97. 「知ってる」
私が椅子に腰を下ろすと、エリシアも、そして随行の官吏も静かに着席した。
そこへ、レオが入ってくる。
エリシアの涼やかな視線が、彼へと向けられた。
「グランツ殿。昨日の件、伺いました。辞令を断ったそうですね」
「……ああ」
「理由は?」
「個人的な事情だ」
「その『個人的な事情』の中に、私の名前は含まれていますか?」
「……含まれている」
「つまり、私との婚姻という命令を拒絶した、ということですね」
淡々とした確認作業だった。エリシアは私を見、次にレオを見た。
「二人で決めたことなのですか?」
「それぞれが決めたことだ。俺が先に決めた」
「順番は関係ありません」
と私は横から口を挟んだ。
「私たち二人ともが、自らの意志で選びました」
エリシアは無表情に、しばらく私たちを見つめていた。
「……分かりました。その件について、私から異議を唱えることはありません」
「何も、おっしゃらないのですか?」
意外な反応に、思わず聞き返す。
「辞令を受けたのはグランツ殿であり、私への打診は今回が初めてでした。断られたからといって、私の経歴に傷がつくわけではありません」
「それは、感情的には何もないということ……?」
「感情的には、少し複雑ですが。表に出す必要はないと判断しました」
「複雑、とは?」
「……評価していた相手だったので。グランツ殿の判断力と行動力は、高水準だと思っていました。今回の決断も、感情面では理解できます。――共感はしませんが」
エリシアが、わずかに身を乗り出した。
「ここからが本題です。王宮は今、グランツ殿の辞令拒否を受けて今後の対応を議論しています。私は、その議論に直結する立場にあります」
「どういう立場なのですか?」
「この領地の引き継ぎ担当官であり、王国へ評価報告を上げる役目です。私の報告一つで、今後の審議はどちらへも転びます」
エリシアの言葉が、重く部屋に響く。
「一つは、不当な辞令拒否を統治への反逆と見なす方向。もう一つは、異例の申し出として軽い処分で済ます方向。……私の報告次第で、どちらにでも動きます」
「つまり、あなたは……」
「伝えに来たのではありません。確認に来たのです。クラリス様」
エリシアの瞳は、以前のような無感情な値踏みではなく、何かを深く思索する光を宿していた。
「以前、あなたに問いましたね。『その選択で、何人死にますか』と」
「ええ、覚えています」
「今でも同じことを言います。反逆と判断されれば、王国との関係は破綻する。この領地の未来も、住む人々も、大きな混乱に巻き込まれることになる。……それを分かった上で、選んでいるのですか?」
わずかな沈黙の後、私は答えた。
「分かっています」
「分かった上で、選んだと?」
「はい」
エリシアは視線を落とし、テーブルの上を数秒だけ見つめた。そして、再び顔を上げる。
「その選択は、誰かを不幸な結末にするかもしませんよ」
声のトーンは変わらない。
けれど、言葉の質量が違った。
「そうかもしれません。誰かに影響が出るかもしれない。それは、分かっています」
「分かっているなら、なぜ」
「選ばないよりはいい、と思っているからです」
「……理解できません。変わらない方が、安全ではありませんか?」
「安全と、いいことは別です。選ばなければ何も起きないけれど、変わるべきものまで止まってしまう。私は、感情があったからこれを選べました」
「非合理です。もし、それが間違いだったら?」
「間違いかどうかは、後になってから分かります。今は、選んだという事実だけがあればいい」
「後で分かっても、遅い場合があります」
「あります。でも、選ばずにいたら、考える機会すら訪れない」
レオが短く言った。
「知ってる」
エリシアの視線が彼へ飛ぶ。
「何を知っているのですか?」
「非合理だなんて、百も承知だ。それでも選んだ。俺が正しいと思ってきたことの結果が、今のこの状況だ。だから、今回は違う選択をする。たとえそれが、連鎖を招くとしても」
エリシアは二人を交互に見つめ、やがて静かに吐息を漏らした。
「……やはり、理解できませんね」




