17 濡れ衣
いま……彼女はなんと……。
理解が追いつかないで固まってしまう。
すぐに動いたのはエルだった。
シャルロッテのほうへ手を伸ばして、池から彼女を引き上げると「大丈夫ですか?怪我はありませんか」と声をかけた。
シャルロッテの制服はびしょびしょで泥汚れが付いている。
ノートは無事なのだろうか。
というか、そんなことよりも。
……何故彼女は今、自ら池に飛び込んだのだろう。
私はそんなに力を入れていないし、自分で躓いたのでもなければ今のように池へ落ちることはないはずなのに。
それなのに……。
彼女はエルに寄り添って。
「ええ、大丈夫です……。でも――」
そこまで言いかけると突然、私を睨みつけてきた。
その瞳はいかにも恨めしそうで、まるで自分は被害者であるとでも言いたげな眼差しだった。
「マーシィ様!何故私を池へ引っ張ったのです!?こんなことするなんて酷いわ!」
シャルロッテは、心底傷ついたというような声色で叫んだ。
その声はもちろん、彼女が池へ落ちた時に集まった衆目の注意を更に惹きつけた。
そんな、私はそんなことはしていないのに……。
周囲の生徒は、シャルロッテの叫びによって完全に私が、彼女を故意に池へ突き落とし嫌がらせをした人間であるかのように見つめてくる。
一体何を考えているんだ。
そっちが自分から落ちたんじゃないか。
それなのに私が引っ張っただなんて……自分が転けたのをそう勘違いしているのだろうか。
「違います、私は引っ張ってなんかいません。自分で落ちたんじゃ――」
とにもかくにも咄嗟に、私は弁明をしようとした。
それなのに、私の平坦な声を遮ろうとでもしているみたいに、シャルロッテは急に嗚咽を漏らし始めて。
それから唐突に、甲高く泣き声をあげはじめた。
エルに寄りかかり、身体を預けてわんわんと泣く。
私は更に混乱して。
――混乱しているけれど、きっとそんな表情を私は全くしていなくて。
傍から見れば、私は目の前で一人のご令嬢が池に落ちて。
そして大声で泣き出したにも関わらず、怖いくらいの真顔を保っている女なのだろう。
なんだよ。
なんなんだ。
これじゃあまるで、私が悪者みたいに見えてしまうじゃないか……。
「わっ、私、マーシィ様がこんなことをする人だなんて思っていませんでした!悪い噂はよく聞いていたけれど、それでもエルフィン様の婚約者なのですから、本当は良い人なのだろうと信じていましたのに!」
彼女はヒックヒックとしゃくり上げながら、大粒の涙をぽたぽた垂らしてそう言った。
その声は、わざとらしいくらいに大声で。
けれど不思議なことに演技臭さは全く無くて。
そのせいで未だに、彼女にハメられたのか、彼女が純粋に勘違いをしているだけなのか確証が持てない。
涙ながらの発言を聞くと、周囲で見ていた生徒は少しずつざわつき出した。
「見ろよ、マーシィがあの令嬢を池に落としたらしいぞ……」
「あれ、エルフィン様もいる……。きっと彼に近づいたことへの妬みだわ……」
そんな。
違うのに、私はそんなことしていないのに……。
すぐにでも弁明したい。
私はそんなことしていないと、彼女に負けない声量で叫んでやりたいくらいだ。
「違う。私はそんなことは。ただ、手伝おうとして……」
説明しようとして、声が尻すぼみに消えていく。
喉が締め上げられるような感覚になる。
単純な怒りと、やるせなさばかりが浮かんできて、弁明の言葉が出てこない。
……もどかしい、本当にもどかしい。
私には叫ぶこともできない。
せめて何か否定の言葉だけでもと思っても、目の前で号泣するシャルロッテを見ていると、頭が真っ白になった。
……いつもこうだ。
この体質のせいで、私は嫌われて、誤解されて……大好きな人に婚約解消の提案までされて。
泣いているご令嬢を前に、私の気持ちは全く伝えることができない。
まるで私だけが透明な壁に囲まれているかのような。
岸の見えない海の真ん中に、ぽつりと佇んでいるかのような。
もう、弁解の余地はないかもしれない。
けれど――そんなことを思った時だった。
エルがシャルロッテの肩を叩いて、不意に口を開いた。
「あの……シャルロッテ様。お言葉ですが、マーシィ様があの状況で突然そんなことをするふうには思えません。その、何か……勘違いをされているのではないですか」
私は、そんなことを言い出すエルを見て。
すぐには信じられずに疑心を浮かべ、それから呆気に取られてしまった。
……ここにいる生徒のほとんどが、私を犯人だと決めつけているのだ。
この場の雰囲気が、流れが。
私のことを犯人に仕立てあげているのだ。
それなのに、エルだけは。
私がそうしたのではない可能性を何故か信じてくれている。
場の流れに乗って疑うのではなく、冷静に状況を見極めてくれているのか。
それとも……。
思い上がっている考えなのは承知だけれども……。
ただ、疑われているのが私だから。
私が疑われているのは嫌だから。
それだけの理由で信じてくれているのか。
状況に似合わず、私はにわかに高揚してしまって。
けれど、シャルロッテのほうはそうではなかった。
「エルフィン様!?私を信じていらっしゃらないのですか!ええ……それはもちろんマーシィ様は曲がりなりにも婚約者ですものね!疑いたくはないでしょう!それでも私は、彼女に落とされたのですよ!」
彼女はエルに異を唱えられても、全く持ってスタンスを崩さず、むしろ悲壮感を一層強めてそう語った。
饒舌に切り返されて、エルは口をもごもごとさせる。
……ダメだ。
この子の言葉には根拠はないけれど説得力がある。
泣いている彼女に対して強く言い返せば、むしろ一層こちらが悪者みたいになってしまう。
厄介だと、そう思った時に。
――更に厄介なことが続けて起きてしまった。
「シャルロッテ様、大丈夫ですか!」
シャルロッテの元へ、一人の女性が突然駆け寄ってきた。
見るに、令嬢とはまた身分の違う女の子だろうか……。
不審に思いながら見ていると、彼女は、持っていたタオルでシャルロッテの身体を丁寧に拭き始める。
それから、私のことを恨めしそうに見つめた。
「あぁ、ありがとうリズメル。……ねえ、リズメル、貴女は信じてくれるわよね。私、マーシィ様に落とされたのよ。けれど、きっと……誰も。エルフィン様でさえ、ちゃんとその瞬間を見ていなかったから、この状況に乗じて、マーシィ様は白を切り通すつもりなんだわ!このままだと、誰も私を信じてくれない……!」
シャルロッテはエルから離れると、今度は代わりにそのリズメルという女の子のほうへ近づいていって。
たっぷりと悲しみと寂しさを込めた口調かつ、周りにも聞かせるような声量で言った。
リズメルは、シャルロッテの身体を上から下までくまなく拭いてやって。
それから立ち上がり、胸を張ると自信満々に宣言してくる。
「ええ、もちろん信じます!私はしっかりとマーシィ様がそうするところを見ていましたもの!」
白を切り通すだなんて……。
私がそんな卑怯な人間であるみたいに……!
しかも、見ていただなんて、どうしてそんな嘘を平然と吐けるのか……。
「ですから、私は引っ張ってなんかいません。貴女を落とそうとなんか、するわけがないでしょう」
今度はなんとか、そんな言葉がはっきりと口をついて出た。
エルがさっき、私のことを疑っていなかったことで、勇気づけられてなんとか口が動いた。
言えた……なんとか言えた……。
けれど……。
私の平坦な声での冷静沈着な否定の言葉は。
きっと彼女が大げさに騒ぐ声よりもずっと、嘘っぽく聞こえてしまったに違いなかった。
相変わらず、私を信じようとする人が現れる様子はない。
どうしよう、どうしようと迷っているうち、エルと目が合う。
青い瞳が心配そうに揺れていた。
……けれども。
彼は悲壮感たっぷりに抱き合う二人のほうへ一歩踏み出して。
「シャルロッテ様。それに、リズメルさんも。一旦落ち着いてください。信じるかどうかはひとまず置いておくとして。……こんな場で糾弾するようなことをしなくたっていいでしょう。それに、まだマーシィ様のせいと決まったわけではないじゃないですか」
今度は声量を大きくして、強い口調で言ってくれる。
エルはぎこちなく歩きつつも私の方へ近づいてきて、シャルロッテと向かい合った。
まるで、私を守ってくれるみたいに……。
心臓が跳ねたのも、束の間。
「シャルロッテ様がこんなに傷ついているのに、落ち着けだなんて!エルフィン様こそ、よく考えてくださいよ!マーシィ様のせいじゃなかったら、一体誰のせいだって言うんですか!」
リズメルが、更に大きな声で。
エルが信じられないことでも言ったみたいに、声を荒げた。
誰のせいって、それは……自分から落ちたに決まって……。
……でも、そんな言い方をすれば、シャルロッテ様を悪者みたいに言わないでください!と更に反論が来るのがわかっていて、言い返せない。
リズメルが持っているタオルをぶんと振るのを、シャルロッテが右手で制する。
「やめなさい、リズメル。……ねえ、マーシィ様。私は怒っていませんよ。だから、どうしてあんなことをしたのか……教えてください。私、何か悪いことをしてしまいましたか?マーシィ様をきっと怒らせてしまったのですよね」
シャルロッテは、涙目で、極めて優しい声色で尋ねてくる。
彼女のその行動はきっと、周囲の人間にとっては、自分に嫌がらせをしてきた相手に対しても慈悲を与える善人に映っているのだろうけれども。
どうして、私がやった前提なんだ。
違うのに。
私はやっていないのに。
どうしよう、どうすればこの疑惑を晴らせる?
この際、周囲の生徒に私が悪者のように扱われることなどどうだっていい。
どうだっていいけれども、私が一番怖いのは。
このままだと、エルすら。
私のことを疑い始めてしまうのではないだろうかということだ。
目の前にある、彼の背中を見る。
肩が震えているのがわかるけれど、それがどういう感情から来る震えなのか、わからないのが怖い。
もし今にでもやっぱりシャルロッテの側に歩いていって、くるりと振り向いて、私を睨みつけ始めたら。
そうなるかもしれないのが、一番怖い。
「マーシィ様、シャルロッテ様の質問に答えてください!先程からやっていないフリなどをして。失礼ですよ!」
リズメルが毅然とした声で迫ってくる。
……答えられるわけがないだろう。
だってやっていないのだから。
それを証明する術などあるわけがないのだから。
こんなの、いわれのない濡れ衣じゃないか。
怒りと、エルに疑われたくないという恐怖がない混ぜになっていく。
こんな場所で、エルの信用を失ってしまったら。
そうしたら、彼と婚約者のままでいるという目的は絶対に叶わない。
どんなに他の人に悪口を言われたって、私はもう傷つくことはほとんどない。
けれど彼は。
彼にだけは、絶対に嫌われたくない。
それだけは嫌なのだ。
恐怖で呼吸が早くなり、空っぽになっていた肺を満たすように。
息を、大きく吸った。
何か言わなければ。
何か、少しでも言い返さなければ。
何も言わないよりいいはず。
ぼうっと、真顔で立っているよりはいいはず。
そう思って。
「……私がたとえ、貴女を貶めたかったとしても……婚約者のエルフィンの前でこんなことをするわけがないじゃないですか。彼に嫌われたいわけが、ないじゃないですか」
絞り出すようにそんな言葉が口から出た。
その言葉が、なんの弁明にもなっていないことはわかっている。
シャルロッテもリズメルも、表情を変えない。
群衆が私を見る目も、依然として変わらない。
気がつけば、耳が痛いくらいに熱い。
心臓が燃えているみたいで、頭がくらくらしてくる。
呼吸は更に荒くなった。
エルが、ちらと不安そうに私の方を振り返った。
その時、沸騰した血が身体中を駆け巡るような感覚になって。
――その感覚には、すごく覚えがあって。
これは駄目だ。
すぐに直感でわかった。
またあれと、同じ惨事を引き起こすわけにはいかないのに。
けれど、自分では制御することは叶わない。
魔力の奔流が、来る。
溢れる。
暴走してしまう。
パチパチッと音がした。
紫の電気が宙を走り、髪が静電気で持ち上がるのがわかる。
足元の草がしなびて、目の前にいるリズメルとシャルロッテの髪の毛も逆立つ。
身体がふわふわと浮くような感覚がして。
まずい……と思った瞬間のことだった。
――ケラケラと、場違いなほどに意地悪な笑い声が、広場に響いたのは。
「やっていないフリ?貴女のほうこそ、そろそろその下手くそな泣き真似を早くやめたらどうかしら?悲劇のヒロインを演じようと頑張っているのかもしれませんけれど、あまりのお粗末さに、てっきりお遊戯会でも始まったのかと思いましたわ!」




