5. 「話はその後だ」
それで、すべてだった。
使者は慇懃無礼な一礼を残し、部屋を後にした。
扉が開き、閉まる。
廊下に響く足音が遠ざかり、やがて屋敷は再び、死んだような静寂に包まれた。
一人、応接室に残された私は長椅子の背もたれに、ぐったりと体重を預けた。
淑女としての姿勢が崩れる。
けれど、それを正す気力さえ、今は湧いてこなかった。
「婚姻……」
視線の先には、空の花瓶。
透明なガラスに窓からの光が反射して、床に小さな、歪な影を落としている。
何かを考えなければ。
方法、時間、手順――。
けれど、思考は霧の中でもがくように空転する。
『間に合いません』その言葉だけが、いつまでも、耳の奥で呪文のように繰り返されていた。
☆
レオ・グランツが我が家の門を叩いたのは、王宮の使者が去ってから二日後のことだった。
その日の朝は、前日までの凍てつくような寒さが嘘のように和らいでいた。
窓から差し込む光は白く、どこか浮き足立っている。
冬の終わりはまだずっと先のはずなのに、光だけが春の真似事をして遊んでいる――そんな、ひどく落ち着かない朝。
私は応接室ではなく、玄関ホールで彼を待っていた。執事のランドルフから「まもなく到着されます」と告げられてから、ゆうに十分は経っている。
重厚な扉を凝視したまま、胸の前で手を組み、姿勢を正していた。
背筋を伸ばし、深く、静かに呼吸を整える。
(どんな人……なのかしら)
『騎士』という言葉から連想するのは、亡き父の知人たちだ。
礼儀正しく、快活で、笑い声一つで部屋を明るく照らすような人々。
あるいは、物語に出てくるような、高潔な精神を言葉に宿す英雄。
だが、開かれた扉から入り込んできたのは、そんな私の幻想を打ち砕く「冷たい外気」だった。
真っ先に目に飛び込んできたのは、その背の高さだ。
次に、夜を溶かし込んだような黒い外套。
そして――その顔。
年齢は二十代半ばといったところだろうか。
陽光に焼けた肌に、短く切り揃えられた黒髪。
無駄のない引き締まった体躯は、扉を閉めるという何気ない動作一つにさえ、鍛え抜かれた武人の鋭さを滲ませていた。
視線が、ぶつかる。
灰色の瞳だった。
明るくも暗くもない、雪を降らせる直前の曇り空に似た色。
その瞳が私を射抜き――一瞬、品定めをするように止まった。
(……値踏み、されているの?)
その不躾な視線の意味に気づき、わずかに頬がこわばる。
「ヘインフォード家の令嬢か」
それは挨拶ですらなかった。まるでただ事実を確認するかのよう。
「はい。クラリス・ヘインフォードと申します。お越しいただきありがとうございます、グランツ殿」
「ああ」
返事は、それだけだった。
私は次の一言を探して立ち往生してしまう。
普通ならここで名乗るなり、社交辞令を述べるなりするものだろう。
けれど彼は、私の困惑など知ったことではないという様子で外套を脱ぎ、ランドルフに預けると、再び私を見据えた。
「中を見せてもらう」
「……まずは応接室へご案内いたしますが」
「いやいい。まず屋敷を見る。話はその後だ」
どうやら彼の中に、貴族的な『段取り』など最初から存在しないらしい。
私は小さく息をつき、
「……承知いたしました。ご案内します」
とだけ答えた。




