文化祭巡り
午後一時。
文化祭の熱気は、昼過ぎを迎えて最高潮に達していた。
廊下はどこも人とすれ違うのがやっとの賑わいで、焼きたてのフランクフルトやたこ焼きの香ばしい匂いが充満している。中庭の特設ステージからは吹奏楽部のポップな演奏が聞こえ、校舎全体が祭りの熱狂に揺れていた。
「悠くん、こっちこっち!」
人混みの中、俺の手を引いてぐんぐんと進んでいくのは、彩花だった。
午前中の『クラシックカフェ』の給仕服から制服に着替えた彼女は、どこか浮き立つような足取りで俺を引っ張っていく。繋いだ手から伝わってくる体温が、秋の心地よい風の中でもやけに温かく感じられた。
「そんなに急がなくても、逃げはしないぞ」
「ダメだよ! 私、今日の午後のために午前中のシフトも看板作りも全部頑張ったんだから! 一分一秒だって無駄にしたくないの!」
振り返った彩花が、屈託のない満面の笑みを向けてくる。
その直球すぎる言葉に、俺の胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。相変わらず、この幼馴染は俺の心の隙間に容赦なく飛び込んでくる。
「……分かったよ。転ばない程度に付き合う」
「ふふ、よろしい!」
最初に二人で向かったのは、2年3組が企画している『謎解きお化け屋敷』だった。
薄暗い教室内に作られたダンボールの迷路。不気味なBGMと仕掛けに、女子生徒たちの悲鳴が時折響き渡っている。
「ねえ悠くん……本当に入るの? 私、お化け屋敷ってちょっと苦手かも……」
「言い出したのは彩花だろ。『二人で入ったら絶対楽しい!』ってテンション上がってたじゃないか」
「う、うぐぐ……だって、こういうのって文化祭デートの定番でしょ……?」
入口の黒いカーテンの前で急に気弱になる彩花。
先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、俺の制服の袖をぎゅっと掴み、怯えたように室内を覗き込んでいる。
「嫌なら無理しなくてもいいんだぞ?」
「無理じゃない! 悠くんと一緒なら入る!」
意を決したように胸を張る彩花とともに、俺たちは薄暗い室内へと足を踏み入れた。
——そして、開始三十秒後。
「きゃああっ!?」
暗闇から飛び出してきたガイコツの模型に驚き、彩花が悲鳴を上げながら俺の右腕にしがみついてきた。
「悠くん! 悠くん! なんか出た! 今なんか出たよ!?」
「落ち着け、ただのプラスチックだ。……あと、力が強い」
「無理無理無理! 目開けられない!」
完全にパニックになった彩花は、俺の腕を両手でしっかりと抱きかかえる形になっていた。
腕に伝わる、柔らかく温かい感触。薄暗いお化け屋敷の仕掛けよりも、そっちの感覚の方が何倍も心臓に毒だった。俺の顔が一気に熱くなっていくのが自分でもわかる。
「悠くん、離れないでね……? 絶対置いていかないでね?」
上目遣いで俺を見つめてくる彩花の瞳は、本気で怯えつつも、どこか縋るような色を帯びていた。
「……離れないよ。俺の腕、折れる勢いで掴んでるんだから離れようがない」
「もうっ! 雰囲気が台無し!」
照れ隠しの軽口にぷくっと頬を膨らませつつも、彩花は嬉しそうに俺の腕に頬を寄せた。
結局、謎解きの答えなんてほとんど頭に入らないまま、俺たちは命からがらお化け屋敷を脱出したのだった。
◆
「はぁ〜……びっくりした。でも、楽しかったね!」
「俺は腕が折れるかと思ったよ……」
眩しい太陽の下に出ると、俺たちは冷たいジュースを求めて中庭の露店へと向かった。
ベンチに二人並んで腰掛け、かき氷とジュースで火照った体を冷ます。
「あ、悠くん。口元にシロップついてる」
「え? どこ——」
拭おうと手を伸ばした瞬間、彩花が身を乗り出してきた。
彼女の細い指先が、俺の唇の端に優しく触れる。
「……はい、取れた」
至近距離で目と目が合い、息が止まる。
彩花はペロリと自分の指を舐めると、いたずらっぽく小悪魔的な笑みを浮かべた。
「ふふ、イチゴ味」
「……普通に言ってるくれるだけでいいのに」
「だって、悠くんが油断してるからでしょ? 言ったじゃん、今日の私は本気なんだからねって」
赤くなる俺の顔を見て、彩花は満足そうにクスクスと笑う。
土曜日の水族館の時よりも、格段に攻勢を強めている彩花。生徒会室での騒動を経て、彼女の中の「悠を誰にも渡したくない」という気持ちが、より明確になっているのが痛いほど伝わってきた。
「ねえ、悠くん。次はどこ行く?」
「そうだな……生徒会が企画してる展示でも見てみるか? 菜奈さんが頑張った成果だし」
「う〜ん、お姉ちゃんのところもいいけど……」
彩花は少しだけ思案する素振りを見せた後、パッと顔を上げて俺の目を盗むように覗き込んできた。
「ねえ。屋上、行ってみない?」
「屋上? 確か今日は立ち入り禁止じゃ……」
「実行委員の鍵、持ってるもん。特別に二人だけでサボっちゃおうよ」
悪戯が成功した子供のように笑う彩花に手を引かれ、俺たちは賑やかな喧騒を離れ、校舎の最上階へと向かった。
◆
ギィィ……と重い鉄の扉を開けると、秋の澄み渡る風が勢いよく吹き抜けた。
誰もいない、静かな屋上。
眼下には、祭りに湧く校庭や賑やかな校舎が一望でき、遠くには真っ青な秋空が広がっている。下に聞こえる歓声が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられた。
「うわぁ……すごい! 眺め最高だね!」
フェンスに駆け寄り、彩花は気持ちよさそうに両手を広げて風を受けた。
光を浴びてキラキラと輝く彼女の髪が、風に揺れてふわりと舞う。その幻想的な光景に、俺は思わず見とれてしまった。
「悠くん、来て!」
彩花に呼ばれ、俺もフェンスの隣へと歩み寄る。
「……静かだな。下にいるとあんなに騒がしいのに」
「うん。……なんだか、私と悠くんしか世界にいないみたい」
ぽつりとこぼされた言葉。
彩花はフェンスに肘をつき、遠くの街並みを見つめながら、静かに語り始めた。
「昨日ね……生徒会室でお姉ちゃんが泣いてて、悠くんが助けてくれた時。私、すごく嬉しかったんだ。お姉ちゃんが救われて、文化祭も無事に開催できて、悠くんは本当にかっこよかった」
「……俺はただ、巻き込まれただけだって」
「ううん。悠くんのそういう優しいところが、私、大好きなの」
さらりと紡がれたその言葉に、俺の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
「でもね……」
彩花はゆっくりと俺の方を振り返った。
その瞳には、少しだけ嫉妬の混ざった、複雑な色が浮かんでいた。
「ちょっとだけ、モヤモヤしちゃった」
「モヤモヤ……?」
「うん。お姉ちゃん、悠くんのこと『格好いい』って顔で見てたんだもん。……お姉ちゃんってば、普段はポンコツなくせに、一度夢中になるとすごく素直で可愛いから」
彩花は一歩、俺へと歩み寄った。
二人の距離が、ほとんど息遣いを感じられるほどに縮まる。
「お姉ちゃんのピンチを救ったヒーローが悠くんだなんて……ちょっとズルいよ。お姉ちゃんまで悠くんのこと好きになっちゃったら、私、困るんだからね?」
「おいおい、菜奈さんはただ感謝してるだけだろ。変な妄想するな」
「本当かなぁ? 女の勘を甘く見ないでよね」
彩花はジト目で俺を睨みつけると、そっと手を伸ばし、俺の制服の裾をギュッと掴んだ。
「……お姉ちゃんには負けないんだから」
「え?」
「私の方が、ずーっと前から悠くんの隣にいるんだからね。お姉ちゃんがどれだけ生徒会で悠くんを頼っても……私の悠くんなんだから」
強がりと、一途な独占欲の混ざった小さな囁き。
照れくささを隠すように、彩花はそっと俺の肩に頭を預けてきた。
風が吹き抜け、ふわりと彩花の甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
下から聞こえる歓声を背景に、俺たちはしばらくの間、無言で肩を寄せ合っていた。
今回の文化祭期間を経て、俺の平穏な高校生活が試される瞬間は、これから何度でも訪れるのだと、俺は予感にかられながら、この居心地のいい時間を身を委ねるのだった。




