平穏のために
「……これで、本当に終わり……なのかな」
静まり返った生徒会室。
菜奈さんは彩花の肩に顔をうずめたまま、掠れた声でぽつりと呟いた。
泣きじゃくったせいで真っ赤に腫れ上がった目元。いつも綺麗に整えられていた琥珀色の髪は乱れ、その姿にはかつての『完璧な生徒会長』の面影など微塵も残っていなかった。
「菜奈……」
霧島先輩が、かける言葉も見つからないといった様子で唇をかみしめる。
部屋の隅に集まっていた各団体の実行委員たちも、落胆と不安を隠しきれずにうつむいていた。
体育館のメインステージが機能しないとなれば、明日からの文化祭は致命的な不全に陥る。
軽音部、ダンス部、演劇部——放課後を削って、練習を重ねてきた生徒たちの発表の場が失われるのだ。
「ごめんなさい……みんな、本当にごめんなさい……。私……私が頼りないばかりに……っ」
再び溢れ出しそうになる菜奈さんの涙。
彩花はそんな姉の身体を強く抱きしめ、背中を優しく擦り続けていた。
「お姉ちゃんは悪くないよ。悪くない……今はもう無理しないで。ね?」
妹としての愛ゆえの言葉。だがそれは同時に、体育館ステージの『諦め』を意味していた。
その重苦しい沈黙を切り裂くように、パタンと扉が開く音が響いた。
「——何を勝手に終わらせてるんですか」
低く、どこか呆れたような声。
全員の視線が一斉にドアの方角へと向かう。
そこに立っていたのは、雨上がりの濡れた廊下から戻ってきたばかりの俺——翡翠悠だった。
「悠くん……?」
彩花が驚いたように目を丸くする。
菜奈さんも涙に濡れた目を上げ、弱々しく俺を見つめた。
「悠くん……ごめんなさい、私……さっき心配してくれてたのに……もう、どうしようもなくて……」
「別に気にしてないよ」
俺は歩み寄り、ポケットから1枚のメモ用紙を取り出して、菜奈さんの目の前にあるデスクの上にトン、と置いた。
「これ……何?」
霧島先輩が覗き込み、そこに書かれた文字を読み上げる。
「『株式会社アーツ・アンプリファイ』……連絡先……概算見積もり……? これって、イベント専門の音響・照明会社……!?」
「なっ……!?」
生徒会室に衝撃が走った。
「翡翠くん! これどういうこと!?」
霧島先輩が身を乗り出して俺の肩を掴む。
「……桜庭先生のおかげですよ」
「桜庭先生……!?」
「ええ」
俺は頷き、ことの経緯を語り始めた。
「駄目元でこの音響トラブルの話をしてみたら……先生、同人イベントの設営やアニソンライブで個人的に付き合いのある、プロの音響会社の社長さんにその場で電話を繋いでくれたんですよ」
『——おいおい翡翠、我が校の文化祭のピンチならオタクネットワークをフル活用するしかないだろ! 私のコネを舐めるなよ!』
電話の向こうでテンション高く豪快に笑っていた、オタク教師・桜庭先生の顔が思い浮かぶ。
「先生の紹介ということで、明日の朝6時半に搬入トラックが到着します。機材は体育館のキャパシティに合わせたフルスペックの音響とLEDライトが数台。プロのオペレーターも2名付きます。学校側の事前承認枠の予算内で収まるよう、正規の割引見積書も夜のうちにメールで送らせるそうです」
「な……ッ!?」
部屋にいた全員が息を呑んだ。
プロの音響会社?
明日の早朝搬入?
オペレーター付きで予算内!?
「う、嘘でしょ……!? さっきまで市内の業者も隣町のホールも、どこも前日手配なんて無理だって突っぱねられたのよ!? なんでそんな、プロの会社が……!」
「桜庭先生のオタク趣味の執念ですね。あの人、サブカル界隈の業者にめちゃくちゃ顔が広いですから。たまたま明日の案件がキャンセルになって浮いたチームがあったみたいで、奇跡的に枠が取れました」
俺が桜庭先生に頼れたのは、未だになおオタクの布教活動が何故か俺にだけ続いており、生徒と教師としてはそこそこ仲が良くなっていた。他愛もないも話の中で先生の交友関係なんかについても聞いたことがあったので、『文化祭の危機なんです! もう桜庭先生しか頼れないんです!』と頼み込んで超特急で動いてもらったわけのだ。その対価として後日、先生の布教活動に付き合う事になったのは仕方の無いことだと割り切るしかない……。
「悠くん……本当……? 本当に、明日のステージ……できるの……?」
菜奈さんが震える声で尋ねてくる。
その瞳には、消えかけていた希望の光が宿り始めていた。
「できますよ。だから、そんなところで泣いてないで立ってください。生徒会長」
「……っ!」
「ただし、条件があります」
俺は菜奈さんを真っ直ぐに見つめ、指を1本立てた。
「今夜はもう何もせず、真っ直ぐ帰って寝ること。明日の朝は、ちゃんと朝食を食べてくること。……そして、これからは一人で抱え込まず、霧島先輩や彩花、俺たちに仕事を振ること。それが守れないなら、俺もこの話は断ります」
「悠くん……」
菜奈さんの目から、今度はまったく違う涙が零れ落ちた。
今度の涙は、焦燥や孤独からくるものではなく、救われた安堵と温かさの涙だった。
「……うんっ! 守る……絶対守る……っ! ありがとう……ありがとう、悠くん……っ!」
菜奈さんは何度も何度も頭を下げた。
仮面が剥がれ落ちたあとの彼女は、完璧な生徒会長ではなく、ただの素直で少し泣き虫な、一人の先輩だった。
「さすが生徒会補佐……翡翠くん! すごすぎるわ!」
「助かった……! 軽音部にもダンス部にも首がつながったぞ!」
「会長! 明日の設営、俺たちも早朝から手伝います!」
生徒会室が一転して歓喜と活気に包まれる。
さっきまでの絶望的な雰囲気が嘘のように、実行委員たちが笑顔を取り戻していく。
そんな中、俺はそっと一歩身を引いて壁際にもたれる。
(ふぅ……これでなんとか、平穏な文化祭本番を迎えられそうだな)
これで俺の役目は終わりだ。あとは陰キャラらしく、陰でひっそりと過ごすだけ——そう思った、その時だった。
「——悠くん」
袖口をギュッと引っ張られた。
振り返ると、そこには目を真っ赤にした彩花が立っていた。
制服の肩は濡れたままで、まだ少し呼吸も乱れている。
「彩花? どうした——」
「……カッコ良すぎるよ、バカ」
「え?」
彩花は俯いたまま、小さく呟いた。
そして急に顔を上げると、潤んだ瞳で俺をジッと見つめてきた。その頬は、夕焼けのように赤く染まっている。
「お姉ちゃんのピンチを救ってくれて……みんなを助けてくれて……。やっぱり悠くんは、私の……ううん、みんなのヒーローなんだね」
「……大げさだろ。ただの運と、桜庭先生のオタクのコネだ」
「運なんかじゃないよ! 悠くんがお姉ちゃんのこと見ててくれたから、諦めないで先生に相談して動いてくれたんでしょ?」
彩花はギュッと俺の袖を握りしめたまま、上目遣いに俺を捉える。
「……お姉ちゃんを助けた悠くん、めちゃくちゃカッコよかった」
「……っ」
「でも……ちょっとだけ嫉妬しちゃったな。お姉ちゃんのためにあんなに一生懸命になっちゃうんだもん」
「おい、変な誤解をするな。俺は平穏な生活を守りたかっただけで——」
「ふふ、分かってるよ。でもね」
彩花は背伸びをすると、俺の耳元に顔を近づけ、周囲には聞こえないような小さな囁き声を残した。
「明日の後半シフトのデート……絶対に覚悟しておいてね? 今日の分まで、私を夢中にさせてくれないと許さないんだから」
吐息が耳に当たり、ゾクッと背筋が泡立つ。
彩花はいたずらっぽく小悪魔的な笑みを浮かべると、パッと手を放して姉の元へと駆け寄っていった。
(……おいおい)
冷めかけていた顔が一気に熱くなるのを感じ、俺は手で顔を覆った。
完璧な生徒会長の抱えていた闇を払い、ついに迎える文化祭本番。
トラブルは解決したはずなのに、なぜか明日からの本番の方が、俺の「平穏な日常」にとって最大の危機になるような気がしてならなかった。
雨は完全に上がり、窓の外には雲の隙間から綺麗な月光が差し込んでいた。
本日は3話投稿です!!
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