生徒会長の思い
「……本日の下校時刻となりました。校内に残っている生徒の皆さんは、速やかに下校の準備を行ってください。繰り返します——」
校内スピーカーから流れる、どこかフィルターのかかった無機質なアナウンスが放課後の終わりを告げる。
その音声を合図にしたかのように、張り詰めていた生徒会室の空気がわずかに緩んだ。
「ふいーっ! 今日のノルマ、なんとか達成〜〜〜っ!」
菜奈さんは持っていたペンをデスクに置くと、両手を天井に向けて目一杯伸ばし、深く背伸びをした。
そのまま限界まで脱力するように、椅子の背もたれへと体重を預ける。先ほどまでの「全校生徒の頂点に立つ生徒会長」としての鋭い眼差しは雲散霧消し、そこにはただの疲れた女子高生が転がっていた。
「お疲れ様、菜奈。それから翡翠くんも、初日からこんな時間まで残ってもらって本当に助かったわ。あなたが手伝いに来てくれなかったら、確実に終電まで残業コースだったもの」
副会長の霧島先輩が、疲弊の滲む顔に少しだけ安堵の笑みを浮かべて俺に感謝の言葉をかけてくれた。
「いえ、俺は指定された書類を仕分けして、フォーマットの不備をチェックしていただけですから。大したことはしていませんよ」
「それが一番助かるのよ。来賓の対応リストや各団体の機材申請なんて、ミスが一つでもあると当日の進行全体に響くからね。地味だけど一番神経を使う作業なの。それをこの短時間でノーミスで終わらせてくれるんだから、本当に大助かりよ」
霧島先輩は手際よく自分の荷物を鞄にまとめると、立ち上がって菜奈さんに向き直った。
「それじゃあ菜奈、私は職員室に今日の進行状況の報告書を提出して、そのまま生徒会費の決裁書類を先生方に渡して帰るわね。最後の戸締まりと鍵の返却、よろしく頼むわ」
「は〜い! 今日も一日ありがとう〜! 気をつけて帰ってね〜!」
ひらひらと手を振る菜奈さんに見送られ、霧島先輩が静かにドアを閉めて去っていく。
ガチャリとドアが閉まる音が響き、生徒会室には俺と菜奈さんの二人だけが残された。
急に静まり返る室内。
夕闇が静かに窓から差し込み、オレンジ色から群青色へと移り変わる空の光が、デスクの上に山積みにされた書類たちを薄暗く照らしている。
俺は自分のカバンに筆記用具をしまいながら、ふと菜奈さんの方へ視線を向けた。
菜奈さんは肘をつき、顎を手に乗せたまま、窓の外をじっと見つめていた。
静まり返った校舎、遠くからかすかに聞こえる運動部の残りの声、そして準備を終えて下校していく生徒たちの賑やかな話し声。
「……ねえ、悠くん」
「はい?」
ぽつりと、静かな声が降ってきた。
「やっぱり、文化祭っていいよね」
いつもの戯けたトーンでも、大げさな表現でもない。どこか小さく、けれど温かい響きを含んだ言葉だった。
「普段は話さないクラスメイトと一緒になって何かを作ったり、喧嘩しながらも一つの目標に向かって頑張ったり……。他校の人や地域の人たちがたくさん遊びに来てくれて、みんなが笑顔になってくれる。準備はすっごく大変で、頭がパンクしそうになるくらい忙しいけど……でも、みんなの楽しそうな顔が見られるなら、なんだって頑張れちゃうんだよね」
窓の外、まだポツポツと明かりが点いている各教室を見つめる菜奈さんの横顔。
そこに浮かんでいたのは、俺の前で見せるポンコツな素顔でもなければ、全校生徒の前で装う完璧な生徒会長の仮面でもなかった。
純粋にこの学校が好きで、そこに通う生徒たちの思い出を守りたいと願う、一人の先輩としてのまっすぐな情熱だった。
(……ああ、そうか)
俺は、胸の奥でストンと腑に落ちる感覚を覚えていた。
なぜ彼女が、ここまで自分の身を削ってまで仕事を抱え込むのか。
なぜ「生徒会長」という重圧に耐えながら、笑顔を絶やさないでいられるのか。
それは単なるプライドや見栄のためじゃない。
「みんなに最高の文化祭を楽しんでほしい」という、愚直すぎるほどの熱意と愛情があるからなのだ。
自分が苦労を引き受ければ、その分だけ周りの生徒たちが準備や楽しむことに集中できる。そんな不器用な優しさが、彼女を突き動かしているのだと理解した。
だが——同時に、その熱意の大きさに胸が痛むのも事実だった。
「……菜奈さん」
「ん? なぁに?」
菜奈さんがふり返り、少し首をかしげて俺を見つめてくる。
「あまり、一人で背負い込みすぎないように」
「……え?」
「俺はただの一般生徒だし、大した力にはなれないけど……雑用とか、書類のチェックくらいならいくらでも手伝えるから。頼れるものがあるなら、ちゃんと周りを頼ってほしい」
陰キャの俺が言うべき言葉ではなかったかもしれない。他人に深入りせず、目立たず波風を立てずに生きるのが俺の信条だったはずだ。けれど、この一生懸命すぎる菜奈さんが潰れてしまう姿なんて、どうしても見たくはなかった。
柄にもなくそんな言葉を口にしてしまい、少し後悔しながら視線を逸らす。
……すると。
「……ふふっ」
静かな静寂を破って、菜奈さんが小さく吹き出す声が聞こえた。
顔を戻すと、そこには目を丸くした後に、まるで宝物でも見つけたかのように嬉しそうに目元を緩める菜奈さんの姿があった。
「ありがと、悠くん……! うう、やっぱり悠くんは私の自慢の弟だよ〜! そんなこと言われたら、お姉ちゃん感激で泣いちゃう!」
「ちょっと、抱きつかないで!」
「ふふん! よーし、悠くんがそこまで言ってくれるなら、明日からは遠慮なくもっともっと頼っちゃおっと! 覚悟しておいてね!」
「……限度は考えてくれよ、本当に」
いつもの調子に戻り、いたずらっぽく笑う菜奈さん。
その笑顔を見て、俺の胸の奥にあったモヤモヤとした懸念は、少しだけ晴れた気がしていた。
これだけの強い熱意があって、周りのこともちゃんと見えている。
限界が近そうに見えたのも、ただ連日の準備で一時的に疲れていただけで、彼女ならきっと最後までやり遂げられるはずだ——そう自分に言い聞かせて。
だが、俺たちは甘く見ていたのだ。
文化祭という巨大なイベントが放つ熱量と、その裏で誰にも気づかれずに静かに蓄積していく「歪み」の恐ろしさを。
翌日。
文化祭開幕まであと2日と迫ったその日、生徒会室に一つの『重大なトラブル』が舞い込むことになるのだった。




