26.5 医務室協定(エルフィン視点)
まだ婚約解消の提案から3日しか経っていないのに、予想外の事態は立て続けに起きた。
……医務室というのは、もっと落ち着ける場所のはずなのに。
授業は、もう中断になったのだろうか。
先生の制止も聞かずに、ただ無心でマーシィ様を運んできたものだから。
今になって、ふと思う。
どうしてこんなことになってしまったのか、僕にはわからない。
ただ、マーシィ様が危ないと思ったから。
無我夢中で、僕は走ってしまったのだ。
ベッドに横たわるマーシィ様の左手を強く握って、言いようもない不安に襲われ、ため息を漏らす。
……魔力暴走があまりにも強力だったことが、皮肉なことにも良い方向に働いた。
一気に魔力を使い切ったことで気を失うだけで済んだのは、不幸中の幸いだ。
もし、力がもう少し控えめだったなら、むしろ暴走の時間は長くなり、マーシィ様は体力を奪い尽くされていただろう……。
そして、最悪の事態にすら……なっていたかもしれない。
けれど少なくとも、マーシィ様は今、僕の手の中にいる。
掴んだ左手は、温かい。
すぅすぅと小さく寝息を立てている。
それなのに、僕はそのことに安堵ができなかった。
安堵する権利が、なかった。
「エルフィン様、実に素晴らしい人命救助でしたわ!大切な婚約者様に死なれては困りますものね!公爵の地位だなんて、喉から手が出るほど欲しいでしょうし!」
ふと、甲高く、皮肉めいた声を背中に投げかけられて、僕は振り向いた。
「ベラちゃん……」
彼女は称賛するような物言いをしながらも、その赤い瞳にはたっぷりと批判的な気持ちを詰め込んで、こちらを睨んでいる。
「ふん……姉様を散々と避けておいて、今更婚約者ヅラだなんて、良いご身分ですわ。婚約解消の提案までしたくせに……」
扇子を広げて口元を隠しながら、目元には蔑みを覗かせて言った。
僕は何か、弁解しようとした。
……けれど、何も言えなくて。
その通りだ。
僕は、マーシィ様に婚約解消の提案までして、避けてすらいたのに……。
それなのに結局、マーシィ様を助けてしまったのだ。
そのことが、物凄く後ろめたかった。
「解消のこと……知ってたんだね……」
そんなふうに、答えつつ。
きっとそれは、マーシィ様が、ベラちゃんに相談をしていたからだろうという察しはついた。
全部、わかっているのだ。
マーシィ様が今、僕に別れを告げられて、ものすごく傷ついていることや。
悲しんでいることは、わかっていた。
……しかし、たとえそうだとしても。
相手の心を操って、婚約者のままでいることがあっていいはずがない。
僕が婚約解消を提案したのは、関係を切って距離を取れば加護の影響が弱まり、いずれは解けるかもしれないと思ったからだ。
だから僕は、マーシィ様を傷つけてでも、婚約者という関係に終止符を打つしかないと思った。
苦渋の決断だったが、良い選択だと思っていた。
――ただ、僕が見誤っていたことが2つある。
ひとつは、自分の加護の強さのこと。
……たった3日だ。
たった3日、彼女と一緒にいなかっただけ。
それだけで、学園ではすぐに僕がマーシィ様を婚約破棄したというような嘘の噂が広まってしまった。
同時に、様々なご令嬢が寄って集って僕のところへ来ては求婚してきて。
その上、彼女らはどれだけ拒絶しても話すら聞いてくれなかった。
疲弊して諦めていたところを、マーシィ様に見られてしまったのも、想定外だった。
マーシィ様はきっと、僕に裏切られたと思ったに違いない。
……いや、僕の計画ではそれでいい。
僕は、マーシィ様にどんどんと嫌われていくべきなのだから。
……そうは思うけれど、どうにも胸が痛んだ。
それから……2つ目の誤算は、マーシィ様が魔力暴走を起こしたこと。
ふと、彼女の黒黒とした綺麗な睫毛を見つめて、ため息を吐いた。
……どうして、彼女が魔力を持っているのか。
そのことを考えていた時、ちょうどベラちゃんのほうも僕への呆れと、マーシィ様への心配が入り交じったような表情で、皮肉混じりに尋ねてきた。
「エルフィン様。……さっきの姉様、派手に魔力を放出していましたけれど。……魔力なしのはずですわよね?魔術の天才さんは、何かわかることはないのですか?」
どうして、マーシィ様が魔力暴走を起こすことができたのか。
……今、第一に整理しておかなければならない問題はそれだった。
「……僕にも、わからないよ。ただ、わかるのはあれが確実にマーシィ様の魔力だったってことだけで……。でもね、今の身体からはもう魔力を感じられないんだ。……あんな魔力暴走を起こしたのが、嘘みたいに」
僕の評判は加護によって増長されているだけで、周囲の人が言うほど凄くなんてない。
けれど、魔術分野に関しては多少の自信があるのも事実だった。
それなのに、どうして彼女が魔力暴走を起こすことができたのか、全くわからないのだ。
魔力暴走自体は、まだ魔力の操作が慣れていないうちの人が、無意識に感情の昂りと魔力操作を結びつけてしまって、制限が効かなくなるような現象を意味する。
だとして、マーシィ様はあの瞬間、どんな感情を昂らせていたのか。
考えられるものはひとつしかなかった。
僕は、自分の加護の威力を見くびっていた。
これは、予想していたより遥かに強力だった。
例えば、僕への想いが高ぶるあまりに……彼女が眠っていた魔力を目覚めさせてしまうほどに。
……とはいえ、これは僕の計画にとっては良い兆候とも言える。
少なくとも、これでマーシィ様が魔力なしと馬鹿にされることはなくなった。
魔術を扱うことが出来るようになれば、周囲だって少しずつ彼女を認めていくようになるかもしれない。
マーシィ様が魔力なしだからと周囲に馬鹿にされるたび、いつも僕は必死にマーシィ様への悪口や、陰湿な蔑みの目を消そうと努力してきた。
それなのに、マーシィ様を軽んじるなと怒ったところで、みんなは口を揃えて、エルフィン様は優しいから、と言う。
そう言って、誰も彼女を見ようとしない。
……それが、どれだけ辛かったか。
けれど、今回の事件は、マーシィ様が魔術を使えると周囲に示したものとなった。
きっとこれからは蔑まれることが少なくなるに違いない。
……それに。
元々あった婚約の意味も、なくなる。
政略結婚としての目的はもはや成立しない。
マーシィ様が跡継ぎとしての役割を果たせるようになれば、僕を婿として迎え入れることも不要になる。
欠点を補うためだけの政略結婚から解放してあげたい。
マーシィ様を、自由にしてあげたい。
そう思っていたから、これは少なくとも……嬉しい誤算のはずだった。
「ベラちゃん」
不意に、僕は座っていた椅子から立ち上がり、ベラちゃんにしっかり向き合って呼びかけた。
いつもマーシィ様の傍にいる彼女に、このことはちゃんと宣言しておかなければならない。
「マーシィ様が魔力暴走を起こしたのは、きっと僕のせいだ。……言い訳はしないよ。……でも、婚約解消をしたい気持ちは変わらない」
彼女は眉間に皺を寄せ、ギリッと一瞬歯ぎしりをすると、尖った八重歯を見せる。
何か、怒りに任せた罵倒でも吐いてくるだろうか、と僕は覚悟した。
けれども、彼女は少しして落ち着いたふうになってから、低い声で言った。
「婚約解消をしたい?……ふん、嘘をつくのが下手ですわね。……本当はそんなこと、望んでいないくせに」
腕組みをして、ジトっとした目で見られ、少し狼狽える。
図星なのが悟られたのだろう。
彼女は一層呆れた様子で、あることを尋ねてきた。
「姉様は貴方のことを愛していましたわ。それに、貴方だって……姉様を愛していたでしょう。いつも見ていたから、両想いだったことなんてわかる。……それなのに、姉様が笑わなくて不安だから婚約を解消?……まさか貴方は、あれで姉様からの好意に気づいていなかったとでも?」
ベラちゃんはそう言って、僕を見定めるような目を向けてきた。
その瞳の中には、どこか寂しさがあった。
そうか……僕がマーシィ様を好きなことも、この子にはとっくにバレていたのか。
「……僕だって、気づいていたよ」
僕はややあってから、呟いた。
その答えに、ベラちゃんは少しだけ困惑した様子を見せる。
けれども、また静かな怒りとともに、強い語調で、今度は言い聞かせるような声で返してきた。
「……なら、どうしてなのです?両想いなのがわかっていて……何が嫌になって、婚約解消なんかしようとするのですか?あんなふうに姉様を傷つける行動をするほどには……貴方も愚かでは無いと思っていたのですけれど」
いまや、ベラちゃんは怒りが半分、混乱が半分といった様子だった。
それは、きっと当然の反応だったろう。
両想いだとわかっているのだから、普通なら当然別れる理由がない。
それなのに、僕が婚約解消をすると言い張るのは、愚かな行為以外の何にも見えないだろう。
僕だって、マーシィ様が嫌いになったわけではない。
むしろ、ずっと愛している。
けれど、だからこそ――
だからこそ、この婚約が上手くいくことは、あってはならない。
「……さっきの授業前に、ベラちゃんがマーシィ様を罵倒していたあれ。……本当は全部、僕の否定を引き出すためなんだろう?……気づいていなかったわけじゃない……けど、してやられたよ」
僕はあの時の情景を思い出しながら、語った。
言い寄ってくる令嬢の対応に追われる中、ベラちゃんまでマーシィ様の悪口を言い始めて、最初は混乱した。
けれど、それが何かの企みであることはすぐにわかった。
だって……彼女が本当は義姉のことを心から慕っていることは、知っていたから。
「婚約解消する予定なのにね……マーシィ様が周りの人に惨めに見られていると思うと、いてもたってもいられなくなって……つい、噂を否定してしまった。……それはきっと、まだ僕が、マーシィ様のことを好きだからだ」
マーシィ様には一度もできなかった愛の告白を、ここで漏らす。
そして、眠りこけている本人には、これからはもう二度と言うことはないだろう。
僕がそう言ったのに対して、ベラちゃんは一瞬呆然とした表情をした。
それから、その発言の意味をじわじわと実感してきた頃になって、遂に彼女の我慢は限界に到達した様子になった。
ベラちゃんは扇子をしまうと、僕の目の前まで勢いよく詰め寄ってきて、叫んだ。
「理由を言え!と、私はそう言っているのです!姉様をまだ愛しているのなら!貴方は何故強引にも姉様に婚約破棄とほぼ同義のような提案をし、避け続け、拒絶し、その上、まだ好きだなどという軽率な物言いができるのかしら!姉様をどこまで傷つけたら気が済むのよッ!」
その声は、いつもの強気な声とは違う。
張り上げているけれども、弱々しい、震えた声で。
見るとベラちゃんは、燃えるような赤い瞳を潤ませて、その色をくすませていた。
彼女にとっては、わけがわからないのは当たり前だ。
怒るのも当たり前だ。
けれども――
「……理由は、話せない。でも、マーシィ様のためなんだ」
僕はそう答えた。
加護のことは、打ち明けるわけにはいかない。
これは僕だけの問題で、誰も巻き込ませるわけにはいかない。
『全部マーシィ様のためだ』なんて言ったなら、それはきっと傲慢だ。
そこには自己満足もある。
それに、自分のことを善人だと思って、慰めているだけというところも確かにあるだろう。
それでも、マーシィ様を幸せにしたい気持ちは本物だ。
別れれば、最初のうちは心の傷があるかもしれない。
けれど、魔術だって使えるようになった。
心も癒えていけばそのうち、周囲との交流だって増えるかもしれない。
そうすればいつか、僕なんか比にならないくらいに良い男と、やがて結婚することもあるだろう。
メルクロン公爵家は家格と名誉を保ち、マーシィ様は愛する家族に囲まれて幸せに暮らす。
せめて、そんなハッピーエンドの土台を、僕が築くくらいのことはしたい。
今はただ、それだけだった。
少しのあいだ、沈黙の間が訪れた。
ふと、背後のマーシィ様が、少し唸りながら寝返りを打つのがわかった。
眠りが浅くなってきたのか、何か夢でも見ているのだろうか。
きっと悪い夢に違いないと思った。
けれども、それにしては穏やかな顔をしている。
きっと、そろそろ目を覚ます頃かもしれない。
「じゃあ、僕はこの辺で……。マーシィ様に合わせる顔もないだろうから」
ベラちゃんは、ただ無言で俯きながら目の前に立ちはだかっている。
僕は彼女の横を通って、医務室を去ろうと歩いた。
その時。
「……わかってるわよッ!」
突然、背後のベラちゃんが叫ぶので、僕は思わず足を止めてしまった。
彼女は、どこかやりきれない様子で僕のことを睨んでいる。
「……わかっていますわよ!貴方は臆病で甲斐性なしのヘタレですわ!……でも、悔しいですけれど……姉様のことを想ってのことなのはわかりますわよ……!貴方が何か大変なことを覚悟しているのも、それでもやり遂げようと決意していることも!
――けれど、姉様が貴方を好きなことや、それで傷ついたことは変わらない!理由も教えずに、はいそうですかなんて納得できるとでもお思いですか!?」
言われて、心臓がズキリと傷んだ。
理由を教えてあげられないのが……打ち明けられないのが、苦しくて。
けれど、打ち明ければみんなが傷つくことになる。
黙って、僕がいなくなったほうが、きっと良いんだ。
誰も知らない方がきっと幸せな、最低最悪の事実なのだから。
「……僕は、最初から納得してもらおうだなんて思っていないよ。……理由は、言えない。これで納得してもらうしかない」
改めて、足を踏み出そうとした。
が、僕は途中で足を止め、ふと思いついたことをベラちゃんに伝えた。
「……この機会だから、ベラちゃんからもマーシィ様に伝えてみてくれないかな。……僕はヘタレで臆病者の甲斐性なしで……だから、もう諦めろって」
そう返すと、彼女は少し言い淀んだ。
振り返って、眠っているマーシィ様の顔を、心配そうに眺める。
その時だけは、ベラちゃんの鋭い目はいつも優しくなる。
「姉様は、嫌だと答えるに……決まっていますわ」
悲しそうな声で、ベラちゃんはそう呟いた。
きっとそうだろう。
マーシィ様が受け入れるわけはないだろう。
「それでも、言っておいてほしいんだ」
彼女は俯いて唇を噛んだ。
僕にまだ何か言い返そうと思考しているみたいで。
頭の回転の早い彼女のことだ。
きっと、僕に吐きたい言葉は思いついているのだろう。
けれども、彼女は言わなかった。
しばらくすると、諦めたようにそっぽを向いて、僕が元々座っていた椅子に座り込む。
「……近い内に、理由は絶対に話してもらいますから」
ベラちゃんはそれだけ言って、後は、数秒も、数十秒も、何か言うことはなかった。
僕は何も答えずに。
今度こそと、ゆっくり踵を返して、医務室を去ることにした。
廊下を歩きながら、僕はまた、考える。
どうすれば、マーシィ様に婚約解消を納得してもらえるだろうか、と。




