第2話 倒した魔物が、もう一度起きる
ビクリと、分厚い鱗に覆われた火竜の前脚が跳ねた。
本体からはすでに切断され、広場の隅に転がっていたはずの残骸である。
討伐から三日が経過し、生命活動などとうに停止しているはずの肉の塊。それが、まるで目覚めの伸びをするかのように、不気味な痙攣を繰り返していた。
「おい、なんだあれ……動いてるぞ!?」
周囲の兵士たちがざわめき、後ずさりする。
慎吾の視界に浮かぶ『分別眼』の表示が、警告の赤色へと染まった。
――《生骸系・腐魔化進行中:周囲の汚染物質を吸収し、二次生成へ移行》
「離れろ! 生きた魔物じゃない、ただの『腐った肉』だ!」
慎吾が叫んだ直後、前脚の切断面からドロリとした粘液が溢れ出した。
赤黒い血と脂肪が混ざり合い、ブクブクと泡立つ。その粘液の中から、犬ほどの大きさしかない、四つん這いの醜悪な肉の獣が這い出してきた。目も鼻もなく、ただ鋭い牙の並んだ巨大な口だけが、その顔の半分を占めている。
「ヒィッ!?」
先ほど尻餅をついた神官が、情けない悲鳴を上げて逃げ惑う。
「チィッ、私の獲物が迷惑をかけたな!」
突如、広場に鋭い声が響いた。
見れば、真紅の外套を翻した長身の女性が、身の丈ほどもある白銀の槍を構えて飛び込んできたところだった。
彼女は王国最高位の冒険者であり、この火竜を討伐した張本人、《竜殺しの聖槍》ルチア・ヴァレンである。事後確認に来たのか、その顔には自分の獲物が再び動き出したことへの焦りと怒りが浮かんでいた。
「ただの動く死肉だ、私が刻む!」
ルチアが踏み込み、目にも止まらぬ槍の連撃を放つ。
ザシュッ、ザクゥッ!
凄まじい技量だった。小型の腐肉獣は瞬く間に四つの肉片へと切り刻まれ、石畳の上にボトボトと落ちる。
兵士たちから「おおっ」と歓声が上がった。
「ストップ!! 切り刻むな、馬鹿野郎!!」
だが、慎吾は称賛するどころか血相を変えて怒鳴りつけた。
「は……? 何を言って」
ルチアが怪訝な顔で振り返りかけた、その時である。
地面に落ちた四つの肉片が、周囲の石畳にへばりついていた火竜の汚血をスポンジのように吸い上げ、急速に膨張を始めたのだ。
四つの肉片は、数秒で先ほどと同じ大きさの四匹の腐肉獣へと再生した。
「なっ……増えた、だと!?」
ルチアが驚愕に目を見開く。
「中身がパンパンに入った生ごみ袋を、刃物で切り裂いたらどうなるか考えろ! 中身が撒き散らかされて、余計に汚染が広がるだけだろうが!」
慎吾は作業手袋をはめ直しながら、厳しい声で指摘した。
魔物の死骸が腐敗と残留魔力によって変質する『腐魔化』現象。それは単なる生物ではなく、汚染物質の塊が自律して動いているようなものだ。物理的に切り刻めば、それは『死』ではなく『分散』を意味する。
「くっ……すまない、私の浅慮だ。どうすればいい!?」
ルチアは自分の行動が逆効果だったという事実を素直に受け入れ、すぐさま槍を引き戻して指示を求めた。力任せの脳筋ではない。一流の現場作業員に通じる、状況への順応力があった。
「あんたの腕なら、肉を散らさずにピンポイントで中身を突けるか? そいつらの胸のあたりに、魔力が固まった『核』があるはずだ」
「造作もない」
「よし。リオラさん!」
慎吾は後ろを振り返った。
「動くごみ袋の口を縛ってくれ。散らばる前に腐敗を止めて、再生を封じるんだ!」
「……ええ、わかりました」
リオラは真顔で頷くと、一歩前へ出た。
彼女の両手から放たれた銀色の光が、四匹の腐肉獣を包み込む。
「ギィィ……ッ!?」
腐肉獣たちの動きが、泥沼に足を踏み入れたように極端に鈍くなった。肉体を構成する腐敗進行そのものが、魔術によって強制停止させられたのだ。
「今だ、ルチア!」
「ハァッ!!」
ルチアの白銀の槍が、銀の光に囚われた四匹の胸元を正確に貫く。肉を裂くのではなく、内部の核だけを正確に粉砕する、一点集中の一撃。
ピクリ、と腐肉獣たちの動きが完全に停止した。
『収集指定、隔離積載庫へ』
すかさず慎吾が手をかざす。機能を停止した肉の塊たちが、次々と空間の歪みへ吸い込まれて消えていった。
広場に、再び静寂が戻った。
神官たちは、ただ口をあんぐりと開けてその光景を見つめていた。
もし、先ほどルチアがいなかったら。もし、自分たちの浄化の炎で中途半端に燃やしていたら。熱で上昇気流に乗り、細かな肉片や毒性の霧となって王都中に降り注いでいたかもしれない。
それを防いだのは、神聖な魔法でも圧倒的な武力でもない。
危険物の性質を見抜く目と、正確な破壊、そして彼女――自分たちが「死臭の魔女」と蔑んでいたリオラの『腐敗封じ』だった。
神官たちは顔を見合わせ、気まずそうに目を逸らした。リオラの技術なしでは、自分たちは現場の処理すらできなかったと痛感させられたのだ。
「ふう、見事な連携だったな。あんた、口は悪いが指示は的確だ」
ルチアが槍を収め、慎吾に歩み寄ってくる。
「そりゃどうも。こっちは毎日ごみと向き合ってきたんでね。……さて、これで飛び散る心配はなくなった」
慎吾は本陣とも言える火竜の巨体へ向き直った。
ガス抜きは済んでいるが、この巨大な腐肉の山をいつまでも広場に置いておくわけにはいかない。
「『超圧縮』」
慎吾が能力を発動すると、全長二十メートルあった火竜の死骸が、ミシミシと嫌な音を立てて内側へ潰れ始めた。数秒後、広場に残されたのは、元の体積の二十分の一――大きな荷馬車一台分程度にまで圧縮された、赤銅色の肉と骨の高密度な塊だった。
「おおっ、魔法のように小さくなったぞ!」
「これなら俺たちでも運べる!」
兵士たちが歓声を上げ、圧縮された火竜の塊を荷車へ載せようと群がる。彼らは慎吾の能力を、重量まで消し去る魔法の類だと勘違いしていた。
「おい、やめとけ。普通の荷車じゃ無理――」
慎吾の制止より早く、屈強な兵士十人掛かりで塊を丸太のテコで浮かせ、荷車の荷台へと滑り込ませた。
メキドガァァァンッ!!
凄まじい破砕音。
載せた瞬間、頑丈なはずの軍用荷車の車軸が真っ二つに折れ、車輪が四散し、荷台が石畳にめり込んだ。
兵士たちは呆然と立ち尽くし、慎吾は深々とため息をついた。
「……だから言っただろ。体積を減らすだけで、重さは消えねえんだよ」
ずっしりと地面に沈み込んだ火竜の塊を前に、誰もが言葉を失っていた。




