84.「私の影響です」
促されるまま向かいの椅子に座ると、レオが一枚の書類を差し出してきた。
そこには水路修復に協力した住民たちのデータがあった。だが、記録されているのは『延べ人数』や『作業時間』という無機質な数字だけ。
「住民の協力は数字に置き換えられ、個人の名は一人も残っていない。トーマの名前もない。あの夜、三日連続で蝋燭を持ってきたという事実さえ、この紙の上には存在しないんだ」
「……公式の書式には、個人のエピソードを含める欄がありませんでしたから」
レオがパタンと書類を閉じた。
その音が、静かな部屋に重く響く。
「俺は守るために動いてきた。だがその結果、記録に残らないものを消し去り、お前の功績を奪う側に回っていた。……そのつもりはなかったが事実として、そうなっている」
『奪う』という言葉を、彼は過去にも使った。
意図的でないにせよ、自分がその構造の一部となり、誰かの人生や想いを透明にしてしまったこと。
それを彼は『整理』し、向き合おうとしていた。
「……昨夜、眠れなかった」
ぽつりと、彼がこぼした。
「眠れない夜は、考える。この領地のこと、お前のこと、トーマのこと、ここに来てからのこと。そうしているうちに、全部がつながっている気がしたんだ。俺が『正しさ』を軸にして動いてきた結果、何か……『顔のあるもの』を見落としてきたんじゃないかと」
「顔のあるもの、ですか」
「数字じゃない、名前があるものだ。あの日トーマが放った言葉のような、剥き出しの感情。俺の判断のなかで、切り捨ててきた部分だ」
気がする。
レオがそんな抽象的な、感覚に近い言葉を使ったのは、私の知る限りこれが初めてだった。
「『気がする』という言葉を使うのですね。……私は、いいと思います。今のあなたの状態には、それが一番正確な言葉ですから」
「……お前は、いつもそうやってはっきり言うな」
「あなたと話してきたからです。曖昧なことを嫌うあなたに慣れたせいで、私も正確でありたいと思うようになりました。――きっと私の影響ですよ」
レオが少しだけ視線を逸らし、机の上の書類に手を置いた。
「……この書類の件、修正の申請を続ける。結果が出なくても、お前の功績が正しく記されるまで、俺は声を上げ続けるつもりだ」
「ありがとうございます」
「感謝するなと言っている」
「感謝ではなく、嬉しいと言ったのです。感謝はあなたに向けたものですが、『嬉しい』は私の内側の話ですから」
「……お前は、本当に細かいな」
「正確でいようとしているだけです」
レオの口元が、ほんの少しだけ動いた。
朝の薄い光のなかでは、それが笑みなのかどうか確信は持てなかったけれど。
「パン、食べてくださいね」
私の言葉に、彼はようやく布の包みを解き、パンを一口齧った。
「……ありがとう」
「どういたしまして。感謝するなと言ったそばから、ご自分は仰るのですね」
「……そうだな」
外から、朝を告げる鳥の声が聞こえてきた。
「今日の午後、トーマのところへ行きます。一緒に来ますか?」
「行く。……公式の書類にならないとしても、俺個人であいつの記録を書き残す。あいつがどんな気持ちで、何を見ていたか。それを聞いて、引き継ぎ資料の補足にねじ込んでやる。エリシアなら、きっと読み飛ばさないはずだ」
私は、そんなレオをしばらく見つめていた。
この人は確かに『変わり始めて』いた。
「……あなたは今朝、また少し進んだ気がします」
「進んだ先に何があるかは、まだ分からんがな」
「それでいいと思います。分からないことを、分からないまま進める人こそが、本当に次に進める人ですから」




