第31話 王都を守った男の間違い
グレゴール・ハイゼンが浄化院の院長に就任したのは、今から二十年前のことだった。
当時の王都は、前例のない規模の『瘴気疫病』に見舞われていた。原因は、人口の急増に廃棄物処理施設が追いつかず、市街地に放置されたごみと死骸が重度の腐魔化を起こしたことだった。
毎日、何百人もの市民が黒い斑点を浮かべて死んでいった。
若き日のグレゴールは、王都を救うために必死に策を練った。だが、処理施設を新設する時間も、完全消滅魔法を開発する時間もなかった。
そこで彼が目をつけたのが、古代文明の遺物である『転送廃棄門』だった。
王都から遠く離れた、魔物被害で無人とされていた辺境の谷――灰谷。そこへ王都の汚染物をすべて転送し、隔離する。それ以外に、八十万人の王都市民を救う道はなかった。
結果として、王都は救われた。街からごみと悪臭が消え、疫病は劇的に終息した。
グレゴールは英雄として称賛された。
だが数年後、転送先の灰谷に、行き場を失った流民や獣人たちが住み着いていることが判明した。
転送を止めるべきか、彼は悩んだ。しかし、転送を止めれば再び王都に瘴気が溢れ、八十万人の命が危険に晒される。
『大局を見よ。数千の流民のために、八十万の市民を見捨てることはできない』
彼はそう自分に言い聞かせ、転送を続けた。
最初は緊急措置だった。しかし、臭い物に蓋をするだけの制度は、次第に利権を生み出した。灰谷の汚染で発生した二次魔獣を冒険者に討伐させ、魔石を回収して利益を得る。辺境復興という名目で国から予算を引き出す。
彼は自分を悪人だとは思っていなかった。王都の清潔さと繁栄は、自分が手を汚して維持しているのだという、強烈な自負があった。
王宮の地下深く。近衛騎士に両腕を拘束されたグレゴールは、転送廃棄門の中央制御室へ入った。
巨大な水晶盤には容量警告が並び、床の下から絶え間ない振動が伝わってくる。ルチアが槍を構えたまま側につき、慎吾とリオラも制御盤の前へ進んだ。
「……素晴らしい追跡です。しかし、あなた方は物事の本質を理解していない」
グレゴールは慎吾に向き直った。
「黒田慎吾。あなたは灰谷の惨状を見て、私をただの私利私欲にまみれた悪党だと断じましたね。だが、考えてもみなさい。もし私が二十年前に灰谷への転送を決断しなければ、この王都は今頃、死の街になっていたのですよ」
慎吾はすぐには答えられなかった。
「私は王都八十万人の命と生活を守るため、現実的な決断を下したまでです。あなたならどうしましたか? 処理する術もない大量の猛毒の廃棄物を前にして、灰谷の数千人のために、王都の八十万人を見殺しにしましたか?」
それは、現場に選択肢がなかった夜を生きた者の問いだった。
「その最初の夜だけなら」
慎吾はゆっくり口を開いた。
「俺も同じことをしたかもしれない。目の前で人が死んで、設備も時間もないなら、無人だと信じた場所へ一時的に移す。まず今日の命を取る」
グレゴールの目がわずかに揺れた。
「だが、あんたは翌日も、その次の年も非常時のままにした。住民がいると知っても止めず、新しい処理施設も期限も監査も作らなかった。しかも、その仕組みで金まで回した。間違いは最初の避難じゃない。後始末をしなかったことだ」
「なに?」
慎吾は懐から、一冊の分厚い野帳を取り出した。それは、彼が王都で回収作業を始めてから、独自につけ続けていた現場の記録だった。
「俺が王都で回収した魔物の死骸や二次魔獣の成分記録だ。いいか、よーく見ろ」
慎吾は野帳のページをめくり、一つのデータをグレゴールに突きつけた。
「王都の近くで倒した二次魔獣の体内から、王立第一病院だけが使う封印布の繊維と、灰谷の医療廃棄物と同じ魔力痕が出た。リオラさんと王宮魔術院にも確かめてもらった」
グレゴールの瞳孔が、微かに収縮した。
「灰谷へ押しつけた汚染物は魔獣と混ざり、王都の近くまで戻ってきてる。見えない場所へ移したツケが、姿を変えて返ってきただけだ」
「ごみを移しただけで、処理したことにするな。あんたは王都を救った夜のあとを、二十年も片づけなかった」
その言葉が、グレゴールの自負心を根底から揺るがした。
彼の顔から余裕が消え、水晶の制御盤へと視線を落とす。
そこには、彼が長年無視し続けてきた《中央集積槽:容量超過警告》の赤い文字が、激しく点滅していた。
「……」
グレゴールは震える手で、制御盤に触れた。
グレゴールは警告の列を見つめた。灰谷側の扉は中途半端に閉じ、通常停止では現在の転送圧力を受け止められない。
「灰谷への流出を止め、中央槽を隔離する。そうすれば王都側の補助槽へ圧力を逃がせるはずだ」
「待て。点検記録では逆流弁が劣化してる。先に逃がし先を確認しろ!」
だがグレゴールは、王都を守れる最後の手段だと信じた。拘束された手を制御盤へ当て、最上位のロックコマンドを引き出した。
「『全門封鎖』!」
王宮の地下が激しく揺れ、巨大な歯車が噛み合うような重低音が響き渡る。
それは、王都と灰谷を繋ぐ転送網そのものを、物理的・魔術的に完全に遮断するコマンドだった。
「……これで灰谷への転送は止まる。補助槽が圧力を受ければ、王都側も守れる」
彼は王都を攻撃しようとしたのではない。最後まで、自分の知る隔離という方法で救おうとした。
直後、制御盤の圧力計が赤い範囲へ跳ね上がった。
「中央槽には数か月分が残っています。枝管には古い残渣、逆流弁は未交換です」
リオラの報告に、慎吾の顔から血の気が引いた。
「出口だけ閉じたら、圧力は一番弱い弁へ逃げる」
王都の地下深くで、金属が軋む音が連なった。




