25 今、君に婚約解消を提案している
「許可ももらっていないのに、立ち入りしたらダメだろう」
開口一番、エルは厳しい口調でフライスに言った。
それはどこか警戒心を持っているような声色で。
すぐに彼の名前を呼んでいたのを聞くに、面識はあるのか、それなりには交流のある関係であろうことはうかがえた。
学年1位と2位の生徒として、何か関わることがあるのだろうか。
そんな憶測は容易にできるが、それ以上に何か……さっきまでおどおどしていた様子のエルが、急にフライスに対してきっぱりした態度に移り変わったのはどこか違和感があった。
「エルフィン、君はいつも真面目だな。首席と次席の仲じゃないか。少しくらい許してくれたっていいだろう」
フライスは言いながら、私のほうを横目でじろりと眺める。
相変わらずその視線はとても不気味で。
『俺はエルフィンのことが大嫌いだし、憎んでいる』
以前、彼がそんなふうに言っていたのを思い返す。
あの日からもう会うことはないと思っていたが、こうして再び目の前に現れて背筋がゾクリと震えた。
「……そういえばさっき聞こえてきたが、君たち、婚約を解消する予定なのか?……いやはや。悲しいな。愛し合う男女が別れるというのは、実に残念な話だよ」
口ではそう言いながら、フライスは全く残念とも思っていなさそうに喉を鳴らして笑った。
「僕たちの会話を盗み聞きしたのか?」
エルはどこか強い口調で尋ねた。
……その口調に、焦りが滲んでいるのが少し気にかかる。
フライスは強気に言われても怯まずに、鼻で笑ってから答えた。
「盗み聞きだなんて人聞きが悪いな。ただ聞こえてきただけさ。……しかし、婚約を解消するのか。……それならば、以前の俺の提案を受け入れてくれても良かったんじゃないのか?マーシィ」
不意に声を低くすると、フライスは私のほうにそう問いを投げかけてくる。
予想外の方向からの質問に、私は不信感をさらに募らせた。
……彼が言っているのは、あの婚約を結ばないかという提案のことだろう。
あの日、きっぱりと断ったはずだ。
それなのに、まだ彼がそれを持ち出してくることに、身震いをした。
「……いえ、エルとの婚約がどうであれ、貴方とは婚約を結ぶことはありません。……突然現れてそのようなことを尋ねるのは、無礼ではないですか」
私は、嫌悪を持って答えた。
それを聞くと、フライスは神妙な顔になって目を細める。
何か言い返してくるかと思ったけれども、先に口を開いたのはエルのほうだった。
「婚約だって……?フライス……君は……マーシィ様に婚約を申し込んだのか……?」
どこか驚いたような、信じられないような口調で言った。
フライスはニヤと笑い、その様子を吟味するように眺めて。
もったいぶるように、間を開けてから答える。
「ああ、そうだ。彼女と婚約を結びたいと思っているのでね。……君、なんだその睨むような目は。まさか、ダメと言うわけではないだろう?これから婚約を解消しようというのだから、むしろ君には関係のないことじゃないか」
どこか、からかうように、見下すように。
フライスはそんな言い方をする。
横を見やると、普段は他人に馬鹿にされてもそんなことは歯牙にもかけないようなエルが、どこか明確に怒りを持ったような様子でフライスを睨んでいた。
「……関係は、ある。マーシィ様はまだ僕の婚約者だ。君に婚約を無理強いするような強制力はない」
エルは、はっきりとした口調でそう言った。
フライスは言われて、一瞬大きく目を見開いた。
何かエルの発言に食らうものがあったのだろうか。
……そう思ったけれども。
ややあってから彼は、突然エルの発言がとんでもなく馬鹿馬鹿しいものであったみたいに、お腹を抱えて笑い出した。
「あっははははッ!まだ……まだねえ!確かにマーシィはまだ君の婚約者だ!しかし、君が俺のことをまるで婚約を強制しているような酷い人間であるように言うとは驚きだな!……マーシィに強制的に婚約を結ばせているのは、むしろ君のほうだと言うのに!」
一通り言い終わったあとも、フライスは堪えきれないようにしばらく吹き出して笑っていた。
何がそんなにおかしいのだろう。
ムッとしながら、私はエルのほうを見る。
彼が、またすぐに何か反論の言葉を返してくれるに違いないと思ったからだ。
そもそも、彼に婚約を強制されたことなんて一度もないし、なんなら、エルの方から婚約解消を提案されているのだ。
だから、フライスの言い方は間違っているようにしか感じられなかった。
――それなのに。
「そ、それは……そんなことは……」
エルはばつが悪そうに言い淀んで、俯いた。
口をもごもごとさせて、そう呟いて、あとは何も言わない。
さきほど、あんなに怒りを持った口調でフライスを詰めていたのに。
一体どうしたのだろう。
……不思議に思いつつ。
彼が言わないならと、私は毅然とフライスに向かって言い返した。
「何がそこまで面白いのですか。エルに強制的に婚約を結ばされている事実などありません。私は彼と望んで婚約を結んでいます」
その言葉は、半ばエルに聞かせようとするものでもあった。
第三者にもきっぱりとそう宣言できるほど、自分の心の底から婚約を結び続けることを望んでいることのアピールになると思ったから。
けれど、フライスはすぐに「それは当たり前のことだ」などと一蹴してきた。
「当たり前って……どうして貴方がそんなこと」
尋ねると、彼は眼鏡のズレを直すような動作をする。
それから意地悪い笑みを浮かべて言った。
「君はエルフィンのことが大好きなのだから、そんなのは当然だ。彼と結婚したいと思わされて当たり前なんだ。なあ、そうだろうエルフィン」
さっき私が言い渋った、好き、という言葉を、またこんなにも軽々と吐く。
どうして、私の恋心を当然知っていたもののように語るんだ。
にわかに苛立ち、少しだけ息が荒くなる。
私が言うべき言葉を取られたことによる憎悪が僅かに湧き上がる。
エルの方をちらと見た。
彼にも何か、反論をしてほしい。
こんな人に、負けないでほしい。
……それなのに。
彼はどういうわけか、頭を下げていた。
何故か、おでこや首筋に汗をかいている。
まるで……何か、弱みを握られていて。
……窮地に立たされている人間みたいだった。
「……フライス。頼むから、マーシィ様には言わないでくれ」
エルはただ、懇願するように。
フライスに対して短くそう言った。
何か、違和感が胸の内に積もっていく。
何を、言わないでくれというのだろう。
私だけが理解していないことが何かあるのだろうか。
さっきから、おかしい。
……まるで、私だけが知らない、二人の共通認識があるかのようだった。
フライスはエルの懇願に対し、大きな声で嘲笑した。
「言うなだって?自分は誠実で優しい人間であるようなツラを被っておいて、婚約者に加護のことを何一つ話していないのか。騙していて可哀想だとは思わないのか?」
聞いて、一瞬思考が止まった。
すぐに、ちらとエルの方に目を向けた。
……騙していて、可哀想?
……なんだ、それは。
一体……どういう意味で。
私が、エルに騙されている……?
……そんなわけがない。
優しい彼が、そんなことをするはずがないだろう。
そんなことをするはずがないと、思わせて欲しい、のに。
エルの反応は予想以上に深刻そうだった。
フライスの指摘に肩を震わせていた。
視線があちこちに飛んでいた。
その様子を見ていると、本当に何かあるんじゃないかと思わざるを得なかった。
「マーシィ様を傷つけたくないんだ……。なあ頼む、頼むよフライス。お願いだ……言わないでくれ……」
言いながら、彼はついに地面にへたり込んでしまった。
私が「だ、大丈夫ですかっ」と言って、咄嗟に身体を支えようとするのも間に合わなかった。
エルの青い瞳は、悲しみを映している。
何がそこまで深刻なのか、私には理解できなかった。
戸惑うしかなかった。
やがて、フライスが言った。
「……傷つけたくない?彼女を騙したままで婚約を解消しようというのか。君が言わないなら俺が言ってやる。そうすれば彼女だって、君の提案とやらに納得してくれるかもしれないぞ」
一体なんなのだ。
何があって、エルはこんなにも追い詰められたような表情をするのだ。
……エルが倒れ込んだ闘技場の床の石材が、ぽたぽたと垂れる涙で濡れていくのが見える。
フライスは、先程の馬鹿にするような態度から打って変わって、神妙な表情になって。
どこか、暗い声で話し始めた。
「マーシィ、君は加護というものを知っているか?もちろん、魔術学の授業で学んだので憶えているとは思うが」
言われて、私は何故急にそんなことを尋ねられたのか混乱する。
不審に思ってフライスの顔をジッと見つめて。
けれどそれから、思い返した。
そういえば……1年生の頃に習ったような記憶がある。
加護は……。
『加護というものは――生まれつきその身に余る魔力を持って産まれた人間だけが持ち得る、魔術とは別の能力のこと。
その実態は過剰な魔力から産まれた歪みであって、人それぞれに能力が違う。
場合によっては本人が無意識のうちに周囲に影響を与えてしまうような危険な能力が生まれる場合もある』
……自分には縁のない話だと思いつつも、記憶の片隅に知識としては存在していた。
「それが、どうかしたのですか」
今の状況に、加護はどう関係があるのか。
問い返すと、フライスは急に私を鋭く睨んで、それから言った。
「そこの男が加護を持っているとは微塵も思わなかったのか?幼い頃から魔術の天才と呼ばれた人間が、持ち得ないとでも?」
「何を言って――」
言いかけて、言葉に詰まった。
確かに……エルの魔力量が人並外れていると、聞いたことはある。
それなら加護を持っていても、不思議ではないのかもしれない。
それでも、有り得るというだけだ。
……それに、彼が加護を持っているだなんて、聞いたことがなかった。
私は無知で忘れ物をすることも多いが、そんな大事なことなら絶対に憶えている自信がある。
第一、そのことがわかっているなら、周囲でも彼の加護についての話が出回るはずじゃないか。
それでも、フライスは確信を持っているようだった。
しかも。
……エルは全く否定をしなかった。
「単刀直入に言おう。エルフィン・シャングルトンは加護を持っている」
本当なのか、信じていいのかもわからない。
けれど何か、今から嫌なことを言われるような予感がして、鳥肌が立っていた。
横のエルは相変わらず、すすり泣いていた。
青い瞳が霞んでいる。
続きを言わせてはいけないような気がした。
ぶるりと、また身体が震えた。
けれど、間に合わなかった。
フライスは、まるで断罪するかのような声で、言った。
「彼の加護の効果は『周囲の人間に対して無条件に自身への好意を強要すること』だ」
……理解ができなかった。
理解するには、あまりにも急すぎる。
何より、それが意味することを、私は理解したくなかった。
フライスは冷たい声でもって、続きを言った。
「周囲の大人はいつも、エルフィンを持て囃すだろう。学園でもエルフィンは男女問わず人気者だ。……だが、そんなわけがないと疑問に思わなかったか?明るくて陽気なわけでもない。寡黙で気弱で、甲斐性なしのこんなヘタレが、どうして人気者なのか。どうして周りから、好かれているのか」
質問の意図がわからなかった。
どうして人気者なのかって……そんなのは。
「それは、彼が良い人だからで……」
私が言うのを、フライスは容赦なく断ち切った。
「違う。それはな……魔力で人の心を捻じ曲げていたからだよ」
……そんなわけがない。
彼はさっきから、何を言っているのか。
だってそんなこと、ありえない。
ありえてしまったなら、私は……どうしたら。
「ということはだ。もちろん――」
フライスが、一番重大な発表をしようとでも言わんばかりに声を張る。
聞きたくなかった。
すぐにでも耳を塞いでしまいたかった。
けれど、もう遅かった。
「君がエルフィンのことを好いているのも全て、ただの加護の影響だよ。君は本当の意味で彼のことを好きなわけではない。魔力で、操られているだけだ」
……好きだ。
好きに決まってる。
こんなのは全部デタラメだ。
小さい頃からずっと、5歳の頃から。
青いバラの咲いたあの瞬間……私は彼に惚れたのだ。
それこそ……魔術をかけられた……。
みたい、に……。
「しかも、さらに酷いことを教えてやろう。……このことを、エルフィンは全て知っていたんだぞ。君に好かれていることなんて、彼は前から知っていた。……しかも、その上で――」
膝が、がくりと折れた。
「今、君に婚約解消を提案している」




