第1話 勇者が放置した火竜、爆発寸前です
「火を近づけるな。その竜、腹の中がガスでパンパンだ」
腐った竜の死骸は、巨大な生ごみ袋へ油とガスボンベを一緒に詰めたようなものだ。燃やし方を間違えれば、片づける側まで吹き飛ぶ。
王都の広場に横たわるのは、全長二十メートルを超える火竜の死骸である。討伐から三日が経過したその肉体は、強烈な腐敗臭を放ちながら不気味に膨れ上がっていた。
「ええい、臭くてたまらん! さっさと浄化の炎で燃やし尽くしてしまえ!」
豪奢な法衣を着た神官が、鼻をつまみながら声を上げた。彼の手のひらには、熱を持った魔力の炎が灯っている。
制止したのは、色あせた青い作業服を着た四十五歳の中年男、黒田慎吾である。
神官は鬱陶しそうに慎吾を睨みつけた。
「無礼な。大浄化の勇者として召喚されたと思えば、剣も浄化魔法も使えない失敗作の分際で。現場の邪魔だ、下がれ!」
今朝のことだ。
王国は『すべての穢れを消し去る大浄化の勇者』を召喚する儀式を行った。光の中から現れたのは、地方都市の一般廃棄物収集運搬会社で十八年間ごみ収集車に乗っていた、黒田慎吾だった。
彼には攻撃魔法も、神聖な浄化魔法もなかった。あるのは『分別眼』をはじめとする、ごみ処理に特化した職能だけ。神官たちの測定器では、その力を一般的な魔力として認識できなかった。
結果として、慎吾は召喚失敗と認定され、王都の裏方である魔物死骸の処理現場へ回されたのだ。
儀式官からは、召喚者が役目を果たせば元の世界への道が開くこともある、とだけ聞かされていた。いつ、何をもって役目が終わるのかは、誰にも分からないという。
だが、ごみ収集の現場で培った慎吾の経験と、視界に浮かぶ『分別眼』の表示が、目の前の危機を明確に告げていた。
――《発火系・生骸系混合:腐敗ガス滞留。引火危険度・極大》
「失敗作でも素人でもいいが、あんたがやろうとしていることは、スプレー缶を満載したごみ収集車の中で火を噴くようなもんだぞ!」
慎吾の警告を鼻で笑い、神官は火竜の膨れ上がった腹部へ向けて、手のひらの炎を放った。
炎が竜の鱗の隙間、腐敗で裂けた皮膚に触れた瞬間だった。
ボゥッ! という重い音と共に、腹部の一部が小規模な爆発を起こした。
「ひっ!?」
熱風と強烈な腐臭が広場に吹き荒れ、神官が尻餅をつく。火竜の腹部はさらなる連鎖爆発を起こす寸前のように、ボコボコと不気味な音を立てて波打っていた。次に引火すれば、広場周辺の建物ごと吹き飛ぶのは明らかだった。
周囲の兵士や見物人がパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
「何事ですか!」
凛とした声が響き、混乱する広場に一人の女性が踏み込んできた。
銀糸の刺繍が施された軍服を纏う彼女は、ラヴェル王国第三王女、エレノア・ラヴェル。異世界召喚計画の実務責任者であり、今朝、慎吾を召喚失敗と判断した張本人だった。
エレノアは尻餅をつく神官と、危険な状態にある火竜、そしてただ一人逃げずに立ち尽くす慎吾の姿を瞬時に捉えた。
「神官を下がらせなさい! 黒田慎吾、あなたは先ほど、炎を近づけるなと言いましたね。なぜ爆発すると分かったのですか?」
エレノアの問いに、慎吾は飄々とした態度のまま、だが現場の作業員としての鋭い目つきで答えた。
「火竜の死骸が腐って、体内に可燃性の魔力ガスが溜まってるからです。あんなパンパンに膨らんだ風船に火を近づけたら、どうなるかくらい見りゃわかります」
「浄化院の報告では、神聖魔法で燃やせば安全に処理できるはずですが」
「あの神官様の火は、単なる着火具にしかなってませんよ。腹の中にどれだけガスが溜まっているか分からない以上、次の火が小爆発で済む保証はない」
エレノアは息を呑んだ。彼女は権威に縋るような愚か者ではなかった。目の前で起きた小爆発という事実と、慎吾の冷静な指摘を天秤にかけ、即座に決断を下した。
「黒田慎吾。今この瞬間から、この現場の指揮権をあなたに委ねます。王都を救いなさい」
「……俺は片づけるだけの人間ですがね。まあ、仕事とあらばやりましょう」
慎吾は首を鳴らすと、周囲を取り囲む兵士たちに向かって指示を飛ばした。
「まず風向きを確認しろ! 今は南風だ。住民を風上にあたる北側へ退避させろ! それから、腐敗を止められる人間を呼んでくれ。今すぐだ!」
「私がやります」
群衆を掻き分けて進み出たのは、銀灰色の髪を持つ女性だった。色気のない分厚いコートを羽織り、どこか薬品のような、死臭に似た独特の匂いを漂わせている。
「私はリオラ・セレネ。『腐敗封じ』の魔術師です。何をすればいいですか」
「助かる。あんたの魔法で、火竜の腹部周辺の腐敗進行を一時的に止めてくれ。ガスがこれ以上増えるのを抑えるんだ」
リオラは無言で頷くと、両手を火竜の腹部へ向けた。彼女の手から放たれた冷たい銀色の光が死骸を覆うと、ボコボコと波打っていた皮膚の動きがピタリと止まった。
「今だ」
慎吾は火竜の巨体へ駆け寄った。
十八年間の収集作業で培った、危険物を見分ける勘。そして『分別眼』が示す情報を頼りに、もっとも皮膚が薄く、ガスが溜まっている箇所を見極める。
慎吾は兵士から借りた長槍の穂先を濡れた革で幾重にも包ませた。硬い鱗に金属が擦れて火花を散らさないためだ。風下を避け、裂けかけた皮膚の高い位置へ斜めに突き立てる。
ブシュゥゥゥッ!
切開された部分から、黄色く濁ったガスが猛烈な勢いで上空へと噴出した。強烈な悪臭が周囲を覆うが、慎吾は顔をしかめるだけで作業を止めない。
「よし、ガス圧は下がった。次は『火炎袋』の隔離だ。体内の着火装置を残したままじゃ安心できない」
慎吾は右手を火竜の死骸に向けた。
『収集指定』。
所有権が放棄されたこの死骸は、すでに慎吾の能力対象となっている。
『隔離積載庫、火炎袋のみ分離収納』
慎吾が念じると、火竜の体内からもっとも危険な発火器官だけが、空間の歪みへと吸い込まれるように消滅した。ズシリと、見えない重量が慎吾の身体にのしかかるが、耐えられない重さではない。
「仕上げだ。リオラさん、首の切断面に残った血の腐敗を止めてくれ。兵士は下水口を土嚢で塞げ。流れた血と泥は樽に回収する」
「……分かりました」
リオラが新たなガスの発生を抑える間に、兵士たちが血の流路を堰き止めた。爆発の危険はひとまず遠のいた。
張り詰めていた空気が緩み、遠巻きに見ていた兵士たちから安堵の吐息が漏れる。
「見事です」
エレノアが歩み寄り、慎吾に向かって深く頭を下げた。王族が平民に頭を下げるなど、異例中の異例である。
「神官の判断ミスにより、王都は滅びの危機にありました。あなたの知識と判断が私たちを救ったのです。黒田慎吾、先ほどの『召喚失敗』という認定を、私自身の名において撤回します」
周囲の兵士たちがどよめく中、慎吾はただ肩をすくめた。
「英雄の称号とかはいりませんよ。それよりも……」
慎吾は自分の素手をヒラヒラと振ってみせた。
「分厚い作業手袋と、残りの肉片を運ぶための人手をください。ごみの分別は、まだ終わっちゃいないんでね」
エレノアは一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと口元を和ませた。
「ええ、手配しましょう。必要なものはすべて言ってください」
最悪の事態は免れ、処理作業が本格的に始まろうとしていた。
誰もが危機は去ったと信じていた。
だが、慎吾だけが見ていた。広場の隅に転がっていた、討伐時に切断された火竜の前脚。
本体から切り離され、腐敗を止められていないその分厚い腕が、ピクリと不気味に痙攣したのを。




