66.「俺は騎士だ」
誰もいない廊下を歩く。
壁に沿って灯された蝋燭が、夜の静寂をぼんやりと浮かび上がらせていた。
コツコツと響く自分の足音だけが、やけに孤独に聞こえる。
執務室の扉を、指の背で軽く叩いた。
「入れ」
短く、硬い声。
扉を開けると、そこには机に向かうレオの姿があった。手元の書類を照らすためだろう、三本の蝋燭が並んで燃えている。
その光が彼の峻厳な横顔を深く縁取っていた。
私は促されるまま、向かいの椅子に腰を下ろした。
「遅かったな」
「現場でトラブルがあって。……その後、住民の方と少し話をしていました」
「何の話だ」
「来週の予定。それから、配置転換したエドモンドの様子などです。彼は新しい持ち場で、うまくやっています」
「……そうか」
レオは手元の書類を閉じ、ようやく私を真っ直ぐに見た。
「今日の作業記録は明日まとめてくれ。それと、エリシアへの引き継ぎ資料も順次整理していく必要がある。二ヶ月という期間は、思っている以上に短い」
「分かっています」
部屋が、不自然なほどの静寂に包まれた。
三本の蝋燭が、それぞれ勝手なタイミングでちろちろと揺れる。
「レオ」
「なんだ」
「王宮からの通達……あなたの『次の任務』について、考えていました」
レオの手が、かすかに止まった。
「……その話か」
「騎士資格の復権。次の任地。それから……新しい婚姻の打診。すべて書かれていました」
「従う。俺は騎士だ。命令は絶対だ」
私は、彼の瞳の奥を探るように間を置いた。
「それが、あなたの本当の答えなのですか?」
「……今は、そうだ」
『今は』。
その一言に、縋りたくなるような余韻を感じてしまうのは、私の弱さだろうか。
「どうせ、どこかへ異動になると思っていた」
レオは突き放すように続けた。
「この結婚は最初から任務だった。お前もそれは分かっていたはずだ」
「ええ。分かっていました」
「ならいい。余計な感情を使わずに済む」
余計な感情――。
その言葉が、鋭い棘となって胸を刺す。
なぜ痛むのかさえ、今の私には分からない。最初から、これは愛のない契約だった。最初から、私たちは他人同士だったはずなのに。
「……そうですか。ならば、騎士として正しい選択をなさってください」
口に出した瞬間、後悔が襲ってきた。
言いたかったのは、そんな冷たい言葉ではなかったのに。
レオが、何かを言いたげに口を割り、けれど結局は短い溜息とともに閉ざした。
「ああ。そうする」
「……今まで、ありがとうございました」
「仕事だと言っただろう。余計なことは言うな」
「……はい」
沈黙。
会話の糸は完全に途切れ、私たちは同じ部屋にいながら、まるで違う場所を見ているようだった。
「今夜はもう休め。明日も早い」
「……おやすみなさい、レオ」
立ち上がり、扉へと向かう。
最後に一度だけ振り返ると、彼はすでに書類の山へと視線を戻していた。
蝋燭の光に照らされたその背中は、出会った頃と同じように広く、そして遠かった。
自室に戻り、机の引き出しを開けると、そこには布に包まれた銀の指輪が、静かに眠っている。
(正しい選択をしてほしい。……本当に、そう思っているの?)




