第16話 三日後、この井戸は飲めなくなる
灰谷の底に広がるのは、王都の華やかさとは無縁の、泥と錆と腐敗の景色だった。
だが、そこは完全な死の土地ではなかった。高く積み上げられたごみの山の隙間に、トタンや廃材を継ぎ接ぎしたバラック小屋が身を寄せ合うように建ち並んでいる。
獣人の耳を持つ者、痩せこけた人間、行き場を失った流民たち。彼らは王都から無差別に転送されてくる廃棄物の山に群がり、まだ使える金属や布、燃やせる木材を拾い集めて細々と命を繋いでいた。
「……こりゃあ、不味いことになったぞ」
灰谷の集落を見下ろす少し高い位置で、ダントが空を仰いで低い声を漏らした。
「どうした、ダントさん。何か見えるのか?」
「風の匂いと雲の動きだ。長年、街道で馬車を走らせてきた勘が告げてる。……三日後だ。三日後に、この谷にデカい豪雨が来るぞ」
その言葉に、慎吾はハッと息を呑み、足元から広がる灰谷の地形へ視線を落とした。
すり鉢状の地形の底に位置するこの集落にとって、雨はただの水ではない。
王都から転送された廃棄物の山は、集落を取り囲む斜面に堆積している。慎吾はダントとミカから地面の傾きや過去の水筋を聞き、簡単な地図へ書き込んだ。『巡回最適化』に情報を与えると、複数の流路が集落中央の井戸へ収束した。
豪雨が来れば、ごみ山に染み込んだ腐敗液や錬金廃液が泥水となり、最後の水源へ流れ込む。
「……三日後、あの井戸は飲めなくなる。いや、触れるだけで皮膚が爛れる猛毒の沼に変わるぞ」
慎吾の呟きに、隣にいたリオラが顔を青ざめさせた。
「あの井戸は、この集落の最後の綺麗な水源です。もしあれが汚染されれば、彼らは生きられません!」
「ああ。だから、雨が降る前に何とかするしかない」
慎吾は作業手袋の指をポキポキと鳴らし、冷静に現場の状況を整理した。
「タイムリミットは三日。それまでにやるべき作業は四つだ。斜面にある危険な汚染物の『除去』、泥水を井戸から逸らす『排水路の確保』、井戸そのものを守る『周辺の遮断壁の設置』。そして、退かしたごみを安全に置いておく『仮置き場の整備』だ」
どれも一つ間違えば命に関わる大工事だ。だが、やるしかない。
「ルチア、あんたは集落の連中に事情を説明して、井戸の周りから避難するように伝えてくれ。ダントさんは、仮排水路を掘るための道具と人員の段取りを頼む」
「分かった!」
「おう、任せな」
「リオラさんは俺と一緒に斜面のごみの選別だ。俺の能力で圧縮して仮置き場に退かすが、腐敗が進んでるやつは動かす前に魔力で進行を止めてくれ」
「承知しました」
役割分担を終え、慎吾とリオラは斜面に堆積したごみの山へと足を踏み入れた。
ここは王都の路地裏とはレベルが違う。生活ごみの中に、火竜の脂肪のような『発火系』や、呪われた武具の残骸といった『呪物系』が無造作に混ざり合っている。
『分別眼』が次々と警告を発するが、重なり合ったごみの奥深くにあるものは正確に読み取れない。
「慎重に行くぞ。不用意に引っこ抜いて、爆発でもしたら……」
慎吾が、土に埋もれかけた赤い皮袋に手を伸ばそうとした時だった。
「おっさん、それに触るな。ドカンってなる匂いがするぞ」
背後から、ぶっきらぼうな声が飛んできた。
振り返ると、少し離れた廃材の上に、一人の少女がしゃがみ込んでいる。犬のような丸い獣耳と尻尾を持った、ボロボロの貫頭衣を着た少女だ。さっき、谷の入り口で慎吾の予備の防護布をひったくっていった張本人である。
「お前……」
「匂いで分かる。その赤い袋の中身は、燃えやすい獣の脂だ。それも、古い魔法の薬と混ざって、ちょっと叩いただけで火を噴くくらい不安定になってる」
少女は鼻をヒクつかせながら、生意気な口調で言った。
慎吾は手を止め、『分別眼』の焦点をその赤い皮袋に集中させた。
――《発火系・混触禁忌物:炎獣の魔力器官と錬金廃液の混合。衝撃による爆発危険度・高》
(……マジか。俺の眼と同じ情報を、匂いだけで嗅ぎ分けたのか)
「名前は?」
「ミカだ。この谷で、使えるごみを拾って生きてる」
ミカは警戒するように尻尾を丸め、いつでも逃げ出せる姿勢をとっていた。王都の人間が、辺境の獣人や孤児をどう扱うか、彼女は身をもって知っているのだろう。
「そうか。俺は黒田慎吾。ごみ回収の専門家だ」
慎吾は皮袋からゆっくりと手を離し、ミカに向かって真っ直ぐに視線を向けた。
「助かったよ、ミカ。あんたの鼻がなけりゃ、今頃俺の腕は吹っ飛んでたかもしれない」
「え……?」
ミカは目を丸くした。怒鳴られるか、追い払われると思っていたのに、目の前の中年男は本気で感謝の言葉を口にしている。
「俺の眼は、表面に見えてるものの危険は分かるが、ごみの奥底に埋もれてる匂いや熱までは完全に把握できない。だが、この斜面のごみは三日以内に全部どかさなきゃならないんだ。井戸を守るためにな」
慎吾はミカを「保護すべき可哀想な子ども」として扱わなかった。
彼が向けたのは、同じ過酷な現場を知る『現地の専門家』に対する敬意だった。
「頼みがある。あんたのその鼻で、この山に埋もれてる『発火物』と『毒』を見分けてくれないか。もちろん、タダとは言わない。きっちり仕事としての対価は払う」
「仕事の、対価……」
ミカの耳がピクリと動いた。彼女は今まで、ごみの中から細々としたものを『拾う』ことでしか生きてこなかった。誰かから能力を認められ、仕事を依頼されるなど初めての経験だ。
「……やる。この谷のごみの匂いなら、あたしが一番知ってる」
ミカは廃材から飛び降り、慎吾の隣に立った。
「よし、頼もしい相棒ができたな。リオラさん、俺たちはミカの指示に従って危険物を抜いていくぞ」
「はい。ミカさん、よろしくお願いしますね」
リオラもまた、ミカを子ども扱いせず、真剣な顔で頷いた。
三人は斜面のごみ山に取り付いた。
ミカの嗅覚は正確無比だった。彼女が鼻をヒクつかせて指差した場所からは、確実に危険な発火物や、周囲を汚染する瘴液の入った瓶が見つかった。
「そこ、酸っぱい匂いがする。多分、毒の水だ」
「了解だ。瓶ごと青印の箱へ。割るなよ」
ミカが見つけ、慎吾が種類ごとの箱へ隔離する。生骸や腐った布が出た時だけ、リオラが腐敗を止める。三人の連携により、作業は予想以上の速さで進んだ。
それでも斜面は広い。作業は日暮れ近くまで続き、三日あった猶予は一日近く削られていた。
「すごいな、ミカ。あんたの判別は完璧だ」
慎吾が褒めると、ミカは照れくさそうに尻尾を振り、「このくらい普通だ」とそっぽを向いた。
だが、斜面の中腹で、ミカが不意に足を止めた。
「……なんだ、これ」
ミカはごみの山の一角を睨み、顔をしかめて鼻を押さえた。
「どうした? 発火物か?」
「違う……こんな匂い、嗅いだことがない。腐ってるわけでも、燃えるわけでもない……なんか、生きてるみたいな、気味の悪い匂いだ」
ミカの言葉に、慎吾は警戒しながらその場所の土とごみを慎重に退けた。
現れたのは、動物の死骸でも、魔法の薬品でもなかった。
それは、どす黒い土に絡みつくように広がっている、不気味な白灰色の『菌糸』のような残骸だった。周囲の木片や布切れにびっしりと寄生し、微かに脈打っているようにも見える。
慎吾は嫌な汗をかきながら、『分別眼』を発動した。
――《分類不能:未知の魔法生物痕跡。危険度測定不可》
「……分類不能、だと?」
慎吾は息を呑んだ。
王都のどんな廃棄物でも、異世界の魔物の死骸でも、必ず何らかの候補を表示してきた分別眼が、完全に正体を見失っている。
「おっさん、これヤバい匂いがする。触らない方がいい」
ミカが尻尾の毛を逆立てて後ずさる。
豪雨までは二日余り。この正体不明の菌糸も、雨水に溶ければ井戸に流れ込むだろう。
だが、正体が分からないものを『超圧縮』や『隔離積載庫』に入れて良いのか。
慎吾は、未知の汚染物を前に、重い決断を迫られていた。




