64. 「同情は不要です」
「『事情の考慮』とは、感情的判断の言い換えに過ぎません。組織の規律を乱す行為です」
「同じではないと思います。感情的判断はただの衝動ですが、事情の考慮は、感情を含むあらゆる要素を総合して出す結論です」
エリシアはわずかに間を置き、淡々と続けた。
「定義の問題ですね。では、その結果はどうなりましたか」
「短期的には安定しました。住民との信頼も戻りつつあります」
「長期的には?」
「……それは、まだ見えていません」
「そうです。見えていない以上、それは評価に値しません」
彼女の言葉は、まるで鋭利なメスのように私の心を切り裂いていく。
悪意はない。
ただ、そこには『正論』という名の冷たさがあった。
「評価されなかった、ということですね」
「いいえ。『評価できなかった』のです。不可視の要素を統治の基盤に据えるのは、あまりに危険ですから」
私は彼女の瞳を見つめた。
正確で、論理的だけど、その奥に潜む何かを感じて、問いかけた。
「では、エリシア様なら、どうなさいますか?」
「厳格な処分を下した上で、不正が不可能な仕組みを即座に構築します」
「感情を、一切考慮せずに?」
「感情の介入は判断の精度を下げます。信頼とは一貫した行動から生まれるものであり、揺らぐ情けから生まれるものではありません」
「……それでも」
私は、自分の手のひらをぎゅっと握りしめた。
「それでも、私は見捨てたくない」
エリシアが、今日初めて『止まった』。
「『見捨てる』という言葉の定義が曖昧です」
「感情として、です。実際に見捨てないことと、心で見捨てないことは別であっても、その想いは必ず行動に影響します」
「だから問題なのです」
「なぜ、感情が問題なのですか?」
沈黙。
蝋燭の炎がふっと揺れる。
エリシアは、何かに耐えるように目を伏せた。
「……感情は、正確ではないからです。それは人を、狂わせる」
「正確でなくても、必要な場合があります。人が動く理由には、必ず感情が含まれる。報酬と罰則だけでは、人は本当の意味で付いてきません」
「統計的には動きます」
「統計から漏れる人間がいます。私は、その一人一人を諦めたくない」
「その選択で、何人死にますか」
エリシアの声が、重く部屋に響いた。声のトーンは変わらないのに、その言葉には血の匂いが混じっている気がした。
「死ぬだなんて……。それは、分かりません。でも、分からないからこそ、私は一人でも多くの命を繋ぐ方法を探し続けます」
「論理的ではありませんね」
「はい。ですが、これが私の出した答えです」
エリシアは、深く、深く息をついた。
溜め息ではない。何かを飲み込むような、重い呼吸。
「……あなたの考え方は理解できます。ですが、採用はしません。私には……」
彼女の視線が、わずかに窓の外へと逃げた。
「感情は、人を殺します。私の世界では、そうでした」
その瞬間、私は理解した。
この人は、感情を軽蔑しているのではない。感情の持つ恐ろしさを、誰よりも知っているからこそ、それを凍りつかせて封印しているのだ。
「……お辛い経験をなさったのですね」
エリシアは、今日一番の驚きを顔に浮かべた。
「……同情は不要です」
「同情ではありません。ただの事実の確認です」
エリシアはしばらく黙り込み、やがて小さく呟いた。
「……あなたは、厄介な人だ」




