第18話 現場を知っている者が先生だ
豪雨の襲来まで、残り二十四時間。
だが、事態はさらに悪化していた。井戸を守るための遮断壁の資材を積んだ荷車が、谷の中腹で完全に立ち往生していたのだ。
「駄目だ、渡るな! 橋の土台が中まで腐りきってやがる!」
元荷運びのダントが、資材を運ぶために使うはずだった古い木造橋の前で鋭く怒鳴った。
集落の住人たちが丸太を打ち込んで必死に補強しようとしていたが、ダントはその丸太を蹴り飛ばした。
「無駄だ! こんな気休めの支えで、数トンの石材と粘土を運べるか。少しでも荷重が偏れば、橋ごと谷底に真っ逆さまだぞ」
ダントの言葉に、住人たちは絶望的な顔を見合わせた。この資材が届かなければ、井戸の防護壁は作れない。明日には毒の泥水が流れ込み、集落の命綱が断たれてしまう。
「ダントさん、橋の修復は無理か? 俺は何を運べばいい」
負傷者の家族へ謝罪し、治療と当面の暮らしに必要な金を自分の報酬から預けてきた慎吾が尋ねる。
「ああ。直してる暇はねえ」
ダントは短く答えると、橋の横に広がる、ぬかるんだ緩やかな斜面を指差した。
「危険な橋を直すんじゃねえ。荷重を分散させた『仮設の迂回路』を作るんだ。住人の連中、そこら中から平らな廃材の板をかき集めてこい! 斜面に並べて即席の道を作る!」
集落の長老がダントへ現場指揮を任せた。慎吾は自分の案を押し出さず、板を運び、杭を打ち、指示された場所へ荷を移す。
ダントの指示は的確で無駄がなかった。
彼らは危険な橋を避け、廃材を敷き詰めた斜面に荷車を下ろした。だが、そのままでは車輪が泥に沈む。ダントは複数の荷車をロープで連結させ、板の上を滑らせるようにして重量を極限まで分散させた。
「前を引け! 後ろはロープでテンションを保て! 止まるな、止めれば沈むぞ!」
ダントの号令のもと、ルチアや獣人の若者たちが泥まみれになってロープを引く。
軋む音を立てながら、資材を積んだ連結荷車は、崩れかけの橋を迂回して安全な地盤へと到達した。
「……流石だ。見事な運搬指揮だぜ、ダントさん」
慎吾が感嘆の息を漏らすと、ダントは泥を拭いながらニヤリと笑った。
「現場の道ってのは、真っ直ぐ進むだけが正解じゃねえのさ」
資材が届けば、あとは時間との勝負だった。
住民総出で井戸の周囲に石と粘土で強固な遮断壁を築き上げ、慎吾とリオラ、そしてミカの嗅覚を頼りに、塞がった仮排水路を迂回する新しい溝を掘り進める。
ギリギリの作業が完了したのは、空を分厚い黒雲が覆い尽くし、大粒の雨が降り始めた直後だった。
ザァァァァッ!
猛烈な豪雨が、灰谷のごみの山を叩きつける。
予想通り、斜面のごみ山から腐敗液と錬金廃液の混ざった毒の泥水が、濁流となって押し寄せてきた。
だが、泥水は集落の中央に向かう手前で新設された排水路に飲み込まれ、井戸の周囲に到達した一部の汚染水も、ダントの運んだ資材で築かれた遮断壁に完全に弾き返された。
数時間後。雨が小降りになった頃。
慎吾が井戸の水を柄杓で掬い上げると、目立った濁りはなかった。ミカが臭いを確かめ、リオラが腐敗反応を調べる。飲用の再開は翌朝の検査後だが、少なくとも毒泥の流入は防げた。
「……井戸は守れた。みんなのおかげだ」
慎吾の言葉に、ずぶ濡れになった住人たちから割れんばかりの歓声が上がった。
「さて、と」
雨を凌げるバラック小屋の軒下で、慎吾は集落の回収屋の老人と、獣人の少女ミカを前にして、一枚の木の板に文字を書き込んでいた。
「俺の判断ミスで、怪我人を出した。もう二度と同じ事故は起こさない」
慎吾は板に書き込んだ『新しい作業規則』を指差した。それは慎吾が一人で決めたものではない。ミカ、リオラ、回収屋の老人、負傷者の家族までが意見を出した。
「分類不能なものには触れない。動かすなら少量を採って確かめ、退避路を作る。ミカとリオラさんの確認を通し、最後の判断を一人に預けない」
慎吾は振り返り、厳しい顔で見守るリオラに向かって頷いた。
「俺にも拒否権を与えない。誰か一人が危険だと言ったら止める。再開は全員で決める」
「……ええ。遠慮なくそうさせていただきます」
リオラが小さく安堵の息を吐き、真顔のまま頷き返した。
集落の長老が、前日に慎吾の外した指揮腕章を差し出した。
「怪我人が出たことは消えん。だが、あんた抜きで井戸を守れたわけでもない。その規則を守るなら、指揮を戻す」
慎吾が受け取ろうとすると、リオラが先に腕章を取った。彼女は慎吾の袖へ巻き直し、結び目を強く締める。
「許したわけではありません。次に同じことをすれば、命令であっても術を使いません」
「それでいい。信頼を取り戻すまで見張ってくれ」
リオラの指は腕章を離す直前、わずかに震えていた。昨日の怒りの底にあったものを、慎吾はようやく察した。規則を破ったことだけでなく、彼自身が戻らなくなる可能性を恐れていたのだ。
「あんたまで倒れそうな時は、俺が止める。片方だけの約束じゃ不公平だ」
リオラは何かを言いかけ、結局、短く「お願いします」と答えた。
慎吾は次に、ミカの方へ向き直った。
「ミカ。ちょっと手を出せ」
「なんだよ、おっさん」
訝しげに手を差し出したミカの腕に、慎吾は赤い布でできた腕章をしっかりと巻き付けた。
「今日からあんたに、正式な現場の役割を与える。役職名は『危険臭判定担当』だ」
「きけんしゅう……?」
「そうだ。あんたの鼻は、俺の能力以上の精度でごみの危険を見抜ける。ただの『子ども向けの手伝い』じゃなく、専門職としての正式な依頼だ」
慎吾は作業着のポケットから、赤と青の二色の太いチョークを取り出してミカの手に握らせた。
「ただし、ただ『臭い』って言って逃げるだけじゃプロとは呼べない」
「じゃあ、どうすんだよ」
「判断の根拠を、誰にでも分かるように残すんだ」
慎吾は傍らに転がっていた鉄くずに、赤いチョークでバツ印を書いた。
「爆発する匂いがしたら赤で印を付ける。毒の匂いがしたら青だ。そうやって記録を残せば、あんたがその場にいなくても、鼻の利かない俺たちが危険を回避できる。自分の感覚を、他人の命を守るための『記録』に変えるんだ。それが現場の仕事だ」
ミカは腕章とチョークをまじまじと見つめた。
今まで、ミカの鼻は自分が生き延びるためのものだった。誰かの命を守る仕事として、判断を託されたことはない。
だが目の前の大人は、自分を対等な『仕事仲間』として扱い、人の命を預けようとしている。
「……分かった。赤がドカンで、青がゲロゲロだな。任せとけ」
ミカの瞳に、初めて専門職としての強い自負の光が宿った。
「じゃあ、あたしからも教えてやるよ」
ミカは近くにあった奇妙な金属片を指差した。
「あそこで青い火花を出してる鉄くず。あれは水に濡れると熱を出して周りを溶かす。雨の日は絶対に触っちゃ駄目なやつだ。王都の連中は知らないみたいだけどな」
「なるほど、助かる。メモしておこう」
慎吾は素直に頷き、手元の野帳にミカの言葉を書き留めた。
「現場じゃ年齢や身分なんて関係ない。現場を知っている者が先生だ。俺が間違った判断をしそうになったら、いつでもあんたが止めてくれ」
「へへっ、いいぜ。おっさんがドジ踏まないように、あたしが見張っててやるよ」
ミカは誇らしげに胸を張り、尻尾をピンと立てた。
慎吾は自分の野帳をミカにも見えるように開いた。教える者と教わる者は、そのたびに入れ替わればいい。
雨上がりの空気が少しだけ澄んで感じられた、その時だった。
「誰か! 誰か来てくれ!」
一人の女性が、泥に足を取られながらバラック小屋へと飛び込んできた。その顔は恐怖に引き攣り、半狂乱になっている。
「どうした、落ち着け!」
ダントが女性の肩を支える。
「うちの子が……子どもが二人、いないんです! 雨が降る前に、熱を出した子の薬を探すって言って……西の『廃棄物地下』の方へ向かったきり……!」
その言葉に、ミカの顔からスッと血の気が引いた。
「西の地下……馬鹿な、あそこは色んな死骸が溶け合って、ヤバい匂いが充満してる『魔獣の巣』だぞ!」
井戸の防衛に成功した安堵は一瞬で吹き飛んだ。
新たな、そして致命的な危機が、灰谷の地下で静かに口を開けていた。




