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第17話 圧縮してはいけないもの

豪雨の襲来まで、あと二日と数時間。


 灰谷の斜面に広がる廃棄物の山の中で、慎吾たち回収班は奇妙な物体を前に立ち往生していた。


 黒い土に絡みつくように広がる、白灰色の不気味な菌糸。


『分別眼』は《分類不能》と赤い文字で警告を発し、その正体も危険度も一切の情報を遮断している。


「おっさん、これヤバい匂いがする。触らない方がいい」


 鼻をヒクつかせたミカが、尻尾の毛を逆立てて後ずさった。


「分類不能……か」


 慎吾は作業手袋のまま、顎をさすった。前世で十八年間ごみと向き合ってきたが、どんな化学物質でも、どんな腐乱死体でも、ここまで完全に「得体が知れない」ものは初めてだった。


 だが、見過ごすわけにはいかない。


 この斜面の上部には、これから降る豪雨の泥水を逃がすための『仮排水路』を掘らなければならないのだ。この菌糸の塊がちょうどそのルート上に居座っている。


「……時間がない。雨が降る前に、この周辺を完全に空けなきゃならないんだ。ミカ、匂いは爆発系か? それとも毒ガス系か?」


「分かんない。どっちでもないと思う。ただ、なんか……生きてるみたいで気持ち悪い」


「発火しないなら、丸めるしかないか」


 慎吾は一歩前に出た。未知の物質に対する恐怖よりも、タイムリミットへの焦りが勝っていた。二日後には、集落の命綱である井戸が汚染される。ここで作業を遅らせるわけにはいかなかったのだ。


「リオラさん、念のため腐敗封じで表面を固めてくれ。俺がこのまま『超圧縮』で一気に丸め込む」


「……お待ちください、黒田慎吾。正体が分からないものを、強引に圧縮するのは危険です。少しだけ時間をかけて、周囲の土壌ごと慎重に『隔離積載庫』へ入れるべきでは」


 リオラが珍しく強い口調で制止した。


 だが、慎吾は首を横に振った。


「隔離積載庫は容量に限界がある。こんな正体不明の土の塊をそのまま突っ込んだら、他の発火物や毒液を収容するスペースがなくなる。圧縮して体積を減らしてから収納する。大丈夫だ、発火系じゃないなら圧縮時の衝撃で爆発することはない」


「しかし……」


「やってくれ」


 現場指揮官としての慎吾の強い言葉に、リオラは唇を噛み、渋々ながら銀色の魔力を菌糸の塊へ放った。


 菌糸の増殖が、リオラの術によって一時的に止まる。


「よし。……『超圧縮』!」


 慎吾が両手をかざし、能力を発動した。


 空間が軋むような音を立てて、土と菌糸の塊が内側へ向かって強烈に潰れていく。


 だが、その瞬間。


 ――《警告:分類不能物質の防衛反応。胞子の異常増殖を検知》


 分別眼の赤い文字が、視界を埋め尽くすように点滅した。


 パァァァンッ!!


 圧縮の圧力に耐えかねた菌糸の塊が、風船が破裂するように弾け飛んだ。


「なっ……!?」


 爆発ではない。だが、破裂と同時に、白灰色の『胞子』が煙幕のように周囲に撒き散らされたのだ。


「ッ、全員息を止めろ!」


 慎吾が叫ぶが遅かった。


 近くで作業を手伝っていた灰谷の住人数名が、その胞子をまともに吸い込んでしまった。


「ぐはっ……! げほっ、ごほっ……!」


 胞子を吸い込んだ住人たちが、首を掻きむしりながら激しく咳き込んで倒れ伏す。彼らの皮膚の表面に、弾け飛んだのと同じ白灰色の菌糸が、血管を這うように浮かび上がり始めていた。


「まずい、寄生型の魔法植物か!」


 ルチアが倒れた住人を助け起こそうとするが、胞子の煙幕に阻まれて近づけない。


「下がれ、ルチア殿!」


 リオラが前に飛び出し、両手を広げた。


「『腐敗封じ・広域展開』!」


 銀色の魔力がドーム状に広がり、飛び散る胞子と、住人たちの皮膚を這う菌糸の進行を強制的に凍結させた。


「……ッ、ハァ、ハァ……!」


 広範囲の生体に対する魔術の行使。リオラの額から滝のように汗が噴き出すが、彼女は魔力を緩めない。


「今のうちに、怪我人を風上へ! 急いで!」


 ダントとルチアが倒れた住人たちを抱き抱え、胞子の届かない安全な場所へ退避させる。


 慎吾は呆然と立ち尽くしていた。


「俺が……判断を間違えた」


 爆発を恐れて圧縮の強さを調整したとはいえ、完全に未知の物質を、時間への焦りから強引に処理しようとした。自分の前世の知識と能力の経験則を過信し、ミカの「触らない方がいい」という忠告と、リオラの「慎重にやるべき」という進言を無視した結果だ。


「黒田……慎吾!」


 魔力を維持したまま、リオラが鋭い声で彼を呼んだ。


 その顔は、魔力消費の苦痛だけでなく、はっきりとした怒りに歪んでいた。


「これが、あなたの言う『現場の安全』ですか! 分からないものを強引に処理し、周囲を危険に晒す……。それは、ただごみを地下に隠した浄化院のやり方と同じです!」


 リオラの言葉は、慎吾の胸に鋭い刃となって突き刺さった。


 彼女は慎吾を「王都を救った英雄」としてではなく、同じ現場に立つ「対等の専門職」として、その手順違反と判断ミスを厳しく叱責したのだ。


「すまない。俺の判断ミスだ」


 慎吾は言い訳をしなかった。


 搬送された作業員のうち一人は、胞子が肺の奥まで入り、リオラが進行を止めても長い療養が必要だと診断された。彼女は負傷者の術を維持するため、井戸防衛へ回せる魔力まで削られている。


 集落の長老は慎吾へ近づき、低い声で告げた。


「ここから先の指揮は、いったん降りてもらう。あんたを信じて人を出した。だが、警告を無視したのもあんただ」


 慎吾は王命書を持っていた。それでも反論せず、腕章を外した。


「当然だ。補償と治療費は俺が負う。今は、俺にできる作業を指示してくれ」


 慎吾は弾け飛んだ菌糸の残骸から目を逸らし、周囲の地形を確認した。


 最悪なことに、撒き散らされた胞子と菌糸の一部が、ダントたちが昨日から掘り進めていた『仮排水路』の溝の中に入り込み、そこで急速に増殖して流れを完全に塞いでしまっていたのだ。


「……仮排水路が塞がれた。これじゃ、雨が降った時に泥水が全部井戸の方へ向かっちまう」


 慎吾の視界の『分別眼』が、無慈悲なカウントダウンを修正して表示する。


 ――《仮排水路の機能不全。水源汚染までの猶予:24時間に短縮》


 三日後だったはずの猶予が、明日の夜までに縮まってしまった。


「おっさん……」


 ミカが心配そうに慎吾の作業着の裾を引く。


「ごめん、私がもっとはっきり止めてれば……」


「馬鹿言え。あんたの鼻は完璧だった。俺がその警告を甘く見ただけだ」


 慎吾はミカの頭にポンと手を乗せ、泥だらけの顔を上げて仲間たちを見渡した。


「猶予は一日になった。俺のせいだ。井戸を守るために必要なら、下働きでも何でもやる」


 その時、避難誘導を終えて戻ってきたダントが、顔を青ざめさせて叫んだ。


「あんちゃん、不味いことになった! 井戸を守るための防護壁の資材を積んだ荷車が、谷の入り口で立ち往生してる!」


「なんだと?」


「資材を運ぶために使う予定だった、谷の中腹にある『古橋』が、昨日の夜から崩れかけてるんだ! 住人の連中が必死に補強しようとしてるが、あれじゃ資材を積んだ荷車は渡れねえ!」


 慎吾は天を仰いだ。


 未知の菌糸による排水路の閉塞。タイムリミットの大幅な短縮。そして、防護壁の資材を運ぶための運搬路の崩壊。


 一つの判断ミスが、次々と現場に致命的な連鎖を引き起こそうとしていた。

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