77.「この紙切れ」
彼女は再び、息子の待つ部屋へと戻っていった。
私は静まり返った廊下に、一人で立ち尽くしていた。
――トーマは完全に回復しない可能性があるかもしれない。
医者の言葉が、呪文のように頭の中で反転していた。
☆
夜が明け、昼過ぎ。
レオがようやく屋敷に戻ってきた。
昨夜からの徹夜作業が一段落したのだろう。その表情には色濃い疲労が滲み、目の下には深い影が落ちている。
足取りも、いつもよりわずかに重そうに見えた。
「トーマの様子は」
「夜中からお母様が付き添っています。容態は、昨夜と変わりません」
「医者は」
「夕方にまた来る予定です」
「……そうか」
短いやり取りの間に、重苦しい空気が流れる。
「現場の状況は?」
「収まった。今朝のところは静かだ。怪我人は二人、いずれも軽傷で命に別状はない」
「……トーマを除いて、ですね」
「……ああ」
レオは視線を逸らし、短く間を置いた。
「カルから報告が来た」
「何の報告ですか?」
「今回の再建事業、および王宮への報告書に含まれる『功績』の取り扱いについてだ」
功績――。
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「確認してから話す。今はまず、書類に目を通す」
レオはそう言って執務室へと足を向けた。
私は扉越しに聞こえるトーマ親子の低い話し声を背中に受けながら、彼を追った。
☆
執務室には、すでにカルが待機していた。
机の上に広げられた王宮からの正式な受領書。そこには、今回の再建に関する評価が記されていた。
水路修復、配給改善、住民の安定化。並べられた輝かしい功績の数々。
けれど、そこにあるはずの名前が――違う。
すべての『指揮』と『実行』の主体はレオ・グランツとして記録され、私の名は、ただの『補佐』として片隅に一行添えられているだけだった。
「…………」
喉が詰まり、言葉が出なかった。
カルが、沈痛な面持ちで口を開く。
「エリシア様に修正を依頼していましたが……反映されていないようです。レオ様の名をクラリス様との連名にしてほしいという要請は、届かなかったか、却下されたか……」
「……そうか」
レオが書類を机に叩きつけるように置いた。
「これは」
「何かの間違いだとは聞きません」
私は彼を遮るように言った。
「分かっています。功績が、あなたのものになっている」
「……修正を、求めてはいたんだ」
「知っています。あなたがエリシアに頼んでいるのを、この目で見ていましたから。あなたが私から功績を奪おうとしたなんて、思っていません」
「だが、この紙切れが現実だ。俺は――お前から奪う形になっている」
奪う形。
その言葉が、石のように重く響く。
「結果として、そうなっている」
「それは王宮の都合です。あなたの責任ではないわ」
「俺の名で、お前の功績が書き換えられた。それが事実になっている。……これを受け入れられるか」
「受け入れるしかない現実が……世の中にはあります」
「それが答えか」
「今の私にできる、精一杯の答えです」




