5 噂の真偽
この学園にはいくつかの学部があって、基本はそれぞれ別の専門的な授業を受けるものである。
そのため、基本的には薬学部に在籍する私と魔術学部に在籍しているエルが共通した授業に出席することはほとんどない。
はずなのだが――いくつかの授業が例外的に全学部統合で行われることもあって、まさにその中のひとつというのが、魔術の実技授業だった。
それの意味するところはつまり――これから彼に会えるということ。
先程怒り心頭な様子だったところから一転、ベラはエルに文句を言ってやると息巻いている。
そんな彼女の後ろをついて歩きながら、私の方は不安でたまらなかった。
なんせ、婚約解消を提案されてからは、しっかりと彼と顔を合わせるのが久しぶりなものだから。
エルを見つけたら頑張って話しかけに行こうとは思う。
けれど、会うのが怖くもある。
そんな不思議な気持ちだった。
授業が行われる場所は学園の裏庭にある開けた平原で、既にそこには何十人と人が集まっていた。
先生がまだ到着しておらず、群衆は塊を作って騒がしい。
授業が始まるまでには時間があるみたいで、イライラと人混みをかき分けているベラを尻目に、私も恐る恐るキョロキョロと周りを見回してなんとなくエルの姿を探した。
まあ、これだけ人が居るから、すぐには見つけられないだろうけれど……。
そう思ったけれども、予想に反して、彼の姿はすぐに私の視界に入った。
何故なら……とても、目立っていたから。
すらりとした体躯。青い瞳。
エルの金髪が視界に入って、それから――
「エルフィン様!マーシィ様との婚約を破棄したって本当ですか!?気になるので教えていただきたいです!」
「きっと本当に違いないわ!霧が晴れたようなお顔をされていますし!ねえ、そうですよねエルフィン様!」
なんだそれ……。
あまりの衝撃に目を疑う。
エルの周りには数人のご令嬢が群がっていて。
彼女らは口々に、婚約破棄の噂が本当なのかと尋ねている。
そうして、それでいながら。
「あ、いや違くて……ちょっと落ち着いてくれませんか……」
エル本人が困ったようにそう答えるのを気にもせずに彼の腕を掴み群がっていた。
「破棄して正解だったと思います!だってあんな根暗な子、エルフィン様には似合わないもの!」
「あ、あの!もし次の相手が決まってないなら私とかどうですか!……な、なんちゃって……!」
一人の女子が猫撫で声でそう言って、さり気なく彼と腕を組む。
見ているだけで、息が詰まった。
どうして。
どうしてこんなことに。
刹那。
息を、目いっぱいに吸い込んでいるのに、ほんの少しも肺に入っていかないような感覚になった。
一瞬、視界がぐらりと揺れて……しかし、私はそこから一歩たりとも動けずに、目を逸らすことすらできず、その光景に釘付けになってしまって。
鈍器で思いきり殴られたのに、体がその場に縛り付けられているかのようだった。
なんなんだそれ……。
……私だって、手を繋いだことしかないのに……。
小さい時、エルから繋いでもらった、たった1回だけなのに……。
それなのに、彼女はあんなに親密そうに……。
寂しくなって、悲しくなって、恨めしくなって。
目の前の理不尽に、心の中で不満が溜まっていって……けれど、そこでふと思う。
私だって、あんなふうに振る舞えていたら。
恥ずかしさを捨てて、婚約者として堂々としていられたら。
今頃あそこに居たのは私だった……かもしれない。
私は、この授業でエルと出会ったら、数日ぶりに声をかけてみるくらいのつもりでいた。
けれど私が数日横に居なかっただけで、彼は今こんなにも女の子に囲まれている。
……いや、考えてみればそうだ。
彼は格好よくてその上魔術の才能があって将来有望で。
もともと私には身に余る相手だったのだから。
婚約者がいなくなったとなれば、たちまち人気になるのは仕方がない。
仕方がないけれど。
……許容できるかは別だ。
ここで諦めて身を引けば、そこで終わってしまう。
すぐにあそこまで行って、エルに話しかけよう。
「私の婚約者に近寄らないで!」などと叫んで、周りのご令嬢を追い払って。
エルを連れ出して、改めて気持ちを吐き出したら。
そうしたら、何かが変わるかも知れない。
私はあなたのことが好きだって。
大好きなんだって。
……そう、言えたなら。
どれほどよかったか。
エルが取られたくないという気持ちは強くあるのに、足が震える。
恐怖から、本能が近づくのを拒絶している。
一歩すら踏み出せない無力感に打ちのめされて、世界が急激に狭まった気がして。
凝縮された虚無感の中で、立ち尽くしていたら、突然。
私の横に、まるで猫が威嚇する時みたいになったベラが現れた。
今にも毛が逆立ってしまいそうな勢いの彼女は、エルを発見した途端、彼を囲む女子の方へズカズカと突き進んでいこうとする。
私は咄嗟に彼女を呼び止めた。
この場でエルへの怒りを撒き散らされてしまったら、それこそ私の立つ瀬がない。
それに……申し訳ないけれど今の彼女には問題を更に大事にするようにしか思えなかったから。
だから私は「……ベラ、あまり変なことは――」と釘を刺すように言いかけた。
けれど彼女は少し振り返って「変なことなんか言いませんわよ。私は、今ある疑問についての正当な答えを、ただ尋ねるだけですわ」と言うと、また歩を進めていく。
怒りに支配されているにしては、やけに丁寧な歩き方に見えた。
彼女はそのままエルを囲むご令嬢たちのほうへずかずかと無遠慮に近づいていく。
それからご令嬢たちに向かって高らかに叫んだ。
「ちょっとあなたたち、少しどいてくださるかしら!エルフィン・シャングルトン様!私は貴方に用がありますの!」
ベラが言うと、ご令嬢たちは一斉に困惑の表情を露にする。
エルも突然のことに面食らった様子になって。
それから「ベラトリーナちゃん……えっと、何の用かな」と困った様子で尋ねた。
周囲の女子が「え~、エルフィン様。この人誰ですかぁ?」とか「この子、マーシィ様とつるんでいる子でしょう?性格もすこぶる悪いのよ」とか口々に言っている。
そんな反応を受けて、ベラの怒りはますます増長したかに思われた。
きっと普段の彼女なら間髪入れずに口汚く罵倒した。
が、彼女はそれを無視して、エルに向かって嫌に落ち着いた口調で話し出した。
「ねえ……エルフィン様。ずいぶん沢山のご令嬢を侍らせていらっしゃるのね。……一体いつからこんなに婚約者が増えたのかしら?」
彼女はニコリと笑みを浮かべる。
けれど、それは貼り付けたような不気味な笑みであって、その裏側にあるのが腹黒い皮肉であるのは明白だった。
エルは返事をするのに少し言い淀んで、それから躊躇いがちに声を出す。
「そ、それは……そんなつもりはないよ……。ただみんなに誤解されてるんだ。僕は――」
エルの弁明。
私はそれを聞いていたかった。
そんなつもりがないと言うなら一体……。
けれど、ベラはすぐに彼の発言を遮った。
「何故嘘をつくのです?私はしっかりとこの耳で聞きましたのよ?噂にもなっているでしょう。姉様……いえ――マーシィ・メルクロンに婚約破棄を告げたと」
ベラはわざとっぽく強調した言い方をする。
エルの頬がにわかに引きつった。
「ち、違うっ……」
彼は焦った様子で否定した。
青い瞳が焦燥で揺れるのを見た。
けれど、ベラは彼に話す暇を与えようとしていないように、立て続けに言葉を吐いていく。
「うふふ、その気持ち、よくわかりますわよ。マーシィは面白みの無い女だって、心の底ではやはりそう思っていたのでしょう?無表情で無口で根暗で、まるで人形みたい。一緒に居てぜーんぜん楽しくなんかない。だからそんな相手との婚約はさっさと破棄して、自分を沢山褒めてくれるご令嬢に囲まれて。その方が楽しいですものね?」
ベラは扇子を広げると、それをパタパタと振って楽しそうに笑う。
けれど、それに反して彼女が私の罵倒を羅列するごとに、エルはどんどん顔を暗くしていく。
私には、一体ベラが何をしたいのか、まるでわからなかった。
さっきの授業ではあんなに怒っていたのに、どうして今は悪口を言われているのだろう……。
傷つきはしない。
ただ、不安と困惑があって。
そして、それと同時に、エルがどうしてあんなに悲痛な顔をしているのかもわからなくて、心がざわついた。
「人によっては貴方を薄情だと言う人も居るかもしれないですわね。けれど貴方は、あの『氷面の令嬢』に対して11年間も情けをかけてあげたのです。むしろ褒められて然るべきですわよね。エルフィン様、貴方はなんて人徳の高い御方で――」
エルが唇を噛んでいる。
握りこぶしが、ぷるぷると震えていた。
そうして、何かに堪えきれなくなったように、ほとんど叫び出すように口を開いた。
「違うッ!……マーシィ様は……!マーシィ様はそんな人じゃないッ!」
一瞬、私は彼がなんと言ったのか認識できなかった。
ベラがゆっくりと扇子を振る手を止める。
周囲に群がっていたご令嬢たちが、目を丸くして彼の顔を見ている。
彼は、どこかムキになった様子でベラのほうへ1歩踏み出した。
「マーシィ様は……心優しくて思いやりのある人で!人形なんかじゃないッ……!不器用で、感情を表に出せないだけなんだ……本当はきっとすごく繊細な人なんだよ……。だから……。だからッ、それ以上、僕の婚約者のことを悪く言わないでくれ!」
エルはまた、苦しそうに強くそう叫んだ。
周囲は不気味なほど静かになって。
ベラは、それを聞いて笑みを消すと、にわかに真顔になった。
「……それならばそうと、早く言えばいいものを」
彼女は小さく呟いて、それから扇子をパタッと閉じる。
それはとてもとても丁寧な所作で。
そうしてそれから、まるで別人になったみたいに淡々とした様子で彼に質問を投げかける。
「……あら。それなら、何故婚約破棄をしたという噂が流れているのです?あれは嘘なのかしら?」
落ち着いた様子で尋ねられるので、エルは少し拍子抜けしたようだった。
狼狽して、けれどまだどこかムキになった様子で答える。
「破棄は、その……。してないよ。ただの誤解なんだ」
どこか引け目を抱えたような言い方で、彼はそう言った。
ああ、少しだけ言い淀んでいた。
異様に口調の機微を気にしてしまって、気がつけば怖くて、私は心臓がきゅうと縮こまっていた。
そう、してない……まだ、してないだけだ。
けれど、ベラの方は彼の発言を聞いて、にやりと笑みを浮かべたように見えた。
「……そう、あの噂は嘘だったのね」
言ってから、彼女は大きく息を吸う。
そして唐突に、不自然に周囲の生徒を見回し始めた。
エルが叫んだあたりから、彼女には沢山の好奇の視線が集まっている。
そんな、自分に注意を向けている人たちに向けて、彼女は教鞭を取るように、スピーチをするように、宣言をするように、高らかに言った。
「皆様、聞いたかしら!今!たった今!エルフィン様本人が『婚約破棄はしていない』と、そう言ったのですわよ!真実も知らずに噂を垂れ流す品性下劣な愚か者の方々?さぞかし、自分の品位を下げるのがお好きだったのでしょうけれど、これからは身の振り方を改めたほうが良いのではないかしら!」
急な態度の改めように、周囲は驚き、エルもぽかんとしている。
そして、なにより私も。
彼女はつまり、噂を失くそうとして……?
沢山の人間の、驚きや困惑や、怒りを集めている。
その中で堂々と立つ彼女を見て少しだけ畏怖の念が沸き立って、わずかに息を呑んだ。
1番最初に「し、失礼だわ!愚か者だなんて!」と声を上げたのは無理やりにエルと腕を組んでいたご令嬢だった。
どうやら口撃に耐えかねて反論したくなったようだが、すぐさま「あら、人間扱いされるだけ良いとは思いませんこと?てっきりエルフィン様の周りに蝿でもたかっているのかと思っていたので、まさか失礼になるとは思いませんでしたわ」とベラに答えられ、顔を真っ赤にして声にならない声をパクパクと発する。
そんなご令嬢を気にもかけずに、ベラは振り返ると、スタスタと私の方まで歩いてきて。
「姉様、ありもしない噂を流されて辛かったでしょう?もう大丈夫です。婚約者のエルフィン様と、これからも仲睦まじく暮らせますわよ!」
わざとらしく大声でそう言うと、またにやりと笑みを浮かべた。
こんなやり方を、前の授業からここまでのあいだにいつ思いついたのだろう。
思いついたとて、私だとしたら実行する勇気などあるはずもない。
彼女の露悪的な策略に、私は感心することしかできなくて。
けれど私は彼女に対して「あの……ありがとう」と短く返答することしかできなかった。
なぜならベラの声を聞いたエルが、ハッと周りを見渡しているのに気を取られていたから。
それは、もしかして、私のことを探してくれているんじゃないか、という期待だった。
そして――
色褪せた黒の瞳と、綺麗な青の瞳の視線が重なり合う。
目が合うと息が止まりそうになる。
エルも、驚いたように目を見開いていた。
『マーシィ様は……心優しくて思いやりのある人で…!』
頭の中に突然想起される先程の彼の台詞。
本当に、そう思ってくれてるの……?
……もしそうなら……。
それならどうして……。
私は棄てられてしまったの……?
今すぐ尋ねに行きたい。
けれど怖くて、足が動かなかった。
「あの……エル……私」
せめて、なにか言葉を伝えようと口を開いて。
――それなのに。
エルは慌てたような様子で私から目を逸らした。
ばつが悪そうに、私を見ないように俯いている。
衝撃と悲しみで、声帯を失ったみたいに、もう次の言葉は出てこなくなってしまった。
足が震える。
目を逸らされた。
それだけで、私たちのあいだにそびえ立つ壁の厚さを知るには十分だった。




