12 婚約解消、撤回宣言
婚約者、婚約者。
僕の、婚約者。
彼は、そう言った。
ただならぬ気迫にあてられて、令息たちは逃げ帰るように自分たちの席へ戻って行った。
間もなく、授業が始まった。
まず最初に先生が挨拶をして、たぶん前回の授業の内容を簡単に振り返っていた。
たぶん、というのは、私がぼうっと空を見つめるばかりで先生の話が何一つ頭に入ってきていなかったからだ。
エルはどうして、そんな言葉を使ったのか。
ちらり、横を見ると彼は真っ直ぐ前を向いている。
前までは丸みを帯びて見えた輪郭が、凛として鋭く見える。
視界がふわふわする。
座っているのに、まるで立ちくらみでもしているみたいだった。
身体が浮いているみたいだ。
いくら意識しないようにしても、心の中が甘ったるくて仕方がない。
違う。
まだ婚約解消が正式に決まってはいないから、だから彼は私を婚約者だと言っただけだ。
わかっている、のに。
どうして私はこんなにも、舞い上がっているのだろう。
心臓の鼓動が身体中に響いていて。
気がつくと、右の手が無意識にエルの方へ伸びていた。
自分の行動に自分でびっくりして咄嗟に手を引っ込める。
不思議に思ったのだろう。
エルが不意にちらとこちらを見た。
刹那、彼と目が合って。
目を背けてしまった。
あれ……私は。
2日前、彼に目を逸らされて、あんなに傷ついたのに。
おかしい。
こんなのじゃあまるで――
――婚約解消を提案される前よりずっと、エルのことを好きになっているみたいだ。
……やがて、先生の話が終わると、生徒全員が教室後ろの棚から自分好みの形の鉢や花瓶を手に取り始めた。
今日の授業の内容はペアワークではなく、各々自由に花を挿して、最後にペアの作品を評価するレポートを書けばいいらしい。
それを知って、少しホッとする。
隣の席にいるだけでさえこんなにドキドキするのだから、ペアワークなんかしていたら指先が触れそうなことを意識してしまうあまり、鼓動が加速してやがて私の心臓が破裂していたに違いない。
まだこんなところでは死にたくないので助かった。
ただ、席は隣同士だし、並んで作業をすることに変わりはない。
無性にそわそわして、横目に平然とした彼の姿をちらちら見ながら花を挿していく。
花の匂いが充満する教室の中でも、彼の清涼感のある香水の匂いが存在感を主張してきて、もはや腹立たしくすらあった。
ふと手元を見れば、何もない虚空に花を生けようとしている自分に気がついて恥ずかしくなる。
どうしてこんなにぼうっとしているのだろう。
自分の惚け具合に落ち込んでいると。
「マーシィ様、あくまで僕の好みなのですが……ここはもっとこうしたほうがいいと思います」
不意に、エルが私のヨレヨレに挿した花を真っ直ぐに直してくれる。
私は驚いてびくりと肩を震わせた。
それから「……ありがとう」と少し遅れて感謝をして。
また、彼の方から話しかけてくれたことに頬を熱くしながらも、自分が情けなくなった。
そうだ。
私は彼と話をしに来たんだ。
それなのに、ずっとドキマギするばかりで、足踏みをしていてどうする。
待っているだけではいけない。
自分から、話しかけなければ。
彼はもう私には寄り添ってくれないのだから、私から強引にでも離さないようにしなければ。
ぎゅうっと手に力が入る。
大きく息を吐いて、私は話した。
「ねえ、エル……。少し、尋ねてもいいですか」
訊くと、彼は一瞬ぴくりと身体を震わせる。
それで少しだけ、彼も動揺しているのでは?
なんて、期待してしまうけれど、確認すればやっぱり彼は平然とした顔をしていて、あまりこちらを見ずに「……ええ、何でしょう」と返事をしてきた。
以前と比べれば、とても冷たい返事。
それでもいい、こちらの問いかけに返事をしてくれるだけでも嬉しい。
もしかしたら、この質問には答えてくれないかもしれないけれど、それでも私は、ずっと気になっていたことを口にした。
「貴方はどうして、婚約解消を3ヶ月後の舞踏会で公表しようと思っているんです」
ずっと、疑問に思っていた。
どうして3ヶ月後なのか。
どうして舞踏会でなのか、と。
彼が本当に私と婚約を解消したいと思っているならば、公の場でわざわざ公表しなくとも、ひっそりと身内だけの話し合いですればよい。
これが王家での話ならばまだわかる。
けれど、私みたいな嫌われ者なんか、公爵令嬢とはいえ、あの時、あの庭で正式に婚約を解消したところでさほど変わりはしない。
それなのに、どうして彼は猶予を作るような真似をしたのだろう、と。
だから私には、彼に何か考えが……。
もしかしたら……もしかしたらだけれど。
――彼だって少しだけ。
私と婚約を解消するのを惜しんでいるんじゃないかと期待してしまったのだ。
彼は少し色褪せた赤の花を花瓶に差した。
それから、伏し目がちだけれども私のほうを見る。
もしかしたら、嫌なことを言われるんじゃないかという予感が渦巻いて、心臓が破裂しそうだった。
「僕が3ヶ月後と言ったのは……。マーシィ様のためですよ」
「私の、ため……」
どういうことだろう。
緊張して、自然と両の手を胸の前に組む。
尋ね返すと、エルは花から手を離して、何か覚悟したかのようにしっかりと私の顔を見て言った。
「ええ……。もしもあの時、あの場で婚約を解消してしまったら、きっと悪い憶測が飛び交うと思ったんです。だから、3ヶ月後。人が多く集まる場所で婚約の解消を……。いえ……以前も言いましたが、マーシィ様から僕を婚約破棄して欲しいと、そうお願いしたのですよ」
どこか、自嘲気味に。
後ろめたさを抱えた口調で話していく。
「僕に非のある理由なんか、その気になればいくつでもこじつけられるでしょう?婚約が解消になったのは、僕のせい。そうすれば……マーシィ様が悪く言われることはないと思った……。でも――結局、僕は何もできず、あんなふうな噂が流れてしまったのですが……」
エルフィンは乾いた笑いを上げて、それからまたどこか落ち着かない様子で、その細い指で花を触りだした。
彼の手元を見て気づく。
さっきの色褪せた赤い花は、私が途中で話しかけたせいか、変な挿さり方をしている。
……ふと、2日前のことを思い出した。
ご令嬢に囲まれて、困って、断りきれずにいたエル。
私の悪口を言ってくる周囲の生徒。
それをまるで止められていなかったのは……確かにそうだ。
私のためと言っておきながら、私を悪く言うような噂を否定しきれていなかった。
そのことは、責めようと思えば責められる。
ただ……例え、そうだとしても。
彼に決定権を委ねるだけで、声をあげて噂を否定しようとしなかった私もまた、同罪だと思う。
……それに。
彼が臆病なことも、弱い人間であることも、最初から全部知っていて好きになったのだから。
今更これぐらいのことで文句を言うのは筋違いだ。
――『結局、僕は何もできませんでしたけどね』というセリフが痛いほど耳に残る。
けれど私は、何も出来なかっただなんて思わない。
「エルは2日前……私のことを助けてくれたでしょう。私をすぐに抱き留めてくれたのは貴方です。ベラから、私を運んでくれたことも聞きました。……あれは、何もできなかったということにはならないのではないですか」
この際、私の評判なんて、どうだっていいのだ。
それよりも私が大事に思っているのは、私が暴走した時、真っ先に駆けつけてくれたのが彼だということ。
医務室に運んでくれたのも彼。
自分の身を挺して、大怪我だってするかもしれなかった。
それなのに、私を守るために彼が咄嗟に動いてくれたという事実は、それだけで、やっぱり私を大切に想ってくれているのでは、などと未練がましい期待を膨らませるには十分なものだった。
「お、覚えてたんですか……。いや、そんなの忘れてください……」
エルはそう言うと初めて、平然としていた顔を少しだけ赤くした。
それを見て、もしかしたら、私の期待は当たっているのかもしれないと思ってしまって。
ぷいとそっぽを向く背中に対して、私は「忘れませんよ」と声をかけた。
けれどそうすると、意地になった様子で彼はすぐに言い返してくる。
「あ、あの、言っておきますけど……!僕がマーシィ様を助けたのはマーシィ様が特別だからとか、そういうのじゃありませんし……。あんなふうになっていたら、誰のことだって助けますから……!」
強調したような言い方をすると、エルは気を取り直したような表情で、ちらりともこちらを見ずに花を手に取った。
今度は明確に、こちらを見ないようにしている感じだった。
……その言葉は本当だろうか。
そうだとしたら、私はすごくガッカリする。
ただの妄想や思い込みだったのかと落胆する。
……けれどもあれが。
周囲のご令嬢を跳ね除けて、あんなにも必死な顔で助けに来てくれたのが。
本当に誰にでも向ける感情だったとはやっぱり思えなかった。
だから私は、彼が強がっているだけだと受け取った。
私の妄想かもしれないけれど、それでもいい。
彼が私を助けてくれたことに変わりはないから。
エルは新しく綺麗な青い花を一本挿していた。
そのまま作業に戻ってしまうのかと思ったけれど、少ししてから大きく息を吐いて、身体をこちらに向ける。
それから、諭すような口調で話してきた。
「とにかく、この話はもういいでしょう……。マーシィ様だって、僕と婚約している理由は本格的に失くなった。魔術が……その、使えるようになっていたじゃないですか。傍目からでも感じました。すごく莫大な魔力でしたから。あれなら、魔術を使えるメルクロン家の跡継ぎの役割は僕でなくていい。僕はもう用済みですよ」
その声は柔らかかった。
最初より冷たくなくて、優しい色のする声で。
けれど、こちらに言い聞かせようとするような強制力のある声でもあった。
ああ、またこれだ。
5日前、彼とお茶を飲んでいた時と同じ感覚が胸に沈み込んだ。
私が役割のために、彼を道具か何かだと思って今まで婚約者として過ごしてきたのだと、本気で彼は思っているのだろうか。
そんなわけがないじゃないか。
確かに、彼を好きになった最初の理由は魔術だった。
けれどもこれは自信を持って言える。
私は、もし彼が魔術を使えなかったとしても、絶対に彼のことを好きになっていた。
傍に居てくれるだけでいい。
私はそれだけで幸せだったんだ。
にわかに怒りが湧き上がるけれど、今度は5日前とは違って自分でもびっくりするくらい冷静で。
彼に一歩近づく。
少しでも身体を前に倒せば彼の胸に顔が埋もれる距離だった。
「エル、もう一度言いますが、私は貴方と婚約を解消することを望んでいません。用済みだとも思わない。……いつまでも、傍に居てほしいと願っています」
エルが困ったように後退りしようとするのがわかった。
「そんなのはお世辞でしょう。……何度も言うようですが、これはただの政略結婚ですし――」
言いかけながら、私の横をするりと抜けていこうとした。
あのお茶会とは違う。
今度は逃げられてはいけない。
私は咄嗟に彼の手を握る。
「ええ、こんな無表情の女に言われて、信じられるわけがないのもわかっています。信じるのが怖いことも。だから」
握る手から、彼の鼓動が速いのが伝わってくる。
当たり前だけれど、5歳のあの時より、ずっと大きくて。
温かくて。
そういえば、私も平然とこんな行動を取っているけれど、なんて恥ずかしいことをしているのだろう。
急激に緊張してくるけれど、それでも後には引けない。
私は覚悟を決めた。
「貴方が三ヶ月後の舞踏会に婚約解消をするというのなら、私はそれに抗う。絶対に、三ヶ月後までに婚約解消を撤回させますから」




