70.「その区域」
「……お前が決めたのか。後回しにした方のリスクは?」
「一週間は保つ可能性が高いわ。今週両方に手を出せば、共倒れになる」
レオは無言で私を見つめた。
「……かつてのお前には、選べなかったな」
「そうね。選ばないことで、どれだけの代償を払うことになるかを知らなかったから。今は分かっているわ。選ばないこともまた、残酷な選択肢なのだと」
レオは地図を私に返し、短く
「行くか」
と言った。
執務室を出て、廊下を歩く。昨日の私と、今日の私は違う。
全部を救おうとして全滅する夢を見るのは、もうやめた。私は守るべき順番を、自分の意志で、この手で決めたのだ。
それが正しいのか、それともただの傲慢なのかは分からない。
☆
三日後の朝、もたらされた報告が平穏を破った。
執務室の重い扉を叩いたのは、カルだった。朝食前の、まだ空気が寝静まっている時間。
彼の険しい表情を見た瞬間、私は嫌な予感に背筋を正した。
「先日、後回しに指定した区域で問題が発生しました」
「……何があったの?」
「封鎖したはずの層が別ルートで移動し、隣接区域に侵入したようです。深夜、小規模な衝突が起きました」
胃の辺りが、ぎゅっと冷たくなる。
軽傷者が一人出たが、幸い大事には至っていない。
報告を続けるカルの言葉に安堵しかけた私を、彼がさらに追い詰めた。
「ただ――その区域には、トーマの家族が住んでいます」
思考が、一瞬だけ止まった。
あの子の家族が?直接の被害はないものの、家は衝突現場のすぐ目と鼻の先だという。
「トーマ自身は昨夜、現場とは離れた友人の家に泊まり込んでいて無事でした。ですが今朝、話を聞くやいなや、制止を振り切って家族のもとへ向かったらしいです」
「レオに伝えてちょうだい。私は先に行くわ!」
私は反射的にコートを掴んだ。
カルの制止も聞かず、屋敷を飛び出す。
(私の、せいだ……)
脳裏に、数日前の地図が浮かぶ。『一週間は持ち堪えられる』と判断し、優先順位を下げた場所。
私の『三角』が、わずか三日で崩れ去ったのだ。
路地を曲がった先、凍てつく道の真ん中に小さな人影を見つけた。
見覚えのある薄手のコートを羽織り、小さな食料袋を握りしめて立ち尽くしている。
「トーマ!」
「クラリス様……」
振り返った彼の瞳は、ひどく揺れていた。
家族が心配で、でも怖くて、どうしようもないという顔。
「一人で行くのは危険よ。状況が分からないんだから」
「だから行くんだ!放っておけないだろ!」
張り裂けんばかりの叫びに、私はたじろいだ。放っておけない。それは、私が自分に言い聞かせ続けてきた言葉。
それを、私よりも小さなこの子が、震える唇で叫んでいる。
「……分かったわ。一緒に行きましょう」
「えっ、でも」
「一人で行かせて、何かあったら遅すぎる。約束して。私の言うことを聞くこと。危ないと思ったら、すぐに止まること」
私が膝をついて視線を合わせると、トーマは戸惑いながらも、小さく
「……約束する」
と頷いた。




