
手にあるのは紙袋が一つだけ。八年分の荷物はそれで足りた。八年前に着ていた黒いジャケットは肩がきつく、少し腕を動かしただけで袖の縫い目が悲鳴を上げている。
道の先に黒いセダンが停まっていた。ボンネットにもたれて煙草をくわえているのは金髪の男だ。佐藤快。十五年来の腐れ縁で、八年たっても、あの頃とまるで変わらない顔をしている。
「ようやく出てきやがったな」
「……お前が迎えか」
「相変わらず愛想がねえ」快は煙草を指で弾いて笑った。「しかしお前、また一回りデカくなってねえか。ムショで鍛えたのか」
「他にやることがなかったからな」
「刑務官も気の毒だぜ」
蔵人の視線が快の耳で止まった。銀のピアスが朝日を弾いている。
「そのダセえピアス、まだ付けてんのか」
「うるせえ。これの良さが分かんねえとは、感性まで相変わらずだな」
快の笑い声が春の空に抜けていった。
助手席に乗り込むと芳香剤の甘い匂いがした。ダッシュボードの隅に、車に似合わないウサギのシールが貼ってある。快の趣味にしては妙だが、聞くほどのことでもなかった。
セダンが走り出す。刑務所の高い塀が後ろへ流れ、すぐに見えなくなった。快の運転は八年前より丁寧だった。昔は黄色信号を突っ切るのが趣味だった男が、きっちりブレーキを踏む。
「……お前が安全運転とはな」
「年を取ったんだよ」
快は笑ってごまかした。
国道の脇の田んぼは水を張る前で、雨を吸った茶色い土が、朝日に黒く光っていた。そこだけは八年前と同じだった。その先には見慣れない看板が並んでいる。大型のドラッグストア。塗り替えられたコンビニ。ガソリンスタンドの跡地に建った小綺麗なカフェ。八年前は折り畳み式の電話を耳に当てて歩く人間ばかりだった。今は誰もが手のひらの小さな板を見下ろして歩いている。
六年前の大きな揺れは塀の中で経験した。外がどうなったのかは、房のテレビで流れる映像とニュースの声で知った。あの頃の画面には瓦礫ばかりが映っていたが、国道は新しいアスファルトで継ぎ目なく延び、更地だったはずの場所には真新しい家が並んでいる。爪痕はどこにも見えなかった。街は何事もなかったような顔で先へ進んでいた。置いていかれたのは自分のほうだ。
信号待ちで隣に並んだ軽自動車の女が、蔵人の顔を見て目を逸らした。色黒の大柄な体と、頬を斜めに走る古い傷。八年ぶりに向けられる種類の視線だった。窓ガラスに映る自分の顔は、八年分だけ年を取っていた。
「街、変わったぜ」
「慣れねえ」
短い返事が車内に落ちた。快はそれ以上何も言わず、ラジオの音量を少し上げた。流れてきたのは蔵人の知らない曲だった。
「そういやヤサの件だがな」ハンドルを切りながら快が言った。「お前の部屋、もう他のやつが入ってるぞ」
「知ってる」
八年も空けた部屋を組が遊ばせておく理由はない。面会に来た姐さんからも聞いていた。それでも口に出して言われると、足元の床が一枚薄くなったような感じがした。
「それより」快の声が急に弾んだ。「今日は土曜だからな。お嬢も事務所に来てるぞ」
「お嬢?」
蔵人が最後に見た時、組長の娘はまだ歩くのも危うい子供だった。もう九つか十になるはずだ。名前は舞桜。桜の季節に生まれたからだと、組長が目尻を下げて話していた。
「八年たちゃ、デカくもなる。会ったら驚くぞ」
快はそう言って笑った。フロントガラスの向こうに古びた雑居ビルが見えてくる。三階の窓には色褪せたブラインドが下りていた。
「着いたぜ。組長が待ってる」
蔵人は紙袋を持ち直した。
◇
階段のコンクリートは、八年前と同じ冷たさだった。足を上げるたび、靴底の音が踊り場で跳ね返る。
三階にある鉄扉にはペンキを塗り直した跡があり、そこだけ新しい色が浮いていた。扉の向こうからは、低い笑い声と、煙草と古い茶葉の混ざった匂いが漏れている。
快が先に立ってノブに手をかけた。
「ほら、入れ」
蔵人は手に下げた紙袋を持ち直し、敷居をまたいだ。
事務所の中は昔のままだった。ガタつく木のテーブルに、壁で日焼けして色褪せたポスター。
中にいた組員たちが一斉にこちらを振り向き、即座に居住まいを正す。
「お帰りなさい!」
頭を下げた者の多くは見知らぬ顔だった。八年前にはいなかった若い衆だ。蔵人は声を出さず、顎だけで短く応えた。
奥へ視線を向けようとした、その時だ。視界の横から、ぬっと桜色が飛び込んできた。
「クロ! 帰ってきた!」
「ぐ……っ」
腰のあたりに重い衝撃が走る。反射的に身を引こうとしたが、抱きついてきた小さな体は離れない。肩から下げたショルダーバッグが腕に当たり、揺れた黒い犬の飾りがカチリと音を立てた。
見下ろすと、片側だけ結んだ桜色の髪が、自分の顎の下で揺れていた。
「クロ! おかえり!」
「……クロ? 何の話だ」
少女は目を丸くし、蔵人の顔をまじまじと見上げてくる。
「だって、クロだもん。色黒で大きくて、顔に傷があって、クロそっくり!」
蔵人には、やはり誰のことか分からなかった。
背後で快が盛大に咳き込んだ。喉を鳴らし、必死に笑いをこらえている音だ。周囲の組員たちも一斉に目を逸らし、肩を細かく震わせ始めていた。
「おい、快」
「いや、悪い。俺にも何がなんだか」
少女は蔵人の袖をぎゅっと握ったまま離そうとしない。年のわりに小さく幼く見えるが、とても八年ぶりに会った人間に対する距離感ではなかった。
「蔵人、入れ」
奥の応接間から、聞き覚えのある低い声が響いた。少女は当然のような顔で、袖を引っ張ったままついてくる。
応接間には、年季の入った革のソファと重厚な木のテーブルが置かれていた。窓の外では桜の枝が風に揺れ、一枚の花びらがガラスに貼りついている。
ソファの中央に座っていたのは、小柄な男だった。童顔で、まるで少年がそのまま三十代の背広を着ているようにも見える。
だが、目だけが違っていた。相手の底まで見透かすような、鋭い眼光。八年前、この男はまだ若頭で、蔵人にとっては絶対的な「兄貴」だった。六年前に先代から組を継いだと面会室で聞かされてはいたが、組長の席に座る姿を見るのは今日が初めてだ。
「戻ったか。よく耐えた。座れ」
蔵人は座らず、その場に深く頭を下げた。
「長い間、ご迷惑をおかけしました。兄貴……いえ、組長」
「どっちでもいい。座れ」
「……はい」
腰を下ろすと、古い革がギィと小さく鳴った。
「体はどうだ」
「頑丈にできてますんで」
「相変わらずだな」
少女はといえば、当然のような顔で蔵人の隣の肘掛けに腰かけ、足をぶらぶらさせている。
「おかえりなさい、蔵人さん」
目の前に湯呑みを置いたのは姐さんだった。おっとりとした雰囲気を纏った女性で、微笑むと目尻が優しく下がる。蔵人は立ち上がりかけ、軽く頭を下げて湯呑みを受け取った。
「お昼からお祝いなのよ。皆が張り切っちゃって、朝から仕込みが大変だったの。舞桜も騒がしくてごめんなさいね。ここ数日ずっと落ち込んでいたのに、急に落ち着かなくなっちゃって」
「いえ。……あの、クロというのは?」
「うちで飼っている犬の名前なのよ」
姐さんは少しだけ寂しげに目を細めた。
「黒くて大きな子でね。舞桜が四つの時から可愛がっていたの。……でも数日前、舞桜を襲おうとした人から庇って顔に怪我をして……そのまま連れていかれてしまってね」
「犯人はまだ分からん」
組長が苦々しげに吐き捨てた。
姐さんが、舞桜のバッグへ視線を向ける。
「この子ね、このブザーを片時も離さないの。クロに似ているから」
隣で少女が、噛み締めるように小さく頷いた。
「クロはね、すっごく強いの。舞桜のこと守ってくれたの。それで……悪い人に連れていかれちゃった」
黒い犬の形をした防犯ブザーを、幼い指がいとおしそうにいじっている。
蔵人は無意識のうちに、自分の頬にある古い傷痕に触れていた。
顔に傷のある、黒くて大きな犬――特徴だけを並べれば確かに重なるが、だからといって犬と同列に扱われる筋合いはない。
ふと、八年前の夜が頭をよぎった。
よちよち歩きの小さな影を背中に庇い、背中と頬に刃を受けたあの雨の夜。あの時の幼子は、自分の足で立つのもやっとだったはずだ。覚えているわけがない。
姐さんが舞桜に優しく微笑みかけた。
「この人はね、舞桜が小さい頃、よく抱っこしてくれたのよ。覚えてないでしょうけど」
「……二つの頃の話です。覚えてるはずがありません」
まだ若頭だった組長に頼まれ、何度か子守りをさせられたことがあった。驚くほど軽くて、下手に力を入れたら壊れてしまいそうな体だった。
少女は答えなかった。防犯ブザーを指先でこねくり回しながら、窓の外の桜へ視線を逸らしている。
組長が短く咳払いをした。
「蔵人、話がある」
「はい」
「舞桜の世話係を頼む」
「……は?」
思わず敬語を忘れた間抜けな声が出た。だが、組長の顔にふざけた様子はない。
「出所したばかりで――」
「だからだ」
組長は蔵人の言葉を遮った。
「お前は忠義に厚い。舞桜を任せられるのはお前しかいないんだ。それに、この子がここまで懐いている。……この辺りも最近、物騒だしな」
「狂犬が、また子守りかよ」
開け放たれた戸口から、快が呆れたように呟いた。蔵人が鋭く睨みつけると、快は肩をすくめて吹き出しそうになるのを必死に耐えている。
「私は大賛成よ」
姐さんが柔らかく微笑んだ。
刃物の握り方しか知らないこの手に、子供の世話――冗談にしても出来が悪い。だが、組長の目に迷いの色は一切なかった。
この人に返せていない恩は、山のようにある。断る言葉を、蔵人は持っていなかった。
「……了解しました」
「やったあ!」
少女が肘掛けから跳び降りた。
「クロ、ちゃんと番犬してね!」
「……チビ、俺は犬じゃない」
「チビじゃないもん!」
頬をふくらませたあと、少女はすぐに笑った。けれど、その笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ――別の色がよぎった気がした。深い寂しさに似た何か。
蔵人が確かめようと見つめ返した時には、もういつもの無邪気な笑顔に戻っていた。
「蔵人」
組長がゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ店へ向かうぞ。昼から祝いだ」
「はい」
少女にぐいっと袖を引かれ、蔵人は静かに苦笑しながら歩き出した。
◇
昼の店は、夜の顔を脱いでいた。
シャッターは半分だけ上がり、隙間から差し込む光が床に白い帯を作っている。止まったミラーボールが天井で鈍く光り、黒革のソファが島のように寄せ集められていた。夜になれば香水と酒の匂いに満ちるはずの場所に、今日は姐さんの手料理と仕出しの重箱が並んでいる。入口の足元には、風に運ばれた桜の花びらが数枚、迷い込んでいた。
事務所から車で十数分の道のりで、舞桜は後部座席の窓に張りついて、桜が見えるたびに指をさして歓声を上げていた。
店の入口に、見覚えのある巨体が立っていた。
黒服の岩田だった。蔵人も大柄だが、この男の前では見上げることになる。八年たっても強面は少しも丸くならず、黒いスーツの肩幅が入口を半分塞いでいる。岩田は何も言わず深く頭を下げ、蔵人は顎で応えた。それで足りる間柄だった。
岩田は組の人間ではない。組長の学生時代の後輩で、昔から表の仕事で組を支えている男だ。
「今日は貸切だから、気を遣わないでね」姐さんが蔵人に言った。
舞桜が先に飛び込んで行った。
店内には、事務所で見た顔が先に着いていた。見知らぬ組員が数人。奥のソファには、タブレットを抱えた眼鏡の若い男もいる。蔵人が上座へ押し込まれると、快が一升瓶を抱えて隣に滑り込んできた。
「ほら、主役はここだ」
組長が立ち上がると、ざわめきが引いた。小柄な男が背広の裾を直しただけで、店の空気が一変して締まる。
「八年、よく耐えた」
組長は短く言い、グラスを掲げた。
「今日は好きなだけ飲め。それだけだ」
「……ご心配をおかけしました」
「心配なんぞしてねえ。お前は戻ってくると分かっていた」
乾杯の声が天井に跳ね返った。快が蔵人のグラスに一升瓶を傾け、それから席を回って注いでいく。奥の若い男の前まで来ると、男は手のひらで静かにグラスを覆った。
「僕は運転があるので」
「真面目か」
「帰りの足が必要でしょう」
若い男は薄く笑い、タブレットに目を戻した。快は肩をすくめて引き返してくる。
「あれが新入りだ。後で紹介する」
隣では舞桜がジュースのグラスを両手で持ち、蔵人のグラスにちん、と当てた。
「クロ、おかえり!」
「……ああ」
返事の仕方が分からなくて、蔵人はそれだけ答えた。
◇
店の扉が開いたのは、乾杯から小一時間たった頃だった。
「遅れてごめん! 駐車場が混んでてさ」
短い髪の女が、片手に紙袋、もう片手に小さな女の子の手を引いて入ってきた。蔵人は箸を止めた。十五年前から見慣れた顔だった。サバサバした笑い方も、人を斜めから見るような目つきも変わっていない。
「未奈」
「蔵人! 生きてた。ちゃんと出てこれたじゃん」
未奈は紙袋を放り出して蔵人の肩を叩いた。昔と同じ強さだった。けれど蔵人の目は、彼女の足元に吸い寄せられていた。五歳くらいの女の子が、未奈のスカートの陰から顔だけ出している。目元に見覚えがあった。
「……快」
「おう」
「そのガキ」
「俺の宝だ」
快が一升瓶を置き、女の子を抱き上げて膝に乗せた。にやけた顔は、蔵人の知る快の笑い方ではなかった。もっとだらしなく、もっと満ち足りていた。
「パパ、このおじちゃん、だあれ」
「パパの一番古い友達だ。こわい顔してるけど、いい奴だぞ」
「おじちゃん、こわい」
女の子は快の胸に顔を埋めた。慣れた反応だと蔵人は思った。慣れているはずなのに、箸を持つ手が少し止まる。
「クロはこわくないよ」
声は隣から聞こえた。舞桜がむっとした顔で女の子を見つめている。
「クロは舞桜のなの。こわくないの」
「くろ?」
女の子が顔を上げて、蔵人をまじまじと見つめた。それから小さく繰り返した。
「くろ」
「違う。俺は蔵人だ」
「くろ!」
ドッと笑い声が起きた。蔵人は額に手をやった。
「……お前ら、結婚したのか」
やっとひねり出した言葉に、未奈は鼻で笑った。
「あんたがムショにいる間に捕まえたの。尻に敷いてるけどね」
「尻に敷くって何?」と舞桜が首を傾げる。
「大人の話よ」と姐さんが笑ってかわした。
快が娘の髪を撫でながら言った。
「あのウサギのシールな。こいつが貼ったんだ。剥がしたら三日泣いた」
「……ああ」
あれか、と思い出した。ダッシュボードの、車に似合わないシール。丁寧になったブレーキも。
「子供を乗せるからな。昔みてえに黄色で突っ込んだら、未奈に殺される」
「殺すわよ」
「ほらな」
蔵人は何も言えなかった。十五年つるんだ男が、自分の知らない場所で家族を作り、笑い方まで変えている。誰が悪いわけでもない。八年とはそういう時間だった。
「お前もいつか、こんな家族を持てよ」
快が言った。冗談めかしてはいたが、その目は真剣だった。
「俺には似合わねえ」
蔵人はグラスの中身を煽った。喉を通る酒の味が、妙に薄く感じられた。
◇
「蔵人さん」
声をかけられて顔を上げると、奥の席にいた若い男が立っていた。眼鏡の奥の目が穏やかに細められている。細身の体にタブレットを抱え、背筋だけがやけに真っ直ぐだった。
「川崎といいます。お噂は、かねがね」
「……蔵人だ」
「存じています。出迎えに行けず、失礼しました」
丁寧な口調だった。丁寧すぎて、どこにも隙がない。
「姫の番犬を任されたそうですね。お似合いですよ」
「姫?」
「こいつ、お嬢をそう呼ぶんだ」と快が横から口を挟んだ。「気にすんな」
川崎の視線が、蔵人の顔に落ちた。頬を斜めに走る傷のあたりで、ほんの一瞬だけ止まる。そのまま何かを飲み込むように目を逸らし、川崎は丁寧に会釈して席に戻った。
新入りのくせに、妙な目をする。蔵人はそう思っただけで、深くは追わなかった。
「クロ、ごはんだよ」
蔵人の皿に、山盛りの唐揚げが載せられた。舞桜が箸を持ったまま、満足そうに顎を上げている。
「……犬じゃねえ」
「お残しはだめだよ」
「聞け」
組員の誰かが吹き出した。組長が咳払いで顔を隠し、姐さんは目尻を下げて皿の向こうを見ている。蔵人は観念して唐揚げをひとつ口に入れた。
「……うまい」
「でしょ。ママのだもん」
舞桜が胸を張った。蔵人は皿に並んだ残りを、結局すべて平らげた。
川崎が空いた皿を下げに来て、すれ違いざまに低く囁いた。
「あまり懐かれすぎると、妙な噂が立ちますよ。世間は厳しいですから」
「相手はガキだろうが」
「ええ。だからこそ、念のため」
川崎は再び会釈して去った。蔵人は舌打ちを飲み込んだ。子供は子供だ。それ以上でも以下でもない。疑われる筋合いはない。
――けれど世間が見るのは中身ではなく外側だ。顔に傷のある大男が、十歳ほどの少女に懐かれている図がどう映るか。
蔵人は椅子をわずかに引いた。舞桜との間に、拳ひとつ分の距離ができる。舞桜はむっとした顔で、すぐにその隙間を詰め直してきた。
◇
宴が一段落した頃、組長が低く名前を呼んだ。
「蔵人。ちょっと来い」
店の奥の端の席へ移ると、快と川崎もやってきた。子供たちは未奈が面倒を見ており、笑い声は遠くに聞こえた。
「川崎、さっきの話を蔵人にもしてやれ」
川崎はタブレットを閉じ、静かに口を開いた。
「山野組が、この数週間、うちの縄張りの周りをうろついています。それと、頭の山野が数日前から病院に通っているようです。傷は、犬に噛まれたものに見える、とのことでした」
山野。その名前を聞くのは八年ぶりだった。蔵人の表情が硬直する。
「犬」
「姫の飼い犬が、襲撃の際に噛みついたのではないか、と。確証はありません」
「証拠はない」と組長が言った。
「ただ、襲われたのは蔵人さんの出所の直前でした」川崎は続けた。「偶然とは言い切れません。出所が絡んでいる可能性もあります」
蔵人は黙っていた。八年前に残した火種の上に、小さな少女が立たされているのかもしれなかった。
「それなら、俺は――」
「決めつけるな」
組長が遮った。声は低いまま、有無を言わせぬ威厳があった。
「それはお前を護衛から外す理由にはならん。お前の近くのほうが、舞桜は安全だ。お前がいるだけで抑止力になる」
「証拠はねえが、用心しろよ」と快が言った。
蔵人は一度だけ、深く頷いた。
その輪から外れた席で、小柄な女性が湯呑みを持って待っていた。
「お帰りなさい、蔵人くん」
岩田の妻の智美だった。小柄でふくよかな体つきも、話すと背筋が伸びるところも、八年前のままだった。組長の同級生で、この店の経理を預かっている。
「八年分、痩せてるかと思ったら、大きくなってるのね。ほら、お茶」
「……ご無沙汰してます」
湯呑みを受け取ったところへ、岩田が盆を持ってやってきた。智美は立ち上がり、何も言わずに背伸びして岩田のネクタイを直す。曲がっていたらしい。岩田は黙って顎を引き、されるがままになっている。それから盆を置いて、また入口へ戻っていった。
八年前と同じ光景だった。蔵人は変わらないものを見つけた気がして、わずかに口元を緩めた。
「この夫婦は昔からあれだ」と快が囁いた。
智美は何事もなかったように座り直した。
「うちの人も私も、組の外の人間だから。言いにくいことがあったら、いつでも言ってね」
「……はい」
蔵人は湯呑みを両手で包んだ。温もりが掌にじんわりと染み込んでいく。
◇
窓の隙間の光が橙色に変わった頃、姐さんが手を叩いた。
「そろそろ店を開ける準備をするわね。皆さん、片づけを手伝ってちょうだい」
重箱が重ねられ、グラスが運ばれていく。舞桜は快の娘と並んで、ソファの隅で眠そうに目をこすっていた。
組長が蔵人の隣に来た。
「蔵人」
「はい」
「部屋を用意してやれなかった。組の物件は埋まっているし、お前の名前じゃ借りられん。すまんな」
「いえ、そんな」
「見つかるまで、うちに泊まれ。客間は用意してある」
頭を下げるべきは自分のほうだ、と蔵人は思った。断る理由は、探しても見つからなかった。
「……お世話になります」
店の外に出ると、空は桜色と灰色の溶け合う色をしていた。黒い車の運転席には、川崎がすでに座っている。窓越しに会釈した顔は、あくまで丁寧だった。
舞桜が蔵人の袖を引いた。眠そうな目で、それでも離そうとはしなかった。
「舞桜、おいで。蔵人さんは前よ」
姐さんに手を引かれて、少女はようやく後部座席へ乗り込んだ。蔵人は助手席のドアを開けた。
◇
車は街外れの静かな一角で止まった。
川崎の運転は丁寧で、揺れがほとんどなかった。助手席の蔵人は、大きな体を座席に押し込むようにして、窓の外を流れる街灯の白さを黙って見ていた。八年前は、もっと黄色い光だった。後部座席の舞桜は姐さんの肩にもたれて半分眠り、姐さんは時々、その髪を撫でて目を細めていた。
組長の家は、八年前と変わっていなかった。二階建ての、ごく普通の、手入れの行き届いた家。庭の芝生も縁側もそのままで、ただ縁側の前の桜の若木だけが、記憶より背が伸びていた。街灯に照らされた枝先で、残り少ない花が夜風に揺れていた。
「では、僕はここで」
川崎は運転席から降りて、車を降りた組長と姐さんに深く頭を下げた。それから蔵人にも。
「お疲れさまでした、蔵人さん」
丁寧な声だった。蔵人は顎だけで応えた。川崎が車に戻ると、尾灯は角を曲がって見えなくなった。
姐さんが案内したのは一階の客間だった。六畳の和室に布団が一式敷かれている。蔵人が持ってきたのは紙袋がひとつで、広げるほどの中身もない。
「着替えは、うちの人のを出しておいたわ。明日、サイズの合うものを買ってくるわね」
組長の寝間着は、蔵人が袖を通すと、袖も裾もつんつるてんだった。肩の縫い目が悲鳴を上げている。姐さんは口元に手を当てて肩を震わせた。
「……すみません」
「いいのよ。笑ってないわ」
笑っていた。
◇
姐さんの出した茶漬けを断れず、風呂は組長に先を譲られ、気づけば夜の十時を回っていた。
蔵人が風呂から上がって客間へ戻ろうとすると、廊下に小さな影が立っていた。
パジャマ姿の舞桜だった。桜色の髪を下ろし、黒い犬の形のブザーを両手で握っている。蔵人を見つけると、ブザーを握ったまま駆け寄ってきた。
「クロ! こっち!」
「おい、どこへ」
「いいから! 一緒に寝るの!」
小さな手が、丈の足りない寝間着の袖をつかんで引っ張った。蔵人は踏みとどまろうとしたが、少女の力は意外なほど強く、足がずるずると階段へ向かった。
「待て。俺は客間で」
「こっち!」
階段の下を、洗濯物を抱えた姐さんが通りかかった。
「姐さん」蔵人は助けを求めた。「止めてください」
「あら、どうしたの」
「舞桜が、俺を二階に」
「一緒に寝てほしいのね」
姐さんは少し考えて、ぽんと手を打った。
「そうだわ。舞桜の部屋に、お布団を敷きましょう。あの子のベッドの横に」
「は?」
助けを求めたはずが、話は逆に進んでいる。姐さんは妙に乗り気だった。
「姐さん、なぜそんなに」
「蔵人さん」姐さんは声を落とした。「あの子ね、クロがいなくなってから、夜が怖いみたいなの。いつもは私が寝かしつけているのだけど、今夜は洗い物と明日の支度が残っていて」
蔵人は言葉に詰まった。犬のクロの話だ。数日前に連れていかれた、あの犬。
「だから、お願いできないかしら。そのまま眠れるように、お布団も敷いておくわ」
「……事情は分かりました。でも、布団はいりません」
「あら」
「寝かしつけるだけです。寝たら客間に戻ります」
「ええ、それで十分よ。ありがとう」
姐さんはにっこり笑って洗濯物を抱え直した。舞桜は袖を握ったまま満足そうに頷いている。いつのまにか、なし崩しに話がまとまっていた。
二階の突き当たりで、蔵人は敷居の手前で足を止めた。川崎の言葉が頭をよぎった。妙な噂。姐さんが許していても、世間の目は別だ。扉は開け放ったままにする、と決めた。廊下の明かりが、部屋の床に細く伸びた。
桜色の壁紙が常夜灯に浮かんでいた。小さなベッド。棚に並ぶぬいぐるみと絵本。窓辺には画用紙で作った桜の工作が、月明かりに薄く透けている。
舞桜はベッドによじ登って座り、黒い犬の足元から小さなブザー本体を抜き取って枕元に置いた。それから、残ったぬいぐるみを胸に抱え直した。
「クロ、一緒に寝よ」
「一緒には寝ねえ」
「えー」
「お前は、たしかもう九歳くらいだろ」
「十歳だよ! こないだ誕生日だったもん」
「大きくなったら、誰かと並んで寝るもんじゃねえ。昔のチビならともかくな」
少女は一瞬だけ黙った。それから首を振った。
「じゃあ、寝るまで。寝るまででいいから、一緒にいて」
小さな声だった。断れば何かが壊れそうな声だった。蔵人は長く息を吐いた。
「寝るまでだぞ」
「うん」
蔵人はベッドの脇の床に腰を下ろし、背中をベッドの縁に預けた。少女は毛布に潜り込み、ブザーを抱いて目を閉じた。
静かな部屋に、秒針の音と、窓の外で枝が擦れる音だけが残った。
八年前にも、こうして夜を過ごしたことがある。夜泣きする小さな体の背中を叩き、泣き止むまで抱いていた。あの頃は片腕で足りる軽さだった。いまベッドの上にいるのは、自分の足で立ち、自分の言葉で話す少女だ。時間はそういうふうに進んでいた。
少女の寝息が、ゆっくり深くなった。
蔵人はそっと立ち上がろうとした。
動けなかった。袖が引かれている。見下ろすと、毛布から出た小さな手が、寝間着の袖口をしっかり握っていた。眠っているはずなのに、指には力がこもっている。
指を一本ずつ外そうとした。少女の眉が寄った。握る力が強くなった。
蔵人は動きを止めた。しばらく置いてから、もう一度試した。同じだった。三度目で、諦めた。
「……クロ」
寝言だった。
「……またいなくならないで……」
蔵人は息を止めた。……犬のことだ。数日前に連れていかれた、あの犬のことだ。そう分かっているのに、返事をしなければならない気がした。
「いなくならねえよ、チビ」
声は小さく、夜に溶けた。少女の指の力が、ほんの少しだけ緩んだ。それでも袖は離れなかった。
姐さんは、寝かしつけが済めば蔵人が客間へ戻ったものと思っているのだろう。階下の水音はとうに止み、家は静まり返っていた。夜更けの家で声を上げる気には、なれなかった。
客間の布団は、階段の下で冷えているだろう。蔵人は床に座ったまま、背中をベッドの縁に預け直した。短い袖から出た手首が夜気にさらされている。足がしびれてきた。
あの時、姐さんの言うとおり、ベッドの横に布団を敷いてもらっておけばよかった。「布団はいりません」ときっぱり断った自分が、いまはひどく遠い。
窓の外で桜の枝が揺れた。夜明けまでは、まだ長かった。




