88. 「騎士としては」
トーマの元から戻り、静かな夕食を終えた後の執務室。
重苦しい沈黙を破って現れたランドルフが、一通の書状を差し出した。
「騎士団本部からです。――レオ様宛てに」
その言葉に、書類を整理していた私の指が止まる。
レオは表情を変えずに受け取ると、事もなげに、
「後で読む」
と机に置こうとした。
「今、読んでください」
私の言葉に、レオが怪訝そうに眉を寄せる。
「なぜだ」
「届いた日に目を通さないのは、よくない兆候です。今夜のうちに読んで、今のあなたの状態で受け止めるべきだわ。明日になれば、また別の『何か』が届くかもしれない」
レオはしばし私を凝視していたが、やがて諦めたように封蝋を破った。
紙が広げられる乾いた音。
私はあえて視線を自分の手元に向け、彼が読み終えるのを待った。
部屋の中はしんと静まり返り、ただ蝋燭の炎だけが、呼吸を合わせるように揺れている。
「……クラリス」
名を呼ばれ、顔を上げる。差し出された書状を、私は静かに受け取った。
それは、無慈悲なまでの『正式命令書』だった。
領地移管に伴う任務終了。
新任地への異動、そして昇進。
何より私の目を引いたのは、新たな婚姻相手として記された名だった。
『エリシア・ヴァルクレイン』
「……エリシア様が、指定されていたのですね」
「知らなかった。今、初めて知った」
書状を返す。
彼女がこの屋敷を訪れた際、レオに向けたあの鋭い視線。その真意が、今になって氷のように冷たく胸に突き刺さる。
彼女は最初から、この結末を知っていたのかもしれない。
「どうするつもりですか?」
以前と同じ問い。けれど、今度はその手に『命令』という絶対的な重みがある。
「命令だ」
レオの答えも、以前と同じだった。
「従うのですか?」
――すぐには、答えが返ってこなかった。レオは書状を机に戻し、ゆっくりと手を離す。
「……従う、と答えるつもりだった」
「『つもり』、ということは?」
「今は、分からない」
鉄の規律を誇る騎士の口から漏れた、迷いの言葉。
「昨日までは、それが正しい判断だと思っていた。だが、今日……お前のこれまでの功績を、記録に残らない献身を再確認した。そして、トーマの記録を作ることを決めた。それらが積み重なって、今、この命令書を読んだとき――何かが変わった」
「何が、あなたを迷わせたのですか?」
「エリシア・ヴァルクレイン。彼女は有能で、合理的だ。彼女が指揮をふるえば、統治は完璧に機能するだろう。これ以上に『正しい』選択はない」
レオは一度言葉を切ると、机の上の書状から、私へと視線を上げた。
「だが……それだけではない、と思っている。合理的かどうかだけで決めていいのかと」
「決めて……いいのですか?」
「分からない。……分からないんだ」
混乱を隠さない彼に、私は穏やかに告げた。
「今夜は、分からなくていいと思います。返答の期限は今夜ではないはず。騎士としての判断と、一人の人間としての判断を、分けて考えてもいいのではありませんか?」
「騎士としては、従うべきだ」
「では人間としては?」
「……それが、分からない」
レオは書状を折りたたみ、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
「トーマの記録を終わらせる。話はそれからだ」




