67. 「甘いお酒」
鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。
その時だった。
廊下から、ランドルフの老いた足音とは違う、軽やかで急いだ足音が近づいてきた。
控えめだが、どこか無遠慮なノックの音。
「……クラリス様」
聞き慣れない不自然な声質にすぐにピンと来た。
「マリエ?」
扉を開けると、そこには夜風に頬を赤くした友人の姿があった。
「どうしてこんな時間に。マリエ、その格好は……」
「噂を聞いたのよ。領地が王宮に取られるって」
彼女は有無を言わさず部屋へ滑り込んできた。
手には小さな袋が握られている。
「甘いお酒、持ってきた。……あんた、泣いてる?」
「泣いてなんかないわ」
「そう。泣かない方が、たまにきついよね」
マリエはまた当たり前のようにソファに座ると、私を隣へ促した。
小さな瓶の蓋を開け、甘い香りのする酒を勧めてくる。
「全部話さなくていい。ただ、一人でいさせちゃいけないと思っただけ」
「……ありがとう」
「感謝なんてしないでよ。……最悪だよね。あんなに頑張ったのにさ」
彼女の飾らない言葉が、頑なだった私の心を少しずつ解かしていく。
「あんたは昔から、何でも自分一人で抱え込んで。ちゃんと倒れてくれないし、泣いてもくれない。見てるこっちが心配になるのよ。学院の時からずっと」
部屋の中で、マリエの言葉だけが温かかった。
「……腹、立ってるわ。とても」
「そうだよ。腹立てていいんだよ、クラリス」
「悲しいし……すごく、辛かった」
「うん」
ようやく吐き出せたその一言に、マリエは深く頷いた。
「でもね、マリエ。まだ終わっていないの」
「……あんたは、本当にそういう人だね」
「あと二ヶ月あるもの。私がここで本気でやったことは、どこかに残ると信じたいの」
マリエは小さく笑って、私の肩に頭を預けてきた。
「残るわよ。ここの住民みんなの中に。……それと、あたしの中にも」
「マリエ……」
「前よりずっと、いい顔してる。今のあんたは、誰かにやらされてるんじゃなくて、自分で選んで立ってる感じがする。だから大丈夫」
その言葉を、お守りのように心に仕舞い込んだ。
☆
やがて、私の隣でマリエは静かな寝息を立て始めた。
私は一人、小さくなった蝋燭の炎を見つめる。
明日は北区画の最終確認だ。引き継ぎ資料も作らなければならない。トーマとの約束もある。やるべきことは、まだ山積みだ。
窓の外では、夜風が屋敷を低く叩いている。
私はその音を聞きながら、静かに、けれど確かに燃え続ける炎を見つめていた。
夜が明ければ、また戦いが始まる。私の物語は、まだ、消えていない。
☆
時間は無情にも過ぎていく。
屋敷の中では、着々と引き継ぎの準備が進んでいた。
週に一度、王宮からエリシアがやってきて書類の山を確認し、随行の官吏が淡々と記録を取っていく。
私はそれに応じるように資料をまとめ、説明し、また次の資料へと向かう。
その、果てしない繰り返し。
領民たちの間には、まだ正式な移管の話は届いていなかった。だが、不穏な噂は風に乗って広まりつつある。
どこかのタイミングで真実を告げねばならないと分かっていても、私はその『引き金』を引く勇気を見つけられずにいた。
レオは、相変わらずだった。
朝早くから配給の確認に走り、物資を管理し、壊れた箇所の修復を黙々と続ける。
任務が終わるその日まで、彼はただ、目の前の職務を遂行し続けていた。
私もそれに倣う。
やるべきことがある間は、余計なことを考えず、ただ手を動かしていた。
異変が起きたのは、引き継ぎ開始から二週間が過ぎた日の朝のことだ。




