第5話 井戸にスライムを捨てるな
「ううっ……腹が、割れるように痛い……」
「熱も下がらない。誰か、助けて……」
王都第七区画。細い路地に崩れかけた長屋が密集するこの貧民街は、あちこちから漏れ出る重苦しい呻き声に包まれていた。
通りには腹を押さえてうずくまる住人たちが溢れている。
その惨状を見下ろしながら、豪奢な法衣を着た浄化院の神官が、鼻をハンカチで覆って説教を垂れていた。
「不衛生な生活をしているからです。日頃から神への祈りを怠り、汚れた環境を放置しているから、このような疫病の罰が下るのです。浄化の魔法を望むなら、相応の喜捨を――」
「神様は随分と暇なんだな。昨日の夜から今朝にかけて、ピンポイントでこの区画の住人だけに腹痛の罰を下すなんてよ」
乾いた声が割り込み、青い作業服姿の中年男――黒田慎吾が、リオラとダントを引き連れて路地の奥から現れた。
「なっ、貴様は昨日の失敗作……! 疫病の蔓延る不浄な地に、何用ですか!」
「ごみの回収だ。どいてな、邪魔だ」
慎吾は神官を軽く手で払いのけると、住人たちが囲んでいた区画の中央にある共同井戸を覗き込んだ。
水面は微かに緑色に濁り、ツンとした化学薬品のような刺激臭が鼻を突く。
『分別眼』は、井戸水に錬金スライム溶液が混じっていると告げていた。飲めば腹痛と発熱を起こす濃度だ。
「井戸にスライムを捨てるなよ、まったく……。飲むと酷い腹痛と熱が出る、正真正銘の毒水だぞ」
「錬金スライムの溶液……魔石を溶かして不純物を取り除くための強酸性薬品ですね。中和せずに捨てれば、深刻な水質汚染を引き起こします」
リオラが真顔で補足した。
「あんたたち、いつから腹が痛くなった?」
慎吾が尋ねると、うずくまっていた老婆が苦しそうに答えた。
「今朝……夜明け前に、この井戸で水を汲んで、朝飯のスープを作ってからだよ……」
「なるほど。なら、捨てられたのは昨日の深夜だ」
慎吾の言葉に、神官が嘲笑うように鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。不衛生な連中が、自分たちの井戸に汚物を落としただけでしょう。いちいち毒だの薬品だのと言いがかりを――」
「じゃあ、あんたこの水飲んでみろよ。神の加護があるなら腹は痛くならないんだろ?」
慎吾が柄杓で井戸水を掬って差し出すと、神官は「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
「井戸は使用禁止だ。リオラさん、病人の中に腐敗症状が出てないか見てくれ。あんたの術で止められるのは進行までだ。治療は治癒術師と薬師を呼ぶ」
「……承知しました」
リオラは病人を一人ずつ診て、魔的な腐敗を起こしかけた者だけに術を施した。エレノアへ使いが走り、治癒術師と飲み水を積んだ荷車が区画へ向かう。
「さて、と」
慎吾は柄杓の水を捨て、井戸の周囲の石畳をじっと観察した。
「ダントさん。出番だ」
「へっ、待ってたぜ。餅は餅屋ってやつだ」
顎髭を撫でながら進み出た元荷運びのダントは、石畳に残された微かな染みと、僅かに削れた地面の跡に目を細めた。
「こりゃあ、ただの水こぼしじゃねえ。この轍の深さを見てみろ。鉄輪をはめた頑丈な荷車に、たっぷりと液体の入った重い樽を積んでた証拠だ」
「どっちから来たか分かるか?」
「馬鹿にするなよ。水路に向かって下る傾斜で、荷が重くてブレーキをかけた跡がここにある。つまり、坂の上から下ってきたんだよ」
ダントが指差した先には、貧民街を見下ろすように建ち並ぶ、商業区画の立派な建物群があった。
慎吾とダントは、石畳に点々と残る緑色の染みと重い轍の跡を辿って坂を上った。
たどり着いたのは、商業区画の裏路地に面した『黄金の坩堝錬金工房』の勝手口だった。
工房の壁の下からは、貧民街へ向かって下る雨水用の排水溝が伸びており、その出口には、井戸と同じ緑色の溶液がドロリとへばりついていた。
慎吾が勝手口の扉を遠慮なく蹴り飛ばすように叩くと、恰幅のいい工房主が顔を出した。
「なんだね、騒々しい! 今は取り込み中だ、用なら表へ回ってくれ!」
「浮浪者じゃねえ、回収業者だ。あんた、昨日の夜、使用済みの錬金スライム溶液を樽ごと下の貧民街に不法投棄したな。おかげで井戸が死んで、病人だらけだぞ」
慎吾の指摘に、工房主は一瞬顔を強張らせたが、すぐに鼻で笑い飛ばした。
「言いがかりだ。うちは浄化院と契約し、高い浄化税も処理料も払っている。回収されるまでは指定の樽で保管していた!」
「適正に廃棄してるなら、なんであんたの工房の排水溝から、毒水が垂れ流しになってるんだ?」
「そ、それは……ただの掃除の水だ! 言いがかりをつけるなら、衛兵を呼ぶぞ!」
工房主が扉を閉めようとした瞬間、追いついてきたリオラが無言で排水溝に手をかざした。
銀色の魔力が排水溝にこびりついた有機物の腐敗だけを止めた。ダントと追いついた兵士たちが、土嚢と木栓で流路そのものを塞ぐ。
「なっ、何をする! 排水が詰まるだろうが!」
「水源への流入を止めただけです。やましいことがないなら、問題ないはずですが」
リオラの冷ややかな声に、工房主は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「証拠を出せ! 回収が十日も来ず、保管庫が満杯だったのは事実だ。だが、うちが井戸まで汚したと決めつけるな!」
「証拠ねえ……。まあ、現行犯じゃないから、言い逃れできると思ってるんだろうが」
慎吾は作業服のポケットに手をつっこみ、一枚の札を取り出した。
それは、異世界で初めて使用する彼の能力の一つ。魔法の光を帯びた、名刺サイズの小さな『搬送票』だった。
「俺の前世じゃ、ごみの出所と移動経路を記録するのは、基本中の基本でね」
慎吾は排水溝の周囲にへばりついていた緑色の溶液に、ペタリと搬送票を貼り付けた。
瞬間、票の表面に文字が浮かび上がる。
『付与日時:現在』
『付与時点の管理者:黄金の坩堝錬金工房』
『内容:低純度錬金スライム溶液』
「これは俺が付けた時点からの記録を残す札だ。あんたが過去に捨てたこと自体は、これ単独じゃ証明できない」
「はっ! なんだ、やっぱり証拠にならんではないか!」
「慌てるなよ。この札は、あくまでパズルの『最後のピース』だ」
慎吾の目が、現場のプロとしての鋭い光を帯びる。
「現場の現物、車輪の跡、そしてこの札が証明する溶液の成分と出所。あとはあんたの工房の『在庫記録』と照らし合わせれば、捨てた側には、きっちり片づけ代を払ってもらえるってわけだ」




