文化祭開幕
文化祭初日。午前6時前。
まだ薄暗い群青色の空が、東の端からゆっくりと黄金色へと染まり始めていた。
昨日の土砂降りが嘘のように晴れ渡り、秋の澄んだ空気が校庭を満たしている。
俺は欠伸を噛み殺しながら、静まり返った学校の正門前に立っていた。
(……眠い。死ぬほど眠い。なんで俺はこんな早朝から学校にいるんだ……)
自分の選択ゆえとはいえ、普段ならまだ布団の中でぬくぬくとしている時間だ。陰キャの生活リズムとしては致命的な早起きである。
そんな俺の愚痴を掻き消すように、ぶおん、と重厚なエンジン音が響き、1台の大型トラックが正門を潜ってきた。車体には『株式会社アーツ・アンプリファイ』のロゴ。
「おーい、翡翠! 早起きご苦労さんだな!」
助手席から顔を覗かせたのは、私服姿の桜庭先生だった。助手席のドアを開けて飛び降りると、ニッと豪快に笑って俺の肩を叩く。
「先生、本当に助かりました。……しかし、私服だと本当にただの怪しいオタクですね」
「失礼なことを言うな! これでも今日は音響スタッフの一員として特別参加なんだぞ! ほら、社長さんも降りてきたぞ」
トラックの運転席から降りてきたのは、黒いTシャツにキャップをかぶったガタイの良い男性だった。プロの裏方らしい、キリッとした佇まいだ。
「君が翡翠くんだね。桜庭から話は聞いているよ。緊急手配とはいえ、文化祭のピンチと聞いて燃えちゃってね。最高のステージにしてあげるから、君も手伝いよろしくね!」
「今日は本当にありがとうございます。よろしくお願いします」
そこへ、体育館の方からバタバタと激しい足音が近づいてきた。
「おはようございますっ!!」
息を切らせて駆け寄ってきたのは、菜奈さんだった。
昨日の涙で腫れていた目はすっかり引いており、制服を着崩すことなくシャキッと着こなしている。髪もいつものように綺麗に整えられていた。
……だが、昨日までの「冷たく隙のない仮面」とは違う。
その瞳には柔らかさと、内側から溢れ出るような真っ直ぐな情熱が宿っていた。
「桜庭先生! アーツ・アンプリファイの皆さん! この度は本当にありがとうございます……!」
菜奈さんは深々と、90度以上の角度で頭を下げた。
「いいってことよ、生徒会長。翡翠から『会長が限界だ』って聞いた時はヒヤヒヤしたが……うん、いい顔になったな。よし、体育館へ機材搬入開始だ!」
『おーっ!!』
先生の号令とともに、集まっていた生徒会役員や運動部からの助っ人男子たちが一斉に動き出した。
巨大なスピーカー、アンプ、配線コード、照明用のLEDスタンド。
プロの指示のもと、俺たちも汗を流しながら次々と体育館へ機材を運び込んでいく。
「悠くん、これあっちに運べばいい?」
「あぁ、あっちのステージ袖に頼む」
テキパキと指示を飛ばし、自らも重い機材を運ぶ菜奈さん。
その顔には悲壮感など微塵もなく、仲間とともに文化祭を作り上げている充実感に満ち溢れていた。
(……うん、これでよかったんだな)
汗を拭いながらその光景を眺めていると、いつの間にか隣に霧島先輩が立っていた。
「翡翠くん、本当にありがとうね。……菜奈、あんな晴れやかな顔、久しぶりに見たわ」
「俺は何もしていませんよ。桜庭先生とプロの業者さんがすごかっただけです」
「フフ、相変わらず素直じゃないわね。でも、感謝してるわ」
午前8時前。
体育館には、一昔前の高校文化祭とは思えないほど豪華で本格的なステージが完成していた。スピーカーから響く音チェックの重低音が、体育館の床を心地よく揺らす。
準備は、完全に整ったのだ。
◆
午前9時。
校内に響き渡るファンファーレとともに、ついに文化祭が開幕した。
正門が開かれると同時に、近隣の住民や他校の生徒たちが続々と校内へと入ってくる。静かだった校舎が一瞬にして熱狂と熱気に包まれた。
「いらっしゃいませー! 1年5組『クラシックカフェ』、美味しいコーヒーとケーキはいかがですかー!」
我らが1年5組の教室の前では、メイド服や給仕服に身を包んだ女子たちが華やかに呼び込みを行っていた。
看板の出来栄えも上々で、店内はあっという間に満席状態になっている。
「悠くん、はいこれ! 前半のシフトお疲れ様!」
給仕服姿の彩花が、トレーに乗せた冷たいアイスティーを持って俺の元へと駆け寄ってきた。フリルがついたシックな衣装が、彩花の可愛らしさをこれでもかと引き立てている。クラスの男子たちが羨望と嫉妬の視線を俺に注いでいるのが痛いほどわかる。
「ありがとう、彩花。似合ってるな、その服」
「〜〜〜っ!?」
素直に褒めると、彩花は分かりやすく顔を真っ赤にしてパタパタと手で顔を仰いだ。
「も、もう! 不意打ち禁止! そういうことサラッと言うようになったよね、最近の悠くん!?」
「事実を言っただけだろ。……それで、生徒会の仕事は? お姉さんは大丈夫そうか?」
俺がお茶を一口飲むと、彩花は嬉しそうに目を細めて頷いた。
「うん! 午前中の体育館のオープニングステージ、大成功だったよ! 軽音部の人たち、プロ仕様の音響にめちゃくちゃ感動して泣いてたもん。お姉ちゃんも、他の役員の人たちに仕事を任せながら、楽しそうに全体を見て回ってる」
「そうか。……なら、安心した」
肩の荷が下りたような気がして、俺は息を吐き出した。
すると、彩花がすっと距離を詰めてきた。
給仕服の裾をキュッと掴み、上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。
「ねえ、悠くん」
「ん?」
「約束……覚えてるよね?」
彩花の瞳が、期待と少しの緊張で揺れている。
「午後のシフト……私、休憩希望出してあるから。悠くんも一緒でしょ?」
「あぁ。ちゃんと合わせて提出してある」
「ふふっ、やった!」
彩花はパッと満開の笑顔を咲かせると、俺の手をぎゅっと握りしめた。柔らかくて温かい感触が手のひらから伝わってきて、俺の心拍数が一気に跳ね上がる。
「よしっ! じゃあ午後は、お姉ちゃんのことも生徒会のことも全部忘れて……私と二人きりで、文化祭デートしようね!」
「……手加減してくれよ?」
「ダメ。今日の私は、悠くんを夢中にさせる気満々なんだから!」
いたずらっぽく微笑む彩花の姿に、俺はもう逃げ出すことなんてできないのだと悟った。
波乱に満ちた準備期間を乗り越え、ついに始まる二人だけの時間。
秋の甘い空気が、俺たちの周りを静かに包み込んでいた。
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