85.「お一人ですか?」
レオが少しだけ表情を緩めた。
「おはようございます、レオ」
「……今更だな。さんざん話して」
「言いそびれていたので」
レオが視線を泳がせ、それから小さく息を吐いた。
「……おはよう」
朝の言葉が、二人の間にしずかに落ちた。短くて、そして確かな温かさを伴った挨拶。
☆
その日の午後、私は一人で領地の土を踏みしめていた。
レオは相変わらず執務室に籠もり、書類の山と格闘している。夕方にトーマの見舞いへ行く前に、片付けてしまいたい仕事があるのだという。
私は午前中に引き継ぎ資料の作成を一段落させ、午後の時間を外で過ごすことにした。
理由は、いくつか。
住民の様子をこの目で確かめたかったこと。
南東区域の現状を見ておきたかったこと。
そして――何より、一人になりたかった。誰の視線も気にせず、ただ独りで歩きたかったのだ。
外の空気は刺すように冷たい。でも、昨日までの尖った寒さに比べれば、どこか柔らかさを孕んでいた。
冬の終わりを告げるような、白く鋭い陽光。
長く伸びた影の輪郭は、驚くほどはっきりしている。
当初は領地の端まで行くつもりはなかった。けれど、一度歩き出すと、足が自然に先へ先へと進んでしまう。
修復を終えた水路の区画に差し掛かった。積み上げられた石組みは強固で、継ぎ目の石灰が白々と残っている。
その中を、澄んだ水が淀みなく流れていた。
ちょっと前までは、崩壊しかけていた場所だ。
それが今、こうして当たり前のように水を運んでいる。
その『当たり前』を手に入れるために、どれほどのものを積み上げてきただろうか。
「クラリス様」
ふいに声をかけられ、足を止める。
農作業の合間だろうか、住民の一人がこちらに歩み寄ってきた。
「こんにちは。今日は、お一人ですか?」
「ええ。少し確認に」
「水路、見事に動いていますね」
「そうですね。安心しました」
「あの修復のときは、うちの親父も手伝いに行ってたんですよ。親父が言っていました……ここに来て初めて、自分の手で何かを成し遂げた気がしたって」
男の言葉が、胸に静かに染み入る。
「……知っています。お父様、毎日欠かさず来てくださっていましたものね」
「ええ。領地が移管されると聞いて、みんな気落ちしちゃあいますが……。それでも、あのとき必死に動いたことは、みんな忘れないって言ってますよ」
「そう言ってもらえると、救われます」
「クラリス様は、これからどうされるんです?」
真っ直ぐな問いに、私は一瞬、答えに詰まった。
「……まだ、何も決まっていません。でも、引き継ぎがすべて終わるまでは、ここにいます」
「そうですか、でもそれで充分です」
「充分、ですか?」
「ええ。あなたがいてくれる。俺たちにとっては、それだけでいいんですよ」
その言葉の温かさを、掌に乗せるようにして受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
去っていく男の背中を見送りながら、私はしばらく水路の前に佇んでいた。絶え間のない水の音だけが、耳に心地よく響く。
南東区域に足を踏み入れると、空気の色が変わった。かつて、苦渋の決断で「封鎖」を断行した区域だ。
後回しにせざるを得なかった場所を歩く。
以前のあの張り詰めた緊張感は影を潜め、代わりに漂っていたのは重い静寂だった。
住民の顔に、以前のような『熱』はない。誰もが疲れ果て、瞳には『諦め』の色が透けて見えた。
レオが指摘していた通りの光景。それを目の当たりにして、私は何人かと短い言葉を交わした。
「落ち着いてきましたか?」
「落ち着いたっていうか、もう、疲れちまったよ」
「次の管理者が、ちゃんとやってくれればそれでいいんだ」




