8 医務室協定
目を覚ますと、白い天井が見える。
頭がズキズキと痛んで、揺れる視界の中、私はゆっくりと身体を起こした。
少し暑い。
よく見れば汗をかいている。
私は、眠っていたのか。
さっきまで見ていた幼い頃の夢が、まだ曖昧に脳裏に残っている。
そのせいか感傷的な気分にさせられて、私は落ち着くために大きく息を吸い込んだ。
なんだか、少しだけ手足がぴりぴりとする。
痛くはないが、これまでに感じたことのない違和感があった。
ここは一体どこだろうか。
ゆっくりとあたりを見回して。
状況を把握しようとした瞬間、唐突に聞き覚えのある甲高い声が耳にキンと響いた。
「姉様……!やっと目を覚ましたのね!」
ベラは安堵と嬉しさいっぱいといった様子で、まだ状況も理解できていない私に飛びついてくる。
わけもわからず、私は起きがけに「ぐわっ」と呻いた。
「あの……一体、私はどうなってしまったの」
少しして、ベラが落ち着いてから、私は彼女に尋ねた。
見たところ私は医務室に運ばれているらしかった。
起き上がった時に額から落ちた濡れタオルを見るに、体温が相当高かったのかもしれない。
――微かに、左手に温もりを感じて、じっと手を見る。
まるで、少し前までずっと誰かが私の手を握っていたかのような……。
何か、体調を崩したり倒れて運ばれてきたのか、そこまでは推測できる。
けれど、どうして倒れたのか、どうして医務室に運ばれたのか、記憶が曖昧であまり思い出せなかった。
「はあ?……そんなの私が聞きたいです!姉様、突然魔力暴走を起こした挙句に、そのまま魔力酔いを起こして気絶してしまったのですわよ!」
ベラは怒り混じりといった様子でそう言って、怪訝そうな顔で私のことを見つめる。
それから、少しだけ顔を柔らかくすると、腕組みをして鼻を鳴らした。
明るく、なんてことのないかのように、そっぽを向いて。
「……幸い、あの時すぐに先生が防御魔術を展開してくれましたから、怪我人は特に出なかったようですけれど……。でも、姉様のせいで裏庭は酷い有様ですわ!当分のあいだは実技授業もやらないことになってしまいましたし……!それに――」
そこまで言いかけて。
それから、彼女はそこで躊躇ったように言いやめた。
少し目を伏せる。
赤い瞳が、いつになく震えていた。
……どうしたのだろう。
早口で威勢が良かったのに、いつも息を吐くのと同時に繰り出される言葉のキレが見る影もない。
落ち着くためか、彼女は大きく息を吐いていた。
指先が痙攣していて、誤魔化すように身体を擦っている。
まるで、心のざわつきを私に隠そうとしているかのように。
不意に。
起き上がってすぐに見た、彼女の心配と不安でいっぱいの顔がフラッシュバックした。
この横暴な従妹が、あんな顔をしているところは、考えてみればこれまでに見たことがない。
今の彼女は、平然とした態度でいようとしている。
明るく振る舞おうとしてくれている。
けれど先程までは、私が起きなかったらどうしようかと神経を擦り減らしていただろうに。
それに対して、私はどうだろうか。
焦った様子の彼女のことを、どこか仕方の無い子だなあと俯瞰した目で見つめていた。
私には、彼女の言っていることがすべて他人事のように聞こえていたから。
言われてもあまり憶えていなくて、何が何だかわからなかったから。
……遅れて察して、やっと私の心はズキリと痛んだ。
どうしてそんなに心配しているのかだなんて、ぽかんとした態度を取ってしまっていたのが、途端にとても申し訳なく思えた。
「……ベラ、私、あまり何があったのかはっきり憶えていなくて。ごめんなさい」
正直にそう言うと、ベラは顔をあげて。
それから目を細め、尋ねてきた。
「……姉様が起きないんじゃないかって、不安だったんだから。……ねえ、姉様。あれは一体どういうこと?……魔術は、使えないんじゃなかったかしら……?」
彼女が心配してくれているかのような顔を見せてくれたのが心に残る。
同時に、やっぱり少しだけ混乱してしまう。
魔力暴走……魔力酔いで気絶……。
そんなことが、本当にあったのだろうか。
最初はそう思った。
けれども、手足に残るぴりぴりとした違和感が、私に何かを思い出せと言っているような気がして。
憶えているところから順序立ててなんとなく思い返そうとする。
必死に回顧する。
握りこぶしを作って、そこにある感覚がなんだったのか確かめるようにする。
そうすると。
……うすらと、少しずつあの時の情景が頭の中に戻ってきた。
――そうだ……私は魔術の実技授業に出席していて。
それで。
朧げに浮かんできた記憶を引っ張り出すように、口にする。
「ええと、私にもよくわからないんだけど……。ただ……あの時私は、その……いてもたってもいられなくなって……」
感情が、普通は超えることのない限界を不意に超えてしまったかのような、不思議な感覚に襲われた。
エルの周りにご令嬢がいるのを見て、彼女らがベタベタと彼に触るのを見て。
それが、ものすごく不快だと思って。
それと同時に、魔力が溢れ出して、暴走した。
――はっきりと思い出してきた。
……けれど。
記憶を取り戻すと同時に、やっぱりそれが本当にそうだったとは信じられなかった。
ベラの言う通り、私は小さい頃から……。
生まれた時からずっと魔術を使えないはずだった。
それなのに。
何故かあの時は、急に魔力が溢れ出してきた。
冷静に考えれば、有り得ないことが起きている。
記憶を疑うべきか。
それとも幼い頃の検査を疑うべきか。
私にはわからなかった。
ベッドの脇には未だに不安そうな顔をしているベラがいる。
この従妹が身を案じて、気絶した私の傍にずっと居てくれたのだから。
そんな彼女を疑うわけにはいかない。
それなら――
実は私は、幼い頃からずっと、使おうと思えば魔術が使えたのかもしれないのだろうか……。
やってみようと頑張れば、自分の能力を信じていれば。
……もっと早く気付けたとでもいうのだろうか。
それなら一体。
これまで私が散々罵倒されてきた日々はなんだったのか。
様々な疑問が一堂に会し、処理が追いつかなくなる。
気がつくと、私は握り拳にぎゅうと力を入れていた。
……信じられない。
信じられないけれど、それでも蘇ってくる記憶は、否応無しにそれが事実であったと突きつけてきた。
わけのわからないことだらけだ。
ただわかっているのは、あの時、生まれて初めて魔力を発した私にはそれを制御することなど到底できなくて。
足元が覚束無くなって、目眩がして気絶してしまったということだけ。
そしてそれから……。
それから――
あれ……?
「ねえ、待って……。誰が私をここまで運んだの」
思い返すうち、引っかかるところがあって、私はそう口にする。
何故か、そのことだけが猛烈に気になる。
私の記憶が間違っていなければ。
夢と混ざっているだけでなければ。
そういえば私は、倒れる瞬間、朧気にエルの顔を見た気がした。
危険を顧みず、彼が走ってくる姿を……。
もちろん、記憶は曖昧で確証が持てるわけではない。
それに今、ここにエルが居る様子もない。
私の質問を聞いたベラはため息を吐いて。
とんでもなく嫌そうな顔をした後、不満をぶちまけるように言った。
「ああ……それなら。エルフィン様が必死こいた顔をして姉様をここまで運んでましたのよ。気絶しているというのに、ずっと名前を呼びかけて……。そのくせ、そんなに心配なら起きるまで待っていればいいと申し上げましたのに、合わせる顔が無いとかなんとかで……」
いつも罵倒する時のような楽しそうな顔ではなく、純粋に嫌そうな顔のベラに、なんだか含みを感じる。
彼が、ここまで運んでくれた……?
そのことに関してもすぐには信じることができなかった。
婚約解消を提案してきたくせに。
私から目をそらして、拒絶したくせに。
……どうして、私を助けたのか。
矛盾していると、怒りたいところなのに。
彼が抱えてくれた時、正直すごく安心して、すごく嬉しくて。
だからこそ、信じたくない。
まるで私が、ちょろいみたいで。
恥ずかしくなりつつも、いつものように平坦な声で、私は「そうなんだ……」と返事をした。
つもりなのだけれど。
ベラは何故か、少しだけ悲しそうな顔を向けてきた。
どうしてそんな顔を……。
不思議に思って彼女をまじまじ見ていると、腕組みをしている手にぎゅうと力が入っていて、いつも強気に燃える瞳はどこか冷え切っている。
そして心ここにあらずといった様子で口を開いた。
「……とにかく、姉様自身もどうやって魔術を使えたのかはわからないのですね。直前に強い感情を抱いたのは何か関係がありそうですけれど、宮廷魔術師ぐらいでなくては詳しいことはわからないですし……まあ……」
言いかけたところで、ベラはふと視線をそらす。
何か、本当は別のことでも言いたげな様子だった。
彼女は何度かため息を吐いて、そのたびに言い出そうとしては、やっぱり言いにくそうにしていて。
見かねて「……どうかしたの」と尋ねる。
そうすると、ちらとこちらに目を合わせて。
何秒か目を瞑ってから覚悟を決めたように息を大きく吸って、ベラは言った。
「その……ねえ、姉様。正直に言いますけれど、私はもう……あの男とは縁を切ってもいいんじゃないかと思いますわ」
淡々とした口調。
そこに、いつものような怒りはない。
嫌に理路整然としていて、これはいつものように黙ってスルーできるような悪戯な罵倒ではないことを思い知らされているような気がした。
「姉様が彼を好きな気持ちは尊重します。けれど……やっぱりおかしいですわよ。11年間です。それくらい長い期間、一緒に寄り添ったくせに、たかが姉様が笑わないくらいのことで不安になって、婚約解消だなんて……ヘタレとか甲斐性が無いとか、もうそういう話ではないじゃないですか。アイツは姉様から逃げているのです」
言われて、自然とベッドのシーツを強く握った。
少しだけムカッとして、けれど何も言い返せない。
冷たくて、嫌な言い方だけれど、芯は通っている。
なにより、ベラから私への悪意のようなものは微塵も感じなかった。
そうか……。
この子は今……私がエルを好きであることを知っておきながら。
それでも本気で諦めさせようとしているんだ。
「……もしかしたら、他に理由があるのかもしれない。けれど、それにしたって、唐突で強引で無責任ですわ。自分のせいや、相応しくないなどと言っていますが、結局は不安から逃げて責任を放棄したいだけではないですか。そのくせ、1度決めたら頑固で……あれを心変わりさせるのがどれほど大変か、姉様ならわからないわけがないはずですわ」
それならいっそ、婚約破棄を受け入れた方が――
そんなふうに、彼女はところどころ言いづらそうにしながらも、強い口調ではっきりと言ってくる。
いつもはしない、神妙な表情で。
……ベラが言いたいことも、心配してくれている気持ちも、十分にわかる。
エルへの罵倒だって、思わず反論したくなるけれど、決して的外れではない。
成長するにつれて、彼はきっと多くの不安を抱え込んだのだろう。
それに耐える自信が無くなったのかもしれない。
責任を負いたくなくなったのかもしれない。
――だから、もしかしたらここで、潔く身を引く方がいいのかもしれない。
合理的に考えれば……理性的に考えれば――
そうかもしれない。
そうは思うけれど……思ってしまっているけれど。
けれどそれ以上に、私の感情は諦めたくないと言っている。
エルがそんな人であることなんて……わかっている。
確かにベラの言う通り、エルは気弱で臆病で怖がりなくせに、こうだと決めたらそこから簡単には気持ちを曲げない。
わかっているからこそ、私は私を責めたくなるのだ。
彼が尻込みすることがあるなら、私から歩み寄ればよかった。
最初に歩み寄ってくれたのは彼だったのに、私はお返しができなかった。
後悔している。
でも、この後悔はまだ今なら無かったことにできるかもしれない。
だから、私は彼女の言葉に乗らない。
乗るわけにはいかない。
「ごめん、ベラ。私は、エルのことを諦めたくない」
言うと、ベラは少しの間固まった。
天井を仰ぎ見て。
大きく息を吸っていた。
彼女を怒らせてしまっただろうか。
私はまた何か、罵倒をされてしまうだろうか。
それでもいい。
彼女になんと言われようと、私の気持ちは変わりはしない。
そう、思っていたけれど。
ベラは少ししてから息を吐くと、肩を落として。
それから呆れた様子で「……そう言うと思いましたわ」と呟いてきた。
拍子抜けしてしまって、なんだか身体の力が抜ける。
「……もっと反対されるかと思った」
私は不思議に思って口を挟んだ。
そうすると、ベラはうんざりしたような顔をして、文句を言ってくる。
「どうせ反対しても意味はないのでしょう?はぁ……姉様はあの男に似ています。普段は優柔不断なのに、変なところで頑固ですわ」
そして、それからまた大きく息を吐いて。
目を何度か瞬いた時――いつものように彼女の赤い瞳に炎が戻るのを私は見た。
「はいはい、わかりましたわよ……やるなら、とことんやりましょう!あの男が妙な勘違いをしているのが一番気に食わないですわ!仕方なく、この私が協力してあげるのだから感謝してくださるかしら!」
ベラはいつもの扇子を取り出すと、高らかにそう言ってきた。
いつもの自信満々なベラ……のように見えるけれど、どこか強がっているようにも見えて。
私は心を込めて「うん、協力してくれると助かる。……ベラ、いつも助けてくれてありがとうね」と声をかけた。
おまけに手を伸ばし、彼女の手をぎゅうと握って。
そうすると、彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして「べ、別に助けてるわけじゃないですわよっ!」と必死に振りほどこうとしながら声を荒らげるのだった。




