第28話 帰れる男と、残される女
証拠の詰まった木箱と灰谷の代表者を伴い、王都の隠れ宿へと到着した慎吾たち。だが、彼らに息をつく暇は与えられなかった。
宿に落ち着いた直後、エレノアからの密命を帯びた騎士が血相を変えて駆け込んできたのだ。
「緊急の通達です! 明後日に予定されていた公開査問会が、明日の朝に前倒しされました!」
「なんだと?」
慎吾は作業手袋を外す手を止め、鋭く目を細めた。猶予は今夜一晩しかない。
騎士の報告はさらに絶望的な事実を告げた。
「グレゴール院長側が、査問会を早めるよう法務官たちに圧力をかけたのです。さらに浄化院は、我々が押収した裏帳簿について『灰谷の未知の感染病が付着している恐れがある。公衆衛生のため、感染物として明朝までに即時焼却廃棄すべきだ』と申し立てを行いました!」
「馬鹿な! そんな露骨な証拠隠滅が通るのか!」
ルチアが白銀の槍を握りしめて激昂する。
「さらに厄介な問題が起きてるぜ、あんちゃん……」
奥の部屋から、ダントが渋い顔で顔を出した。
「灰谷から連れてきた証人の一人が、証言を撤回したいと言い出してる。どうやら王都に入った直後、浄化院の息がかかった何者かから『もし査問会で口を開けば、王都に住むお前の親族の仕事と住居を奪う』と個別に脅しを受けたらしい」
浄化院の権限を使えば、平民の仕事や住む場所を奪うことなど造作もない。恐怖に駆られた証人は、部屋の隅で頭を抱えて震え上がっていた。
「くそっ、ふざけた真似を……! 私が今すぐ浄化院へ乗り込み、あのクソ院長の喉元に槍を突きつけてやろうか!」
「落ち着け、ルチア!」
怒りで部屋を飛び出そうとするルチアを、慎吾の低い声が制した。
「奴らは俺たちが暴れるのを待ってるんだ。暴力で訴えれば、こっちはただのテロリストに仕立て上げられて終わる。奴らの作った『法』という土俵の上で、事実と証拠を使って首を刈るんだ」
慎吾は全員を見渡し、現場指揮官としての冷静な指示を飛ばした。
「明日の朝までに、やらなきゃならない現場作業は四つだ。証拠の複製、証人の保護、搬送票と既存帳簿の照合、そして査問会での役割分担。時間がない、手分けして進めるぞ」
慎吾はまず、リオラに向き直った。
「リオラさん、帳簿が『感染物』として燃やされる前に、重要な転送記録を全部手書きで書き写して複製してくれ!」
「分かりました。一晩で全て写し取ります」
「ルチアとダントさんは、怯えてる証人の護衛と説得を頼む。無理やり口を割らせるんじゃなく、家族の安全はエレノア殿下が保証すると伝えて、じっくり話を聞いてやってくれ」
「承知した」
「おう、酒でも飲ませて落ち着かせてみるさ」
「俺とミカは、隔離積載庫から出した医療廃棄物と搬送票のデータを使って、既存帳簿との照合作業をやる」
指示が出ると同時に、全員が己の持ち場へと散った。
深夜の薄暗い部屋で、慎吾は無数の搬送票と帳簿の数字を睨み続けていた。
「おっさん、ここの数字、なんか変だぞ」
隣で原本の帳簿をめくっていたミカが、赤いチョークではなく細い木札で一箇所を示した。原本に新しい印をつけないためだ。
「ん? ミカ、文字が読めるのか?」
「文字は読めない。でも、記録の『形』なら分かる。ここの行だけ、他のページでインクが擦れた匂いと違う。最近になってから、数字の形を上から無理やり書き直した跡があるんだよ」
リオラが作っている写しでは分からない、原本のインクと紙の差だった。ミカの嗅覚と観察眼が、帳簿改竄の痕跡を捉えた。
「すげえな、ミカ。お前はもう立派な回収班の戦力だ。このページ、明日の査問会で決定的な武器になるぞ」
慎吾が頭を撫でると、ミカは照れくさそうに尻尾を振って笑った。
作業が一段落した深夜。
慎吾は一息入れるため、冷たい夜風が吹き込むバルコニーへと出た。
彼の視界には、あの無機質なシステムウィンドウが赤く点滅して浮かび上がっている。
――《帰還門・開放期限:残り10日》
――《メッセージ送信機能(一通のみ)待機中》
「……さて、と」
慎吾は虚空に向かって文字を念じ、元の世界へ送るたった一通の手紙を書き始めた。
宛先は、十八年間一緒にごみ収集車に乗っていた職場の同僚たちだ。
『急にいなくなって、現場に穴を開けて悪かった。こっちはなんとか元気にやってる。お前たちと汗水垂らして働いて、仕事終わりに定食屋で食った生姜焼きは、俺の人生で一番美味かった。本当に感謝してる。――黒田慎吾』
慎吾は、元の世界での人生を失敗だとも不幸だとも思っていなかった。地味で誰からも蔑まれる仕事だったかもしれない。だが、そこには確かな誇りと、気の置けない仲間との充実した生活があったのだ。元の世界を切り捨てる気など、微塵もない。
「……手紙、ですか」
背後から静かな声がした。
振り返ると、インクで指先を真っ黒に汚したリオラが、二つの温かいお茶の入ったマグカップを持って立っていた。
「ああ。帳簿の複製は終わったのか?」
「ええ。証拠となり得る箇所はすべて押さえました。……それより」
リオラはマグカップを一つ慎吾に手渡し、夜空に浮かぶ虚空を――彼女には見えないはずのウィンドウがある場所を、じっと見つめた。
「あなたの表情で分かります。……元の世界へ、帰れるのですね?」
慎吾は隠すことなく、短く「ああ。残り十日だ」と答えた。
マグカップを持つリオラの指先が、微かに震えた。
彼女の胸の奥には、彼を失うことへの強烈な恐怖が渦巻いていた。彼がいなくなれば、自分はまた一人で、冷たい偏見に満ちた世界に取り残される。自分の仕事を真に理解し、隣で肩を並べて歩んでくれるこの不器用で温かい男の存在が、今の彼女にとってどれほど大きな支えになっているか。
だが、リオラはギュッと唇を噛み締め、その利己的な感情を心の奥底に封じ込めた。
「黒田慎吾。……あなたは、帰るべきです」
「……なんだって?」
「本来、あなたがこの王国の腐敗や、灰谷の悲惨な現状を背負う義務などないのです。あなたはすでに、十分にこの国を救ってくれました。ご自身の世界へ帰り、ご自身の幸せな日常に戻るべきです」
リオラは、王国の問題や自分自身の感情を理由にして、彼をこの異世界に強要して縛り付けたくはなかった。彼には彼の人生がある。だからこそ、あえて突き放すような言葉を口にしたのだ。
しかし、その不器用な思いやりは、慎吾には正しく伝わらなかった。
「……なるほどな」
慎吾は乾いた声で呟き、お茶を一口飲んだ。
「俺はただのごみ屋のおっさんだ。俺の『圧縮』や『隔離』の便利な能力がなくても、明日の査問会で新しい制度さえきっちり作れれば、あとはあんたたちだけでもこの国を綺麗にしていけるってことか」
慎吾は、自分が必要とされているのはあくまでごみ処理の『専門能力』のためだけなのだと誤解した。制度が整えば、自分の役目は終わり。引き止められないのは、自分が現場にもう必要ない人間だからだ、と。
「違います! そういう意味で言ったのでは……!」
リオラが慌てて否定しようと一歩踏み出した、その時だった。
「あんちゃん! まずいことになった!」
バタンと乱暴にドアが開かれ、ダントが血相を変えてバルコニーに飛び込んできた。
「どうした、ダントさん! 証人はどうした!」
「説得を続けてたんだが、俺が少し目を離した隙に、宿の裏窓から姿を消しちまった! 浄化院からの報復を恐れて、自ら逃げ出したんだ!」
その報告に、バルコニーの静かな空気は一瞬で吹き飛んだ。
慎吾とリオラは顔を見合わせた。言いかけた言葉はそこへ残し、二人は同時に仕事へ戻った。
「探しに行くぞ!」
慎吾はマグカップを置き、作業手袋をはめ直した。
「明日の朝の査問会までに、複写した帳簿の証拠と、直接の被害を語る『証人』の両方を揃えないと、俺たちの負けだ」
巨大な権力を相手にした、時間との過酷な戦いが再び幕を開けていた。




