98. 「記録の精度」
「そうでしょうね」
と私は微笑んだ。
「あなたは感情を判断から排除している。だから、感情から生まれた選択が不可解なのは当然です」
「理解しようとは、しているつもりです」
「知っています。でも、採用はしないのでしょう?」
「ええ、しません」
「それでいいです。あなたがあなたの方法で判断するように、私も私の方法で判断する。どちらかが絶対的に正しい、どちらかが確実に間違っているなんて、そんなことはないのだから」
エリシアが、わずかに目を細めた。
「……厄介ですね、やはり。論理だけの相手なら論理で、感情だけの相手なら無視できる。あなたは、そのどちらでもない」
「以前も、同じことをおっしゃいましたね」
「今日も同じです。変わりません。――ただ」
「ただ?」
「前回よりも少しだけ、理解が深まった気がします。前回は『論理』として理解できましたが、今回は『なぜ、あなたがそう選ぶのか』という根拠に、触れられた気がします」
エリシアは自嘲気味に言葉を継いだ。
「私には、感情を否定する理由がある。それが私の根拠。――あなたにも、感情を持って選ぶ理由がある。それを今日、理解しました」
「それは……私たちのやり方に、歩み寄ってくれたということですか?」
「いいえ。理解することと、採用することは別ですから」
「ふふ、そうですね」
「でも……意味はあると思っています。その意味が何なのかは、まだうまく言えませんが」
あ、と小さく驚く。
あのエリシアが、『うまく言えない』と言葉を濁した。
「嘘をつく必要がありませんから。……そこは、グランツ殿に似ているかもしれませんね」
「二人とも、不器用なほど嘘がつけないのですね」
横で控えていた官吏が、しびれを切らしたように身じろぎをした。
「……そろそろ、引き継ぎの確認を」
「そうですね」
エリシアが表情を引き締める。
「本題に戻りましょう。今の会話も含めて、私は報告を書きます。どのような内容になるかは――書いてからのお楽しみ、ということにしておきましょうか」
それからの三時間、実務確認は目まぐるしい速さで進んだ。書類の要点を一瞬で見抜き、的確な質問を投げ、次へと進む。私とレオは、かつてないほど息の合った連携でそれに応えた。
夕闇が迫る頃、エリシアがようやくペンを置いた。
「今日の分は、ここまでです。来週、残りの確認を」
「お待ちしています」
「それと、一つ。……レオ・グランツ殿」
「何だ」
「引き継ぎ資料の補足として、例の記録――トーマという少年の三日間の記録を添付することを認めます」
レオが、言葉を失ったように動きを止めた。
「……認めるのか?」
「正式書類ではありません。あくまで補足。私の裁量の範囲内です。今日の話に出てきた『顔のある記録』の意味を、少しだけ尊重することにしました。今回限りの特例ですが」
「……感謝する」
「記録の精度のためです」
「それでもだ。ありがとう」
☆
扉が閉まり、馬車が遠ざかる音が響く。応接室に残されたのは、私とレオだけ。
「エリシア、少し変わったかしら」
「……いや、変わってはいないだろう。ただ、今まで見せなかった部分を見せただけだ。公平でありたいという、彼女の信念をな」
「応えていい相手だと、判断されたのかしら」
「さあな。だが、お前も気づいていたはずだ。彼女の何かが、以前とは違って見えたことに」
「ええ。――私たちの考えが、また同じところに辿り着きましたね」
窓の外は、淡い橙色の夕景に包まれていた。
「これからも、こういうことが増えるでしょうね。一緒にいる時間が長くなれば」
「……一緒にいるつもりか」
「つもりです。あなたは?」
「…………つもりだ」
揺れる蝋燭の炎が、レオの横顔を照らしている。
「これから、どうなるのかしら」
「エリシアの報告次第だ。今は待つしかない。引き継ぎを続けながらな」
「……レオ、今日は彼女が怖くなかった」
「怖くなかった?」
「あの人の言葉が、刃のように感じなかった。自分の中で、もう答えを選んでいたから」
「それは、成長だ」
「ふふ、あなたに言われると嬉しいです」
蝋燭の炎が、静かに、けれど力強く燃え続けていた。
本当の決着はまだ先だ。王国がどう動くのか、どんな対立が待ち受けているのか、まだ誰にも分からない。
だけど、今夜はこの温かな静寂を信じて、私たちは明日へと向かう。
――エリシアの報告書が届いたのは、三日後のことだった。




