71.「後から来る」
目的地に近づくにつれ、空気の緊迫感は増していった。低く、速い住民たちの囁き声。
「また来るかもしれない」
「子供を隠せ」
彼らの視線が、私という異物を射抜く。
私は一人一人に声をかけ、けが人の安否を確認し、今後の連絡先をカルに集約するよう指示を出しながら歩き続けた。
「ここです」
トーマが足を止めたのは、壁の薄い、古びた一軒の家の前だった。
彼が扉を叩くと、中から不安げな女性が顔を出した。
トーマの母親。彼女は息子を抱き寄せ、そして私を見て驚きに目を見開いた。
「昨夜は……怖かったです。叫び声がして、窓から人が揉み合うのが見えて……」
「申し訳ありません。私の判断が遅れたせいで、怖い思いをさせてしまった」
頭を下げる私に、彼女は困惑したように言った。
「あなたのせいじゃないわ。……でも、領主様がそんな風に言ってくれるなんて」
「当然のことです」
と答えながらも、私の胸には苦い後味が残った。
トーマが『外で食べられるから』と自分の取り分を母親に手渡す姿を見て、喉の奥が熱くなる。
(私が後回しにした場所に、この子たちの日常があったのに)
帰り道、隣を歩くトーマがふと口を開いた。
「クラリス様。ぼくのこと、止めようとしたのに、一緒に来てくれた」
「……そうね。止められないって分かったから、隣にいることを選んだのよ」
「ぼくの言った『放っておけない』って言葉のせい?」
「ええ。私も同じだから。この領地を引き渡すその日まで、私も、放っておけないの」
トーマは少し考えてから、前を向いて歩き出した。
「ぼく、なりたい人が分かった気がする」
「どんな人?」
「放っておけない人。でも、一緒に行ける人。……クラリス様みたいな人だ」
騎士になりたいと言っていた少年の口から出た、意外な言葉。
「私みたいな人は、騎士様よりずっと地味で、大変よ?」
「いいんだ。どっちも合わせ持った人になりたいから」
真っ直ぐな少年の背中を見送りながら、私は一人、道に立ち尽くした。
背後に広がるのは、私が『後回し』にした区域。
その判断を後悔しているかと聞かれれば、答えは出ない。
別の場所を選んでいれば、また別の場所で同じことが起きていたかもしれないから。
でも、分からないからこそ、歩みを止めるわけにはいかなかった。
☆
屋敷の玄関前には、黒い外套を翻したレオが待っていた。
状況を簡潔に伝えると、彼は
「聞いている」
と短く答えた。
「知っていたの?あそこにトーマの家族がいることを」
「地図を見れば分かる。だが、お前が決めた優先順位だ。俺が口を挟むことじゃない」
「あなたなら……別の判断をした?」
「……分からないな」
あの合理性の塊のような男が、一瞬、視線を彷徨わせた。
「同じ判断をしたかもしれないし、しなかったかもしれない。どちらが正しいかなんて、後にならないと分からないことだ。後悔は、後から来る。今は――次をどうするかだ」




