41.「不味い状況」
各区域への説明を始めて一時間。
カルが再び、肩で息をしながら駆け込んできた。
「クラリス様、水路の方が収まりません!流石に不味い状況です」
「レオは?」
「既に向かっています。ですが、あまりに人数が多くて……」
私は部下に、
「続けて」
と言い残し、カルの後を追った。
走った。冬の冷気を切り裂くようにして。急激に冷たい空気を吸い込むたび、肺の奥が焼けるように痛む。
霜が溶けかけた泥に足を取られそうになりながらも、私は必死に足を動かした。
水路の合流点には、倉庫前を凌ぐ二十人以上の群衆が膨れ上がっていた。
上流側の住民と、下流側の住民。
川を挟んで対峙する彼らの間には、抜き差しならない殺気が渦巻いている。
「上流が独占するから、こっちに水が来ないんだ!」
「知るか!そっちが勝手に詰まらせてるんだろうが!」
「嘘をつけ!昨日の朝から目に見えて減ってるんだぞ!」
水路の管理が破綻すれば、真っ先に起きるのがこの『水の奪い合い』だ。どちらも生活がかかっている。だから、ぶつかるしかない。
その濁流のような怒りの真ん中に、レオ・グランツはいた。
彼は一人、両陣営の中間に立っていた。部下を伴わず、たった一人で。
誰も彼に話しかけてはいない。
だが、彼がそこに『在る』だけで、空気がわずかに凝固していた。
怒号の合間に、奇妙な空白が生まれる。
私が近づくと、レオと一度だけ目が合った。
「……上流側の言い分を聞こう」
レオが、上流側の男たちへ向けて低く言い放った。
「聞いてどうする!いいからさっさと水を戻せ!」
「戻すためには原因を直す必要がある。現状を把握せずに動けるか」
「その間にも農地が干上がるんだよ!」
「焦るのは分かる」
レオの声はどこまでも平坦だ。
「だが、今すぐどちらが正しいと決めることはできない。双方の話を聞かなければ、俺は判断を下さない」
「じゃあ聞けばいいだろう!」
「だから聞いている。続けろ」
男が言葉を詰まらせた。
怒鳴るのと話すのは、脳の違う場所を使う。
問いかけられ、思考を促された瞬間、彼らの熱狂にわずかな隙が生まれた。
「……昨日の朝から、水量が半分になった。今朝はさらに酷い。このままじゃ冬を越せないんだ」
「下流側はどうだ」
「こっちは三日前からだ」
下流の女性が叫ぶ。
「上流が意図的に堰き止めてるんだと思って、見に来たらこの有様だよ!」
レオが手帳に素早くペンを走らせる。
「水路そのものに土砂が詰まっているか、漏水している可能性があるな。誰かが盗んでいるのではなく、構造自体の欠陥だ」
「構造だと?」
「確認しなければ断言はできない」
再び不満が爆発しそうになったその時、レオが背後の部下に短く命じた。
「通路を封鎖しろ」
「えっ」
私が驚く間に、部下たちが橋の通行を制限し始めた。
「レオ、住民の行き来を止めるのは流石に……!」
「話し合いをするための措置だ。永続ではない、今だけだ」
「反発を招きます!」
「このまま殴り合いを続けさせて、怪我人を出すよりはマシだ」
言い返せなかった。それは、あまりにも正論だった。
「……分かりました」
橋の手前に部下たちが立ちはだかる。
上流側の男たちが詰め寄るが、レオの放った一言が彼らを縫い止めた。
「待てと言っている」




