第4話 死臭の魔女は、誰より命を守っていた
「うわああああっ! 魚が、魚が死んでる!」
王都第十二区画。農業用水路の土手に集まった住民たちが、悲鳴のような声を上げていた。
水面に無数の魚が腹を見せて浮いている。普段は透き通っているはずの用水路の水は、赤黒く濁り、どぶ川のような強烈な悪臭を放っていた。
鼻を刺す腐臭の奥に、火竜の血に特有の金属臭があった。『分別眼』にも、瘴液と生骸が混ざった高危険度の汚染として映っている。
「くそっ、やっぱりあの広場から地下水路を伝って流れ込んでやがったか……!」
慎吾は作業手袋をはめた手で舌打ちをした。火竜の血液という高濃度の魔力と腐敗因子を含んだ液体が、生活圏の水に混ざり込んでしまったのだ。
「水路の元栓は閉めた! だが、すでに流れ込んだ分はどうしようもねえ!」
同行した守備隊の兵士が叫ぶ。
「これ以上下流へ流すな! 土嚢を積んでせき止めろ!」
慎吾が指示を飛ばすが、住民たちはパニックに陥り、右往左往するばかりだ。
「やめろ、水に触るな! そいつはただの汚れじゃない、毒だ!」
その時、小さな水しぶきを上げて、一人の少年が水路へ足を踏み入れた。
「ポチ! ポチ、どこにいるの!?」
飼い犬の姿を探して飛び込んでしまったのだ。
「馬鹿野郎、上がれ!」
慎吾が叫んだ瞬間、少年の足元で濁った水がドクリと脈打った。
ただの汚染水ではない。残留魔力が集まり、スライム状の『腐魔化』を始めている。ゼリーのような粘液が少年の足首に絡みつき、皮膚を赤く爛れさせた。
「痛いっ、ああっ!」
少年が泣き叫び、水路の中に倒れ込む。
「どけ!」
群衆を突き飛ばすように前に出たのは、分厚いコートを着た銀灰色の髪の女性――リオラだった。
彼女は迷わず悪臭の漂う水路へ飛び込み、少年の身体を抱え起こした。
「……ヒッ、『死臭の魔女』だ……!」
「触るな! 呪われるぞ!」
住民たちが悲鳴を上げて後退する。彼女の服に染み付いた薬品と現場の匂いを、死の呪いだと信じ込んでいるのだ。
リオラは住民の罵声など耳に入っていないかのように、ただ真顔で少年の足首を見つめた。
腐敗因子が、傷口から血管を通って少年の体内へ侵入しようとしている。
「……進行が早すぎる。間に合え」
リオラは自分の両手を少年の傷口に押し当てた。
「『腐敗封じ』!」
銀色の光が、リオラの手から少年の足へと流れ込む。
彼女の額に大粒の汗が浮かんだ。死骸の腐敗を止めるのとは違う。生きた人間の体内で進行する魔的な腐敗だけを選択して止めるのは、彼女自身の魔力と精神を激しく消耗させる行為だった。
「痛い、痛いよぉ……!」
「動かないで。すぐに痛くなくなる」
リオラは感情の起伏を見せず、ただ淡々と、しかし全霊を込めて魔力を注ぎ続けた。
やがて、少年の足首に絡みついていた粘液がボロボロと崩れ落ち、赤黒く変色しかけていた皮膚の進行がピタリと止まった。
「よくやった、リオラさん。治癒術師が来るまで、その進行だけ止めてくれ」
慎吾は少年を兵士へ渡すと、水路の上流と下流を見比べた。
「元栓は閉じたまま。土嚢を二重に積め。汚れた水は樽へ汲み上げて、血の沈んだ泥と砂利は全部さらう。俺が圧縮するのは、その固形物だけだ」
水に溶けた毒だけを都合よく抜き取ることはできない。住民と兵士が桶を回し、ダントが満載の樽を安全な仮置き場へ運ぶ。慎吾は赤黒く染まった泥と死魚をまとめ、区分ごとに圧縮して隔離した。
日が傾くころ、空になった水路を上流の清水で三度洗った。リオラと治癒術師が採水を調べ、腐敗反応が出ないことを確かめてから、ようやく元栓が開かれた。
「ほら、立てるか」
慎吾が手を差し伸べ、リオラが抱えていた少年を土手へ引き上げる。少年の足は赤く腫れているが、命に別状はない。
駆け寄ってきた母親が少年を抱きしめ、ワッと泣き崩れた。
「あ、ああ……よかった。ありがとうございます……」
母親は慎吾に頭を下げた後、リオラの方を見てビクッと身をすくませた。
「あ、あの……魔女様も……」
感謝の言葉にすら恐怖が混じっている。周囲の住民たちも、リオラから距離を取るように遠巻きに見ていた。
リオラは無表情のまま、ずぶ濡れになったコートの裾を絞った。
「……処置は終わりました。私はこれで」
彼女が立ち去ろうとした背中に、慎吾のよく響く声が飛んだ。
「おい、勘違いするなよ、あんたたち」
慎吾は住民たちをぐるりと見渡した。
「この人の服に臭いがついてるのは、呪いじゃない。あんたたちが近づけない現場に、毎日立ってるからだ」
住民たちがざわめく。
「俺はごみをまとめただけだ。あんたの坊主の命を救ったのは、俺じゃない。この『死臭の魔女』って呼ばれてる専門家だ。彼女の技術がなけりゃ、今頃その子の足は腐り落ちてたぞ」
慎吾は真っ直ぐにリオラを指差した。
「坊主の体内で腐敗が広がるのを止めたのは彼女だ。あとは治癒術師が治す。誰より先に毒水へ入った人間へ、石を投げるような真似はするな」
周囲は静まり返った。
少年の母親が、ハッとしてリオラに向き直り、今度は震えのない声で深く頭を下げた。
「本当に……本当に、ありがとうございました!」
他の住民たちからも、パラパラと、だが確かな感謝の言葉が口々に漏れ始めた。
リオラは目を丸くして、住民たちと、飄々と立つ慎吾を交互に見つめた。
今まで、どれだけ王都のために腐敗を止めても、返ってくるのは蔑視と恐怖だけだった。彼女の仕事を、専門技術として正当に評価し、公の場で庇ってくれた人間などいなかった。
「……黒田、慎吾」
リオラは初めて、彼のフルネームを口にした。
「なんだ?」
「……私の作業着は、そんなに臭いですか」
少しだけ口を尖らせたようなその問いに、慎吾はニヤリと笑った。
「正直、かなり染みついてる。帰ったら上着は別に洗った方がいいな」
リオラは一瞬だけ目を丸くし、それから濡れた髪をかき上げた。慰めではなく、同じ現場に立つ者の率直な答えだった。
「おい、あんちゃん!」
そこへ、息を切らしたダントが駆けつけてきた。
「水路は片づいたみたいだが、こっちもヤバいぞ。第七区画の貧民街の『井戸』から、同じような異臭がするって騒ぎになってる!」
「なんだと?」
慎吾の顔から笑みが消えた。
火竜の血が流れ込んだのは第十二区画の水路だけのはずだ。離れた第七区画の地下井戸にまで影響が出るとは考えにくい。
「……別のごみが、捨てられてるってことか」
慎吾は作業手袋をはめ直し、ダントとリオラへ頷き返した。




