予期せぬ綻び
文化祭開幕を明日に控えた木曜日。
校内はどこを見渡しても熱気に満ち溢れていた。廊下には出来立ての看板や装飾が並び、各教室からは劇の稽古をする声や、演奏の練習をする音がひっきりなしに響いてくる。
俺達のクラスも『クラシックカフェ』も、ダンボールと木目調のシートを使った装飾がほぼ完成し、あとは当日の仕込みを待つばかりという段階まで漕ぎ着けていた。
「悠くん、放課後の生徒会室の手伝い、今日も行くの?」
終礼が終わった直後、彩花が鞄を抱えて俺の席へとやってきた。少しだけ眉を下げ、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「あぁ。昨日も結構な量の書類があったし、開幕前日の明日が一番山場だろうからな。今日も少し手伝ってくるよ」
「そっか……。お姉ちゃん、ちゃんと悠くんのこと酷使してない? 無理させられてたらすぐに私に言ってね?」
「大丈夫だ。基本は書類の仕分けと内容の照合だし、むしろ力仕事より性にあってる」
「ならいいけど……」
彩花はまだ少し納得いかない様子だったが、ふと表情を和らげると、そっと身を乗り出して小声で囁いた。
「明日が終われば、いよいよ文化祭本番だね。2日目の午後のシフト……楽しみにしてるから」
「……あぁ。俺も、裏方の仕事が落ち着いたら連絡する」
「うん! 約束だよ!」
パッと花が咲いたような笑顔を見せ、彩花は手を振りながら教室を後にした。
その可愛らしさに胸の奥がくすぐったくなるのを感じつつ、俺もカバンを手に取り、生徒会室へと向かったのだった。
——だが。
生徒会室の扉の前に到着した瞬間、俺は足を止めた。
重厚な木製のドア越しにもはっきりと伝わってくる、尋常ではない緊迫感。
(……何だ?)
いつもなら菜奈さんの情けない悲鳴や、霧島先輩の呆れた溜め息が聞こえてくるはずの室内が、不気味なほど静まり返っていた。
意を決してドアノックし、ゆっくりと開ける。
「……失礼します」
室内に足を踏み入れた瞬間、刺さるような冷気が肌を撫でた。
部屋の中央では、副会長の霧島先輩が青ざめた顔で電話の受話器を握りしめていた。その隣には、各学年の実行委員長たちの姿もある。
そして、デスクの奥。
菜奈さんが、背筋をピンと伸ばした状態で静かに座っていた。
いつもの戯けた様子は一切ない。全校生徒の前に立つ時の、あの隙のない『完璧な生徒会長』の顔だ。だが、その顔色は土気色に近く、唇からは完全に血色が失われていた。
「……どうしたんですか?」
あまりの雰囲気に、俺が尋ねると、霧島先輩が受話器を置き、震える声で言葉を漏らした。
「翡翠くん……大変なことになったわ」
「大変なこと……ですか?」
「明日、届くはずだった体育館の大型音響機材とステージ照明の搬入業者が……手配できていなかったの」
「……は?」
俺は思わず耳を疑った。
体育館のステージといえば、有志団体のバンド演奏やダンス部、演劇部の発表が行われる文化祭の『メインステージ』だ。そこに音響も照明もないとなれば、イベントそのものが成り立たない。
「どういうことですか? 業者への発注は一ヶ月以上前に完了していたはずじゃ……」
「それが……」
霧島先輩が言葉を詰まらせると、デスクの奥から菜奈さんが静かに口を開いた。
「私のミスよ」
低く、揺らぎのない声だった。
「先月、業者から送られてきていた『最終確認書』の返送が、私のところで止まっていたの。仮予約のまま期限が切れて……別の学校のイベントに枠が回されてしまったみたいなの」
「菜奈さん……」
「大丈夫よ、霧島さん」
菜奈さんはゆっくりと立ち上がると、青ざめた顔に完璧な『生徒会長の笑顔』を貼り付けた。
「今から別のレンタル業者を当たってみるわ。他校の生徒会ネットワークや、近隣の市民ホールにも片っ端から電話をかける。今日中に代替機材とオペレーターを確保できれば、明日の前日準備には間に合うはずよ」
「で、ですが、今からそんな大型機材の手配なんて……!」
「できるわ。……いいえ、やってみせるわ。生徒会長として、みんなの舞台を無しにするわけにはいかないもの」
凛とした声で宣言する菜奈さん。
周囲の実行委員たちからは「さすが生徒会長……!」「頼みます、会長!」と安堵と信頼の声が上がる。
完璧な対応。完璧な責任感。全校生徒が憧れるカリスマ生徒会長の姿そのものだった。
……だが。
俺の目には、その立ち姿がまるで、強風に晒されて今にも折れそうな「薄い氷」のように見えて仕方がなかった。
デスクの上に置かれた菜奈さんの手帳。
そこに書かれた膨大なタスクの山と、何度も上書きされたスケジュール。
彼女は自分のミスを責める時間すら自分に許さず、ただでさえ限界を超えているその身体に、さらに巨大な負荷を覆いかぶせようとしていた。
(……限界だろ、こんなの)
先日の違和感が、確信へと変わっていく。
彼女の抱えていた疲労とプレッシャーの歪みが、ついに『ミス』という形で表面化し始めたのだ。
そして、このトラブルが——柏村菜奈という存在を決定的に追い詰める引き金となることを、俺は嫌な予感と共に予感していた。




