89.「否定しない」
再び、静寂が訪れる。
私たちはそれぞれ、目の前の仕事に戻った。
一本の蝋燭が短くなるほどの時間が過ぎる中、レオのペンは時折止まり、思案するように宙を彷徨い、また紙へと戻っていく。
「一つ、聞いていいか」
ふいに、レオが声を落とした。
「お前は……俺に、何を求めている」
「求めている、とは?」
「俺がどう動くことを、お前は期待しているんだ。……誰かに聞くとすれば、お前しかいない」
私は少し考え、ペンを置いた。
「私の答えは、あなたの決断に少なからず影響しますよ。それでもいいのですか?」
「影響してもいい。それを聞いた上で、俺が決める」
「……では、正直に申し上げます。私は、あなたに何も求めていません」
レオがわずかに目を見開く。
「それは、あなたがどう決めても否定しない、という意味です。あなたが何を選んでも、それはあなた自身が決めること。私が望みを押しつけることではありません」
「……それが答えか」
「ええ。ただ、一つだけ思っていることがあります」
私は彼を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、『正しさ』だけでは守れないものがあると知りました。その積み重ねの上で、自分が何を求めているのか。それだけを、どうか見極めてください」
「俺が、何を……」
彼はその言葉を反芻するように呟き、再び沈黙した。
さらに一時間が過ぎた頃。
窓を揺らす強い夜風を切り裂くように、レオが書き上げた書類を机に置いた。
「トーマの記録が終わった。……読んでくれ」
受け取った紙には、無機質な数字ではなく、そこにあった『体温』が刻まれていた。
トーマがどこに立ち、どんな声で応じ、どれほど懸命に光を向けていたか。
最後の一行には、こうあった。
『公式記録には残らないが、その貢献は確かに存在した。記録者:レオ・グランツ』
「……ありがとうございます」
「感謝するなと言っただろう」
「それでも、ありがとうございます。……受け取ってください、この感謝を」
「……ああ」
レオは引き出しから、再びあの命令書を取り出した。
「もう一度読む。読んで、考える」
「では、私はこれで……」
「居ろ」
立ち上がろうとした私を、彼の低い声が止めた。
「ここに居ろ」
命じられるまま、私は座り直した。
彼は二度、命令書を読み返し、じっと机の一点を見つめた。
「『正しい方』は、もう選んだ」
「……それは、どういう意味ですか?」
「ヘインフォード領に来てから俺は任務として、合理的で正しい方だけを選び続けてきた。だが、それでは守れないものがあると、思い知らされた」
レオが、命令書に手を伸ばす。
「だから今度は――選ぶ」
彼は、その紙を強く握りしめた。
「何を選ぶのですか」
「……お前を選ぶ」
心臓が、跳ねた。
揺れる蝋燭の炎。
彼の手の中にある命令書。
「……今、何と?」
「聞こえたはずだ。俺は、命令には従わない。お前を選ぶ」




